後編
改稿しました。
──そして日々は過ぎ。
また巡り来た主人の出仕の無い日。
俺は春の季節外れの小雪の降る街角に立っていた。
宝飾店の扉の傍、主人は許嫁である令嬢と共に中に居る。
あのヒアシンスを渡した夜の話し合いで俺の休日は申告制に決まり休日返上分、給金が上がる事になった。
願っても無い事で機嫌良く従者を務めていた。
そして今日になって初めてその愚かさを呪う事になったのだ。
主人には許嫁が居る。
何故忘れ果てていたのか、オーランド様の間も無い婚姻を。
オーランド様にとって何の関係も無い事、それは俺の感情。
それが異常でも妥当でも、欲でも恋でも。
とっくに分かっていた事を今更残酷に思い知って心が凍る。
慣れた仕草で婚約者の手を取る姿。
微笑みかける優しげな目。
何の権利も無いのに嫉妬した。
途轍もなく胸が痛い。
この人を自分のものに出来る筈など無いのに…。
─ただ俺だけを見つめていて欲しい。
その夜俺はいつもの様に湯浴みをする彼を衝立の陰で待ちながら不毛な想いを持て余していた。
タオルを巻いて現れた肩にバスローブを着せ掛ける。
いつもは目を逸らせていた姿を今日は真っ直ぐ見つめた。
やはり何と美しい肢体である事か。
だがこの極上の肌も心も下僕の俺には何の関係も無い。
檻の中の駄犬が遠くの餌を見て涎を垂らしているだけなのだ。
そして何と残酷な主人であろうか。
檻の駄犬に時々餌をぶら下げて臭いだけを嗅がせに来るのだ。「マッサージを頼む」と言われた。
「彼女と会った日は何故か良い眠りが訪れなくてね」
横たわりながら言う。
「…愛しい方にお会いになられた喜びで高揚していらっしゃるのでしょう」
自分の言葉で自分が傷付いた。
「……」主人は無言でうつ伏せている。
俺は足に触れようと手を伸ばす。
すると彼は横に膝を曲げこちらに向き直った。
半身を起こし片肘で支えながら俺を見据える。
そのまま片足を上げ俺の胸を蹴るようにして指先で突いた。
二、三度グイグイと押しつけながら俺を睨む。
「僕が…羨ましいの?」
違う、そうじゃないんだ。
胸が真っ黒に淀んだ。
思わず彼の足首を掴んでその動きを止めながら言う。
「令嬢がたいへんお美しかったので…」
彼は一瞬傷付きでもしたような視線を俺に向けてから唇の端を上げた。
「だから今日、やけに物欲しそうな目付きで見てたんだ」
意地悪そうな笑み。
突如悔しさと怒り、強い悲しみが入り混じる。
先程胸に湧いた真っ黒い何かに突き動かされ足首を握った手に力が込もった。
「何…?痛い。離して」
無視して激情に駆られたまま顔を寄せ白いふくらはぎ辺りに唇と舌を這わせた。
足は一瞬筋肉をこわばらせた。しかし逃げなかった。
くちづけた途端、肌の甘さと極上の感触に囚われる。
そして仄かに甘やかな香り。体臭にしては甘美な…この香は。
あの香りだ。あのヒヤシンス。
俺を見つめる彼の視線を感じる。
だが何故か掴まれた足を引こうともせずじっとしている。
─まさか俺の好きにしていいのか?
その肌触りと香に頭の中を支配され思考能力を失くした。
両手で抱え頬ずりをし、まるでかぶりつきでもする様に深く執拗にくちづける。
どのくらいの時間そうしていたのか、気が付くと白肌に赤い血の痣…。
くちづけの痕を残していた。
我に返った俺は呆然とその痣を見つめて言った。
「オーランド様どうか罰を。俺を解雇にして下さい。とんでも無い……事を」
俺は主人にいったい何て事をしたのか。
彼は体を起こし足の赤い痕を手で覆い隠すようにしながらゆっくり撫でて言った。
「絶対に、嫌だね」
そして腕を伸ばし俺の髪に触れ、優しく指を絡ませる。
「きれいな赤い巻毛をしてる。太陽神みたいだ」
驚いて呆然と見つめる俺の顔を覗き込む彼の目が悪戯っぽく細められた。
「俺を…揶揄っているんですか?」
「……馬鹿言うな。君を気に入っていると言ってるだろ」
髪をまさぐっていた指が降りてきてうなじを擽る。
俺の身体の中心に火が灯る。
「じゃ……誘惑してます?」声が掠れた。
緑の瞳が挑むように俺の目を見つめそして唇に視線を落とし顔を近付けて来て艶めく唇が囁く。
「いや?」吐息が甘い。
「なら…やめようか?」
柔らかな声に魅入られ何度も何度も首を振る。
目眩がして洪水に押し流される幻が見えた。
─そして歯止めが外れる音が大きく身体中に響いたのだ。
「……レオ」
カチャリと音がして皆が寝静まった頃、隣の続き部屋から俺のベッドに潜り込んでくるのはオーランド様だ。
あの夜、俺はオーランド様の唇や胸や身体中の足より更に甘い場所をいくつもいくつも知った。
甘くかぐわしい身体を俺は夢中で掻き抱く。
あの夜から二日に一度、三日に一度と。
気が向くと主人の部屋の広いベッドからわざわざ狭いベッドの俺の胸に潜り込むオーランド様はこういう時だけ俺をレオと呼ぶ。
「レオ、僕の太陽神。君の赤毛、綺麗で大好きだよ…」
俺の髪をまさぐりくちづける身体を回転させ両腕を押さえてシーツに縫いつける。
あなたのサラサラ流れる亜麻色の髪の方が何倍も綺麗です。
心で叫んで咬み付くようにくちづけた。
もう俺はこの人に夢中でいつもいつも、そう四六時中この人の事しか考えられなくなっている。
特にこういう時には凶暴な独占欲に駆られる。
「もし、仮に俺が太陽神ならあなたはヒュアキントスですか?だったらあなたを殺して…血を啜ってもいい?」
目を潤ませて乞い願うように言うと俺の首に腕を廻しながら囁き声で甘える。
「うん、いいよ。君になら何をされたって…」と。
本当には、殺人者はヒュアキントスに恋し太陽神との仲を嫉妬した男らしい。
「決してそんな者に奪わせない。俺はあなたを誰にも盗られたくない…!」
またくちづけてきつく抱き締めた。
─恐ろしい。
こんな陶酔を与えられ。
しかし先には大きな奈落が待っているのを知っているのだ。
そう。この方はもうすぐ……。
月に一度オーランド様が婚約者と会う日が来る。
暗い情念を秘めて付き従う俺にこの人は目もくれない。
ただひたすら美しい令嬢を見つめ微笑みかける彼。
やはり俺はただの従者でこの人の附属物なのか。
令嬢がバートン邸を訪ねて来た日。
応接間の扉の内側に立つ俺に「おまえ、少し席を外しなさい」
俺に向けた命令だった。
テーブルを挟み歓談していた二人だったが、令嬢が立ち上りオーランド様の座るソファーの隣に移った時の事だ。
戸惑っている俺に「ぐずぐずと。命じた事が聞こえ無かったの?出て行きなさい」
美しい口から出たと思えない険のある言葉だった。
「……少し外してくれ、エヴァンス」
令嬢に目を向けたまま、オーランド様は言った。
礼を取って扉の外に立ち直した俺の心には黒々とした嫉妬が渦巻き目の前が暗く淀んだ。
婚礼まであと一ヶ月と少し。
俺には自信が無かった。
このままだと俺はきっと嫉妬でヒュアキントスを殺した男になってしまうに違い無い。
結婚生活を始めたオーランド様には絶対に付き従えない。
今のうちにこの方の従者を辞めよう。
しかしこんな風に俺のベッドに潜り込んで来る彼の余りの愛しさを手放す事も出来ず浅ましく彼を求める俺。
行くも帰るも地獄の中を俺はいつまでひとりでもがき続けなければならないのだろう。
王国で一番の権威ある教会の扉の前だった。
「おまえはいつまでオーランド様に付き纏うつもりなの?」
ブレア公爵令嬢が無表情のまま俺にだけ聞こえる小声で通り過ぎざま放った言葉。
結婚式の打ち合わせの為に教会に来ていた主人の護衛で扉の前に立っていたのだ。
話し終え見送りに出た司教と挨拶を交わすオーランド様より先に扉に近付いて来た令嬢。
彼女はそのまま俺の存在など気づきもしなかった振りで離れて行った。
立ち竦んだまま微動だに出来なくなった俺を残して。
──潮時だ。
心の深い場所でその声は響いた。
皆が寝静まった深夜、俺は初めて続き部屋の扉をノックした。鍵が掛かっていないのは知っている。
オーランド様のベッドに近付くと彼はまだ起きていて嬉しそうに俺に両手を伸ばす姿が可愛くて悲しかった。
俺はその手を取り甲にくちづけてから言った。
「御主人様…どうか従者の役目を解いて下さい」
彼は目を見開き上半身を起こす。
「あなたが奥様と過ごす場所に俺の様な存在が侍る事はなりません」
泣くつもりは無く自分が泣くとも思わなかった。
「俺を棄てるべきです」
だが一筋の涙がこぼれた。
オーランド様が息を飲む。
「僕の婚姻はもう何があろうと覆せない。僕一人ではなく家の問題で、この貴族社界のルールなんだ」
「分かっています。だから俺を…」
「君を手放すつもりは無い…!一生だ」
立ったままの俺の腰に縋り付く。
抱き締めたい気持ちを押し殺し歯を食いしばった。
今流される訳にはいかない。
「このままでは俺はあなたを殺しかねません。耐える自信がないんです」
彼は更に腕の力を込め暫くじっとしていたがやがて何の反応もしない俺を見上げた。
「…そう」
小さく呟きゆっくりと腕を解き俺を離した。
のろのろとベッドから足を下ろすと立って脇のチェストに手を伸ばす。
何をするつもりか測りかねて見つめていると引き出しから何かを取り出した。
俺を向く。「なら」
差し出された刃が灯りを受けて鈍く光った。
「僕を殺せ」
「…何を」
「そうすればレオを失わずに済むんだっ…」
俺の手を取りナイフを握らせながら震える声で言う。
「僕を殺せはレオも死刑……一緒に逝ける…」
「オーランド…さ」
「赦さない。僕を棄てる事など」
状況の把握が出来ず呆然とオーランド様を見つめていると、ナイフを握らせた俺の手ごと流れるような動きで自分の頸動脈に当てた。
そして何の躊躇いも無く引こうとした。
背筋の凍った俺は全力でその力に抗った。
だが彼の首に赤い筋が走る。
必死で取り上げたナイフが俺の強張った指を離れベッドを滑り床に落ちる。
拾おうと身を捻り腕を伸ばす彼の身体を俺はぶつかる様にして抱きとめた。
「止めて下さい!…もう」
抗う彼を抱き竦め必死で押さえ込む。
暫く抵抗していたがやがて諦めたようにベッドの上にしゃがみこんだ。
俺は何より傷が気になって首に目をやる。
血は滲んでいるが深手ではなさそうだ。
手を伸ばし傷に触れようとした俺の手は叩き落とされた。
「僕が要らないなら…もう、…触れるな!」
こんな駄々をこねる子供のような彼を見るなんて…。
「僕はレオしか要らないのに…」
本当にこんな時なのに愛おしくて心が震える。
思わず彼の肩を掴んで引き寄せ傷にくちづけてから滲む血を丁寧に舐めとった。
彼は俺を睨むように見つめ、血のついた俺の唇を舐めてから皮肉げに笑った。
「レオが…僕を要らないなら僕ももう、僕が要らない…」
言いざま首に爪を立て傷を引っ掻いた。
「やめろ!!」
手首を掴み背を抱く俺に「ここから引き裂いて僕の血を啜れ、啜りたいって言っただろ。啜り尽くして殺せ!」
「…オーランド様」
…まさか…俺が居ないだけでこの人はこんなに傷つくのか…?
俺の一言がこの人をこんなにも傷つけるのか?
腕の中で震える人をきつく抱き締めた俺は急激に覚った。
─ああ、そうか。
この人が欲しくて、自分のものにして離したくなかった。
でも奪われそうになって傷付くのが嫌で手放そうとした俺。
…そうじゃないんだ、逆なんだ。
俺がこの人のものになってあらゆる事から守るんだ。
この人が傷付かない為になら俺自身はいくら傷付いても構わないんだ。
この人が誰のものでも、俺のものじゃなくても、そんな事どうだっていい。
失いたくないものはただ愛しいあなたの存在だけ、あなたの笑顔だけだったというのに。
顔を、潤む緑の瞳を覗き込んで告げる。
「死ぬなんて…殺せなんて言わないで。もう決してどこにも行かないから」
再び傷口にくちづけると俺の耳元でか細く声が囁く。
「……どこにも、行かない…?」
頷く。
「僕がどんなに我儘で醜くても…?」
「かまいません…」
「離れ…ない?」
愛しい存在を腕の中深く包み込み強く頷いた。
「…はい。もう、決して!」
あなたの為なら俺くらい捧げる、いくらでも…!
その後、結局俺は従者の職を解かれバートン邸を離れた。
オーランド様にあの夜の俺の行動の一因になった令嬢の言葉を告げたからだ。
「あなたの側には居るがどこかに住いを見つけて通いにしたい」と言うと白状させられた。
そういう事ならブレア家に連れて行かない。
もう令嬢の目にも触れさせない。
あろう事か短期間で貴族街の外れに小さな邸宅を見つけて購入し俺をそこに置いた。
結婚式が終わったら自分もここに通うつもりらしい。
「男妾になった気分です」
と不満を漏らす俺だったが。
「男妾」と少し頬を上気させ繰り返した彼に「…気に入ったようですが悪趣味極まりないですね」
と睨むと、ハッとした顔で首を振った。
もう俺はあなたが嬉しいならそれでいい。
いつもは高みから皆を睥睨している男が俺の前では身も蓋もない程に取り乱す。
そして俺の前でだけあんなに可愛く笑う。
どんな姿も俺にだけ見せる。
男妾だろうと何だろうと何でも構わない。安いプライドなど彼を二度と泣かせない為、ドブに捨てよう。
あの夜、夜明け近くまで二人で話した。
オーランド様はずっと以前に俺を見つけたと言う。
王宮で俺に気付き護衛に立つ姿をいつも見ていたと。
俺の心拍は再びはねた。
こんな可愛い告白などされた事が無かった。
幼い頃から恋心を抱くのはいつも同性で実る事など生涯無いと諦め生きて来たと。
でも宰相の代理でいやいや行った狩猟会での出来事があった。
「レオが優しいから…見てるだけじゃいられなくなって、レオが…欲しくて」
彼の白肌が薄桃に上気する。
「長く悩んだけど生涯で一度だけ恋を、いやレオを手に入れる努力をしてみようと…必死で振り向かせようと」
ああ…なのに俺は懸命に自分を律していたのか。
「やっと捕まえたと思ったのに…逃げようとする…レオが側に居ないの嫌だ…もう」
俺の胸に顔を伏せ抱きつく肩が震えた。
シャツに暖かい涙が滲む。
声も出さずに泣く…ずっとそうして泣いていたのか。
「…俺を必要として下さるのですね」
「レオしか必要じゃない」
それならこの人に必要とされる限りは一生この人に付き従って生きて行こうと思う。
もう決めた。
俺はもう、このヒアシンスの香りに囚われて離れられないのだから。
オーランド様の結婚式の日がやって来た。
この家に移ってから毎日訪れていた彼はさすがに昨日から姿を見せない。
それはそうだ。
今夜は初夜だし少なくとも一週間、いやもっと自由は効かないだろう。
いくら政略でも新婚だし公爵家の跡継ぎも必要な筈だ。
もう考えるのは止めよう。
覚悟を決めたとて嫉妬心は燻ぶる。
情け無い姿だけは見せないでいよう。
そうして背を伸ばしながらも朝から同じ問答を繰り返し自分に言い聞かせていた。
そんな俺の懐にオーランド様が飛び込んで来たのは夜が更けてからだった。
「ああ、やっと抜け出せた!」
抱きついて来た彼を抱き返しながら戸惑う。
彼の温もりに嬉しさがこみ上げるけれど心配もする。
「……花嫁は?初夜をどうしたんです?」
と間抜けな質問をせざるをえない俺に彼は眉を下げて笑う。
「僕に女が抱けると思う?僕が抱かれて眠るのはずっとレオの胸だけ。僕にはレオの腕の中が一番向いている」
事情をまだ確かに理解は出来ていないが俺の胸に居る彼を抱き締められる喜びに心が躍る。
「おかえり。俺のオーランド様」
「うん。ただいま、僕のレオ」
腕の中で笑う彼が幸せそうで俺の世界が満たされて行く。
この笑顔を守りたい。
俺のヒュアキントスが永遠に美しく笑っていられるように。
完




