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前編

白絹のような肌だ。

その人を見た時そう思った。

その日は例年より時期の遅れた王宮主催の狩猟会の護衛任務に就いていた。

護衛と言えど王家所有の森で関係者以外おいそれと入り込める場所では無く狼のような危険動物が居る訳でも無い。

王家の威厳を示す為の飾り物なだけの緊張感の無い任務だ。

「ブレア公爵様のテントへこれを」差し出されたのはタオルと毛布、そして貴族男性物らしい着替え一式だった。

狩りの途中で雨が降ったのだ。

開始時は晴れていたが先程結構な雨脚で振り、あっという間に振り止んだ。

しかし森にいた者は皆ずぶ濡れである。

晩秋の今、雨を弾く素材の隊服を身に着けている俺でも寒かった。

「失礼致します。お着替えをお持ち致しました」

と声を掛けてテントに入ると目に飛び込んで来たのだ。

焚火の炎に照らされて妖しく浮かぶその白絹の肌が。

「し、失礼致しました。」と慌てて顔を伏せた。

彼は絹のブラウスをはだけてハンカチで身体を拭っていた。

「ああ、いいよ。…ありがとう」

彼は腕を伸ばして俺の捧げ持っていた着替え一式を受け取った。

顔を伏せた俺の前でブラウスを脱ぎ捨て毛布を羽織ったようだ。

顔を上げると頭からタオルを被って毛布を巻いた姿だった。

彼は目を伏せ僅かに震えている、少し迷ったが声を掛けた。

「お顔の色が優れないご様子ですが…」

「ああ身体が冷えたようだ。少し寒い」顔を上げて言った。

「湯をお持ちしましょう。お待ち下さい」俺は本部のメインテントに沸いている湯と盥を運び込み「お御足をどうぞ」

と言って足を浸けさせ跪き「少し…触れても?」と顔を見上げた。

俺を見て頷いたので足首を持ちマッサージを始めた。

俺は庶民の出だ、風邪を引いても医者など呼べる身分ではない。

親父の具合が悪くなるとよくお袋がこうやっていた。

暫く続け湯が冷め始めた頃タオルで足を拭う。

「ありがとう暖まったよ。気持ちもいい…こんなやり方知らなかったよ」

と笑った顔に血色が戻っていてホッとした。

「良かったです。安心いたしました」

そう言った俺の顔の血色も良かった筈だ。

正直俺はドキドキしていた、足の手触りが極上だったから。

彼の足は男の足だ。

(しな)やかな筋肉に被われていて決して華奢な女の足とは違う物なのに。

テントを出て本部に戻りながら複雑な気分になった。

今までこんな欲情に似た感情は異性にしか抱いた事が無かった。

男が男に春を売る店の存在は知ってはいても興味を抱いた事も無かったのに。

いや……駄目だ。高貴なお貴族様に対してこんな物思いにふけっているのがバレたらそれだけで首が飛ぶ、そう自分に言い聞かせて止めた。

きっと一時の気の迷いだ、思いを振り払う様に首を振った。



任務明けで思った。明日は非番だし少し酒場(パブ)にでも行くか…。

狩猟会の日から数日経った今でもふとした瞬間にあの肌が頭に浮かぶのだ。

変な奴になる前に上書きが必要な気がする。

酒場のドアを開けると明るい声が響いた。

「あ、レオ!いらっしゃい。久しぶりね」

笑顔のマリアに小さな花束を渡す。さっき街角で少女から買ったものだ。

貧しい子や親の無い子の活計(たつき)なのだ、見かける度に買う事にしている。

カウンターテーブルでペールエールを頼んだらカウンターに入って来たマリアが渡してくれた、一杯勧めて乾杯する。

「本当に久しぶり、どこで浮気してたの?レオの恋人はあたしでしょ?」と笑った。「お、嬉しい事言ってくれるけどこれ以上奢れないぞ。金がない!」

と言えば今度は声を上げて笑ってくれた。

そして顔を寄せ「今日は来れるの?」と囁く。「…ああ」と頷くとツマミの皿の下に隠してフラットの鍵をくれた、急いでポケットに隠す。

少し離れた席の男が睨んだ。見えてはいなかった筈だがマリア狙いなのだろう。

ニシンとソーセージそして二三杯飲んでから店を出た。

マリアのフラットで待っていると程なく帰って来たマリアに

「ほんとに浮気してたんじゃないでしょうね」

と言われ「お前に言われたくないね」と返してから思った。

男にときめいたのも浮気なのか?

マリアは良い女だ。でも恋人には向かない、気が向けば誰とでも付き合うからだ。こんなのに惚れたらとんでも無い事になる。

でも良い奴なのでよく悩みを聞いてもらったりする。

たまには…まあ、こうやって慰めてもらったりだとかも。

マリアのフラットで翌日の昼過ぎまでウダウダ過ごしてから兵舎に帰ったのだが

俺はかなり当惑していた。

マリアの肌をまさぐった時に思わずあの足の手触りと比べ少し萎えかけた自分が

いたからだ。



「よく来てくれたね。レオ・エヴァンス」

ノックをして足を踏み入れた王宮の一室。

先程上官からバートン伯爵御令息様が君をお呼びになっている

執務室まで伺うように、と言われ首を(ひね)った。

呼ばれる覚えが無かったからだ、接点など無い。

バートン伯爵家は知っていた、王都の貴族の間で有名な美形一家だ。そして部屋を持っているなら王宮勤務の次男だろう。

宰相の娘の許嫁で近々婿になる次期宰相と目される男。

以前謁見の間の扉を警護していた時、宰相と娘、そしてその許嫁が来た。慇懃に頭を下げ扉を開けた覚えがある。

目だけ上げて盗み見た時たまたま向こうも目を向けていて視線が合った気がして肝を冷したのだった…

王国の薔薇と称される宰相の娘はさすがの美しさだったがその美姫の手を取る男も美しかった。

背まで伸ばした亜麻色の髪を項で纏め理知的な額に眼鏡越しにでも切れ長の目の中の緑色の瞳が美しいのが分かった。

世の中には恵まれた生まれの上に才色兼備で当然のように美人を嫁にする奴も居るんだな…不公平な事だ。と我が身を思ったものだ。

……などと思い出しながら「は!お呼びと伺い参じました。私に何かご用命でもお有りでしょうか?」と敬礼をして踵を打った。

一瞬間が空いた。そしてゆっくり微笑んだ彼は纏めた髪をおろし二三度指で梳いてから眼鏡を外して言った

 「今日は冷えるねエヴァンス。だからまた足浴(フッドバス)を頼みたいんだけど…」

俺は目を見開く。

白絹の肌の…え?……オーランド・バートン…って…彼が?

あの晩秋の日から2ケ月余りやっと忘れかけていた白い肌……

混乱で頭が纏まらない俺にオーランド・バートンが可愛く首を傾げた。「湯と盥は用意してあるよ。ここでお願いしたいんだけどいいかな?」

ああ…俺は間抜けだ、あの白肌と次期宰相を結び付けた事も無い。

そういえばあの時着替えを届けたのはブレア公爵…宰相のテントだったというのに…

跪いて足をマッサージする俺に椅子に腰掛けた彼は言った。

「ああ……これだ…。最近よく眠れなくて…。狩りの夜は熟睡できたから足浴(フッドバス)が良かったのかと思ってね、メイドなんかに頼むんだけど何か違うんだ。

気持ちいい……君じゃなきゃ駄目だったんだね」

やめてくれ…。“あぁ…気持ちいい……君じゃなきゃ”って

今の俺の耳には淫靡に聞こえてしまう…この足の手触りだけでも心臓が早鐘を打っているのに…。

俯いた顔の紅潮が止まらない、耳まで赤くなれば不審だろう。

一生懸命違う事を考えていたのに台無しだ。

早く湯が冷めてこの時間が終わって欲しいような永遠に続いて欲しいような……

そんな時間が終わりまた敬礼をして部屋を下がろうとした俺に執務机に移動していた彼が言った。

「エヴァンス。君さ、王宮(ここ)辞めて僕の専属にならない?」

俺は言葉に詰まった。何だかまた違う意味で複雑な気分になった。

「…閣下は自分にマッサージ係になれとのご指図でしょうか?」

「いや、それは…」言いさして暫し考えた。

「ごめん、失礼だったね。正直それも希望なんだけど……うん。君がとても気に入ったから。じゃ駄目かな?」

姿が綺麗で…動作が可愛すぎる。また心臓が脈打った。



次の非番の日、俺は生家に向かっていた。

俺の生家は下町の商店街にある八百屋で貧乏人の子沢山、俺を入れて6人兄妹だ。

兄と俺、下は4人とも妹。

3年前に親父が死んだ後、八百屋を継いだ兄が今年25歳になった。

嫁がいて去年息子を産んだ。あとはお袋がいて23歳の俺、少し離れて16歳、14歳の双子、10歳と続く。

だから嫁入りに金が要る。少しでも稼ぐ為、衛兵に応募したら採用された。

貧しくても身元がはっきりしていた事と背が高かった事あと少しばかり見栄えが良かったのが効いたらしい。

王宮の兵はやはり飾りもんの側面があるのだ。

だが庶民はいつまでたっても平だ。上官は無能だろうがお貴族様しかなれない。まあ大金が積める奴は別だが…。

「あらレオじゃない。どうしたの?」赤ん坊をおぶった兄の嫁が店番をしていた。

「おう久しぶり、ちょっとな。兄貴いる?」

「ええ、早く入んなさいよ。あんた!あんたー!レオよ」奥に向かって兄を呼ぶ。この嫁は近所の娘で俺とも幼馴染だ。

わらわらと皆出てきた。狭い家にすし詰めで暮らしている。

でもうちは飢えた事が無いだけ他よりマシなんだろう。

台所のテーブルに皆が座ってから宣言した。

「お袋、兄貴、俺さ、王宮勤めを辞める事になりそうだ」

オーランド・バートンの可愛さに思わず頷きそうになった俺だったがすんでで

「…暫く考える時間を下さい」と答える事が出来た。

だいたい可愛いって何なんだ。彼は去年学園を卒業した筈だから20か21歳の筈だ背の高さも俺と大差無いし(しな)やかな筋肉もちゃんとついている。

どこからどう見ても立派な成人男性じゃないか。

「うん、わかった。…受けてくれれば報酬は今の2倍以上を約束するよ。良い返事を待っている」美しい唇が笑んで言った。

もう数週間は悩んだ。問題はこの仄暗い欲望なんだ。

それさえ無ければ一もニも無く飛び付くような好条件なのに。

 毎日、あのお方の傍で平常心を保つ、あるいは保つ振りが出来るだろうか。

なので家族、特に妹達を見に来た。こいつらの為なら変な欲望を捨てて頑張る事が出来ると自分を戒める為に。

「仕送りも増やす事が出来そうなんだ。兄ちゃん頑張るから安心してくれ」と言うとお袋が「あんまり無理はするんじゃないよ」と言い、兄貴も「悪い事さえしなきゃ好きに生きろ」と言った。

下の妹の「うん。兄ちゃんのしたいようにして大丈夫だよ。わたし達だって頑張るからっ!」って言葉。

思わず妹達をまとめて抱きしめた。可愛いを勘違いするな俺!

可愛いってやっぱりこう云う事だろ。


「君、兵舎住まい?じゃ明日中に部屋引き払って荷物ごとバートン邸に来てくれる?業務は明後日からね。」

決心の翌日、上官に面会願いを出したら即日呼ばれ「よろしくお願いいたします」と頭を下げた時言われた言葉だ。

「え?し、しかし…」

「大丈夫。王宮側には僕が手をまわしておくから」

その言葉に少し呆れたが、言われた通りにたいして無い荷物をぶら下げ昼過ぎに通用門から邸を訪ねるとハウスキーパーだという眼鏡のオバさんに使用人用の部屋に案内された。適度な広さの1人部屋。

宿舎はこれより狭くて二人部屋だったから充分過ぎる環境だ。

オバさんは「坊ちゃまがお戻りになる迄お待ち下さい。邸は後ほど案内させます」と言って去り、やがて若い男の使用人がやって来て邸中を引き回された。

広い上に細々と各方面に紹介されるので目が廻る。

日が暮れて()()()()に呼ばれた頃にはもう結構気疲れしていた。

「げんなりした顔だね。大丈夫、すぐに覚えられるよ。

もっとも覚えたところであと半年も無いくらいでまた引っ越しだけどね」

そうか…ブレア家への婿入りは半年後なのか…。

「よろしければ足浴を致しましょうか?」と言うと「いいの?今日はまだ給金外だよ」でも、嬉しそうだ。

俺も彼を見て後ろめたい欲望を抱いた事は否定出来ない。

就寝前に頼むと言われ案内された使用人用食堂で夕食を取ったが俺には大層な御馳走だった。

呼ばれて彼の部屋へ入ると中は案外落ち着いたトーンの家具やカーテンが配置されている。華美さは無いがしかし上質なものなのだろう。

ドレッサーの前に座り初老のメイドにブラシで髪を梳かせている。

鏡越しに俺を見て「少し待って」と言うので扉の横でいつもの警備の姿勢を取った、私服なので様になっていないが。

メイドがお辞儀をして出て行くと立ち上り俺の前に立った。

腰に手を当て俺を上から下まで観察するように眺め回すが俺は必死で目を逸らせていた。彼がバスローブ姿だったからだ。

今まで見た中で一番露出が激しく目のやり場に困るとはこの事だった。

……勿論、変なのは自分の方なのは承知している。

「か、閣下。入浴をお済ませですか?」耐え切れず口を開いた

「閣下…は止めてくれないか。うん、入浴した。」

「で、では何とお呼びすれば……そして、であれば足浴の必要は…」

「マッサージ…」少し首を傾げ俺を見つめて言った。

そして踵を返し部屋の中心部にあるデカいベッドに寝転がった

「僕の事は名前で呼んでくれないか?」

俯向けで肘を付き上半身だけを僅かに起こして言った。

「……オーランド…様。では、そちらでお御足を…?」

黙って頷いて完全に俯向きに寝た。

密かに唾を飲み込んだ。

……何の拷問だろう…こんな複雑な気分の責苦があるもんか。

心拍を鎮めながらノロノロと近付くと頭は伏せたまま足元のオットマンを指差した。

「失礼致します」とそれを引き寄せ座った俺はオズオズと足首にふれる。

足首から脹ら脛まで掌を滑らせた。

「……っ」彼が何らかの反応を示した。ドキッとする。

相変らずの極上の手触りをなるべく意識から追い出して殉教者になった様な無心の気持ちのキープを心掛ける。

湯が無いのでいつまで続けていれば良いのか分からない。

そう思っていたら…「…ありがとう、もういいよ」小さな声が聞こえた。

俺は静かに立ち上り無言で深く礼を取ってから部屋を退出した。

その後で、与えられたばかりの自室に戻り完璧な変質者になってしまった気分の自身を自覚し悶絶した。

しかしこの時点の俺はまだ甘かった事をその翌日知る事になったのだった。

 


翌日、早朝に起こされた俺は昨夜オーランド様の髪を梳かしていたメイドに紅茶の淹れ方から正式なベッドメイク、簡易なシミ抜き髭の剃り方。まるでメイドがする様な仕事の手ほどきを受け「仕事です」と言われ、訳が分からなかったが妹達の顔を思い浮かべてとにかく熟す事に集中した。

メイドからとりあえずの合格点を貰うとやっと昼食にありつけた。

時間はもう昼をはるかに回っており、思い返すと朝食を取って居なかった事に気がついた。

疲れ果てていると、知らない紳士が近付いて来て「外出いたします。オーランド様のご指示です」と馬車に乗せられた。

連れて行かれたのは高級感溢れるテーラーでその紳士からとりあえずの既製品のラウンジスーツやフロックコートが与えられ

寸法を測られてからのオーダーメイドで数着の注文をされた。

そんな金は無いし置く場所も無いと言うと「あなたは御自分の業務をまだ理解して居られないのですか?」と聞かれ「俺は護衛として雇われた筈だ」と言うと溜息を吐かれた。

「…それはオーランド様のあなたへの説明不足か、それともお考えがあるのかもしれませんね」と言い今夜御主人様からもう一度説明をお受け下さいお伝えしておきます。と締め括った。

そして(あるじ)は「良く似合う。ちゃんと紳士に見えるね」と言ったあと「深い考えなんか無いよ。君に伝わって無いと思わなかっただけ」と笑った。

「そうだね。君は衛兵だったから専属ってお願いしたら誤解するかも知れないね。でも昨日の庶民然とした出で立ちでは勤まらない仕事なんだ。それとも制服を支給されて我家の門兵でも務めるつもりだった?」

「いや、門兵だとは…」言い淀む俺に彼はチェストの引き出しから小型のリボルバーと折り畳み式のナイフを取り出し一個づつ 手渡した。

「これを預けるよ。勿論扱えるよね?君に警護任務があるのは君の理解で合っている。でもこの国では貴族が個人的な警護兵や軍を持つ事は基本許されない。

だから君は僕の()()の位置づけなんだ」

従者の仕事とは、主人の警護だけではない。

朝の仕事は主人を起こす事から始まり朝食の補助と紅茶のサーブ、髭剃りや身支度を手伝う。

スケジュールを管理調整して財布、鍵、書類は預かり持つ。それらを行いつつ外出時は勿論その警護。

帰宅後は着替え入浴の補助を行いベッドの安全を確認し主人の就寝後は脱いだ衣服の片付けを行い一日の終了。

「それに君の主人は足浴(マッサージ)も期待してるんだ…。」

俺は今朝からの“仕事の手ほどき”の理由をやっと理解し

暫し呆けてから高給には訳があると知った。

「今日君をテーラーに案内したのは弟の従者だ。あの時間弟は学園だ。

手も空くしあの者が適任だと判断して任せた…ああ衣服費は僕の負担だから安心して。それから…」

バスルームと衣装室以外のこの部屋にあるもう一つの扉を指さした。この部屋の続き部屋の扉だ。「明日からはあの扉の向こうが君の部屋だからね」

従者は当然主人が呼べば最短で駆け付ける事が出来る場所で生活すると言う訳だった。

言い渡された以上居るのが最期になる部屋に帰り呆然とする。

俺に務まるだろうか…いや耐えられるだろうか。

着替えの手伝いに入浴の補助だと…?

目を覆いたくなる惨状を晒す自分の想像がつき不安になる。

今なら職を辞す手もあるのだ。(あるじ)に暗い欲望を抱いたとて何を期待する訳でもないし何も出来る訳も無い。きっぱり離れた方が我が身の為だと思うのだが…。

ここまで来た以上やはり彼の傍を離れたくないと思う自分に困惑する。



たどたどしく自分の心を整理しながら務めるうち一ヶ月余りが経った。

当初の不安と心配をよそに案外俺は上手くやれている。

仕事の殆どは主人に“大切な人に尽くしたい”と云う気持ちを持てれば難なくこなせる作業であった。“大切な人”を恋心を含ませた意味で捉える自分に少々屈託を抱くが気が付かない振りでやり過ごす。

気持ちを欲では無く()と位置づけたのも良かった。

入浴補助は湯を足したりタオルや着替えを用意するだけで別に背を流せなどと言われる事も無かった。たまに絹の素肌を目にする事があっても美しい絵画だと自分に思い込ませた上で、極力目を逸らす。

入浴後の足のマッサージは毎日ではなく極たまに求められるだけでその時も手触りの良い絹に触れているのだ、と欲をやり過ごす事にも慣れて来た。

貴族邸の豪勢な部屋暮しと高級な衣服にもなんとか馴染めて、

細々(こまごま)と自分に課した制約がありはしてもバートン邸での仕事で彼の身近に侍る事に不安を感じる事無く過ごせている。

そんなある日ハウスキーパーに唐突に明日は休みだと告げられた。

オーランド様の王宮出仕が無く今日は他の従者を連れてお出掛けになると言う。

「あなたも仕事に慣れた様だしこれからは定期的に休日を差しあげます」と言われ嬉しい事の筈が何故か爪弾きにあったような気分になった自分が不思議だった。

ここに来て初めての休日は朝寝から始まった、所謂フテ寝だ。

昼近くまで寝てから邸内の庭をブラ付き顔見知りになった庭師とバカ話をした後、部屋に戻り手持ち無沙汰を感じた。

そして隣の気配の無い(あるじ)の部屋を意識して首を振った。

淋しいのは最近当たり前に側に居たから慣れないだけだ。と自分に言い聞かせ、する事も思い付かなかったので久しぶりに街に出掛けた。

商店街をひやかしてから生家に寄れば妹達の大歓迎を受け案外楽しかった。

結局は夕飯まで生家で済ませて帰途につく。

乗合い馬車を待っていたら花売りの少女に声を掛けられた。

それはいつもの白や黄色の小ぶりの花束では無く青紫の百合に似た小花が連なって咲く端然とした一輪。

いつものように小銭を渡してやって受け取ったその花を眺めていたらふといつも花を買うと渡していたマリアを思い付く。

一杯引っ掛けて帰るのもアリかと酒場(パブ)に足を向けた。

いつもより遅い時間だがまだ店にはいるだろう、今日彼女に欲を抱く事は無いが花を渡して少し愚痴をこぼすのもいい…。

店の扉が見えた所で立ち止まる。丁度マリアが出て来る姿が見えた。

元気そうだ…声を掛けようと歩を進めたらマリアを追うように男が出て来た。

マリアはその男を振り返り腕を絡ませる。

何と無く見覚えがある⋯確かあの時俺を睨んでいた男のようだ。

見ている俺に気付かず接吻(くちづけ)を交わした二人はそのまま身を寄せるようにして裏通りへ消えて行った。「…そうだよな、もう数カ月は顔を出さなかったんだもんな」

少し淋しく、肩透かしを食らった気分の俺はそのままブラブラと歩いてバートン邸まで帰りついた。

かなり夜もふけ静まり返る邸の廊下を静かに進み部屋に辿り着いた。鍵を開け部屋に入った途端軽いノック音がして続き部屋の扉が静かに空いた。

覗いた顔は当然オーランド様だったが…

思いもよらぬ事態にぎょっとして立ち竦んだ俺を見て(あるじ)は言った。

「エヴァンス…遅かったね」そう言ってから俺の手に目をやる

「何か持っている?」

怪しまれたのかと焦った俺は慌てて持った儘だった花を差し出した。

「ああ…花か。ヒアシンスだね…綺麗だ」主の顔が微かに笑む。

「ヒア…シンス…?って名の花なんですか…」

「そうさ。血から生まれた花」甘い香りはするがこの花が?「……血?」

「神話さ。太陽神に愛されたヒュアキントス…この花の名の少年が死んで流した血から咲いた花だと…」

少年の…血。何故か心の芯が疼いた。

「どうしたの、これ?誰かに貰った?」ちらっと睨む。

「あ、いえとんでも無い。たまたま街の花売りがいたから…

「へえ?花売りの…野生にしては早咲きだ。……これ欲しいな、もらってもいい?」

花売りは街角や空地に咲く野生の花を摘んで売り歩く。

「あ…そんな物でよければ…」

オーランド様は花の匂いを確かめるように鼻先に近付けた。

甘く濃厚で少し青臭いような野生の花…早春の野の香り。

その姿の余りの儚さに暫し見惚れてから我に返って慌てて聞いた。

「な、何か俺…私にご用でも御座いましたか?」

(あるじ)はふっと笑い言った。

「いや、エヴァンスの顔が見たくて待っていた」待って…俺を?

固まる俺に可愛く笑う。

「今日みたいな日は気疲れするんだ…いつも側に居てくれた君も居なかったしね」唾を飲み込み急いで言う。

「俺もです…!あ、私も、私も何だか手持ち無沙汰で、オーランド様にお仕えしていた方が……その、ら…くで」側に居たい気持ちを変に思われずに何と表現していいか分からず思わず言った。

「休みは…もう取りたくないです。要らないです。」

(あるじ)は一瞬驚いた顔をしたあと笑い出した。「そんな訳には行かないよ。僕は鬼じゃないし…」

自分の突飛な発言に再び固まる俺を見て(あるじ)は暫くくすくす笑いを続けていた。

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