86.女傑を乗せた魔導車
帝都の石畳を、豪奢な馬車が滑るように進んでいく。
車体にはフォン・ヴォルグ家の紋章である双頭の鷲が誇らしげに刻まれており、すれ違う人々が思わず足を止めて見入るほどの威厳と風格を放っていた。
車内には、緊張で指先を震わせるソフィアと、それを向かいの席で落ち着かない様子で見守るギルバート、そして付き添いのヨランダが座っている。
今日のソフィアは、いつもの作業用エプロン姿ではない。
この日のために新調された、春の若草色を思わせる柔らかなシルクのドレスを身に纏っていた。
袖口や襟元には繊細なレースが施され、短い緋色の髪には小さな真珠をあしらった髪飾りが揺れている。
ヨランダによって丁寧におめかしを施されたその姿は、まるで森の中から迷い込んだ妖精のように愛らしかった。
だが、当の本人は落ち着かない様子で、何度もドレスの裾を整えては溜息を漏らしている。
「ギ、ギルさん。私、本当にこのような格好で良かったのでしょうか。何だか身体がむず痒くて、歩くたびにどこかを破ってしまいそうで……」
「気にするな、非常によく似合っている。母上も、ありのままの君を……いや、そのように美しく装った君を見れば、きっと喜ぶはずだ」
ギルバートは頬を赤らめ、視線を泳がせながら答えた。
ソフィアの可憐な姿に、彼は内心で猛烈な動揺を覚えているのだが、それを悟られまいと必死に平静を装っている。
「エスメラルダ様は、どのようなお方なのですか」
「一言で言えば、女傑だ。名門公爵家の令嬢として育ち、若い頃は社交界の薔薇と謳われながらも、その実態は軍の将官たちすら震え上がらせるほどの切れ者だった。今でも、親父殿を完全に尻に敷いているからな」
「ひえっ……」
「だが、道理を重んじる方だ。君が怯える必要はまったくない」
普通であれば、そんな恐ろしい前評を聞かされれば、厳格な義母像を想像して震え上がってしまうだろう。
だが、ソフィアが抱いた懸念は、やはり職人らしい誠実なものだった。
「そんなに凄いお方に、私が無作法をしてご迷惑をおかけしないでしょうか。お茶の作法も、先ほどヨランダさんに教わったばかりの付け焼き刃ですし……。せっかくお招きいただいたのに、気分を害されたらどうしようかと、そればかりが心配で」
自分の評価よりも、相手に不快な思いをさせないかという慈愛が先立つ。
その清らかな精神に、ギルバートは胸を締め付けられるような愛おしさを覚えた。
「ところで、ギルさんは今も軍の宿舎で一人暮らしをされているのですよね。なぜ今日はお店までお迎えに来てくださったのですか」
「ああ、それは……。実家に向かう道中でもあるし、何より私が君をエスコートしたかったからだ。……それに、今の宿舎は少々手狭でな。近いうちに、帝都の広いマンションへ引っ越そうと考えている」
ギルバートは居住まいを正し、決死の覚悟でソフィアの瞳を見つめた。
「将来のことを見据えて、二人で住むにも十分すぎるほど広い場所を探そうと思っている。……君はどう思う、フィー」
「まあっ。それは素晴らしいですね。ギルさんがゆったりと寛げるお部屋が見つかると良いですね。私のお店からも近ければ、いつでも杖の点検に伺えますしっ」
ソフィアは一点の曇りもない笑顔で、両手を叩いて喜んだ。
ギルバートの決死の同棲アピールは、彼女の驚異的な鈍感さの前に、跡形もなく霧散してしまった。
「鈍ちんソフィアモン。ドンカンギルモンとは、本当にお似合いのカップルですわね」
「お揃いですね、ギルさん」
「……ああ、そうだな。お揃いだな……」
ギルバートは力なく頷き、窓の外へと視線を逸らした。
彼の前途が多難であることを、ヨランダだけが憐れみの目で見つめていた。
◇
馬車が高級住宅街へと差し掛かった頃、前方に停まったままの豪華な魔導車が視界に入った。
運転手らしき男が焦った様子でボンネットを開けているが、一向に動く気配はない。
「魔力回路が詰まっていますね。このままではエンジンが焼き切れてしまいますわ」
ソフィアは車窓からその様子を見るなり、反射的に扉へと手をかけた。
「フィー、どこへ行くんだっ」
「困っている方を放っておけませんわっ。ギルさん、少しだけ待っていてくださいね」
せっかくおめかししたドレスの裾を翻し、ソフィアは軽やかな足取りで馬車を飛び出した。
魔導車の傍らには、優雅なドレスを纏い、扇子で口元を隠した貴婦人が立ち尽くしている。
「大丈夫ですか」
ソフィアが声をかけると、その貴婦人は驚いたように振り返った。
若草色の気品あるドレスに、美しく結い上げられた髪。
これからどこかの夜会にでも向かうのかと思われるほどの装いをした少女が、迷わず自分の元へ駆け寄ってきたからだ。
「あらあら、可愛らしいお嬢さん。でも、見ての通り車が壊れてしまって……。汚れが飛び散るかもしれませんから、こちらへ来てはいけませんわ」
貴婦人は穏やかにソフィアを制した。
その後ろから、顔面を蒼白にしたギルバートが駆け寄ってくる。
「フィーっ、勝手な真似を……っ」
ギルバートの言葉が、貴婦人の顔を見た瞬間に凍りついた。
そこにいたのは、紛れもない実の母、エスメラルダ・フォン・ヴォルグだったからである。
エスメラルダは扇子の奥で鋭い眼光を放ち、ギルバートに無言の圧力をかけた。
「よろしければ、私が拝見しましょうか。魔力回路の不具合なら、すぐに直せますわ」
「ありがとう。でも、あなたはそのように綺麗に装っていらっしゃる。そんなに素敵なドレスを泥で汚してしまっては、せっかくのおめかしが台無しになってしまいますわよ」
エスメラルダはソフィアの全身を、吟味するように、それでいて慈しむように見つめた。
そのドレスが、今日自分の屋敷へ来るためのものであることも察している。
「そんなこと、困っている方を助けない理由にはなりませんわ。お洋服の汚れは洗えば落ちますが、今ここでこの子を直さなければ、大切な約束に間に合わなくなってしまいますもの」
ソフィアはにっこりと微笑むと、迷うことなく車体の下へと潜り込んだ。
高価なシルクのドレスが地面の砂に擦れ、白いレースが油に汚れるのも厭わない。
彼女にとって、目の前の命ある魔道具を救うことは、自身の外見を整えることよりも遥かに優先されるべきことだった。
エスメラルダは、絶句して立ち尽くした。
自分を偽り、表面だけを美しく飾ることに汲々とする貴族の子女ばかりを見てきた彼女にとって、ソフィアの行動は衝撃的だった。
自分の誇りを、ドレスの汚れなどという些細なものに委ねない、真の職人の気高さ。
「よしっ、繋がりましたわっ」
数分後、ソフィアは額に薄らと油をつけたまま、晴れやかな表情で這い出してきた。
彼女が魔導車に優しく手を触れると、沈黙していた回路が嘘のように脈打ち、心地よい駆動音が響き始める。
「素晴らしい腕前ですわ。助かりました、本当にありがとう」
エスメラルダは、ソフィアの泥だらけになった手を、躊躇なく自らの手で包み込んだ。
「ああ、もうこんな時間。急がないと、待ち合わせの方を待たせてしまいますね」
「よろしければ、私の車で送らせてくださるかしら。お礼もしたいのですわ」
「えっ、でも私には馬車がありますし……」
「気にしないでちょうだい。実は、私もヴォルグ邸に用がありますの。あなた方もそちらの方向でしょう」
エスメラルダは有無を言わさぬ笑顔で、ソフィアを車の後部座席へと導いた。
泥だらけのドレスで豪華なシートを汚すことを躊躇うソフィアに、構いませんわと優しく微笑む。
後ろで見ていたギルバートとヨランダは、滝のような冷や汗を流しながら、死罪を待つ囚人のような心地で同乗した。
エスメラルダの瞳には、ソフィアに対する深い興味と、確かな好意が宿っている。
当のソフィアだけが、自分が今、帝国の女傑による最難関の抜き打ち面接を、百点満点で突破したことに気づかぬまま、窓の外を眺めて微笑んでいた。




