82.愚息の過去と、切り札の道化師
冷たく湿った地下牢獄の中。
リヒトの脳裏に、かつての血を吐くような日々の記憶が鮮明に蘇っていた。
偉大なる光の賢者、ガンダールヴルの実の息子として生を受けた彼に課せられたのは、息の詰まるような過酷な修練だった。
何度魔法を失敗しても、父の目は氷のように冷たかった。どれほど努力し、手の皮が剥けて血を流そうとも、父から温かい言葉をかけられたことは一度もない。
(父さんに、認めてほしい。ただ、よくやったと頭を撫でてほしい)
その一心で、リヒトはもがき苦しんだ。
だが、彼には光魔法の絶対的な才能が欠けていた。限界を感じた彼は、父に認められるだけの実力を手に入れるため、禁忌とされる闇の魔法使いの元へと身を投じたのだ。
瘴気に塗れ、自身の命を削りながら闇の魔法を習得する日々。
そうして数年後、圧倒的な力を手にして故郷へと戻った彼が見たものは、残酷な現実であった。
かつて氷のように冷酷だった父は、すっかりと丸くなり、リヒト以外の見ず知らずの弟子たちに温かい笑顔を向けていたのだ。
自分の血の滲むような努力は、完全に無意味だった。父は自分を見限り、他人に愛情を注ぐようになっていたのである。
(ふざけるな。俺がこんなに頑張っても認めてくれなかったのに。じゃあ、俺の努力は、流した血は、一体なんなんだよっ)
行き場を失った絶望と憎悪が、彼を完全に闇へと堕とす決定打となった。
そうして彼は身分を偽り、裏社会で血に塗れる暗殺者『ジョーカー』となったのである。
◇
「親父を苦しめるためなら、なんだってやるさ。だからボクは、この世界を滅ぼそうとする魔族に魂を売ったんだ」
リヒトは薄暗い牢獄の中で、両手を広げて大仰に語り終えた。
「どうだい、嬢ちゃん。ボクがどれだけ純粋な悪党か、これでわかっただろう」
凄惨な過去をひけらかし、底知れない狂気をアピールする。
しかし、硬い椅子に縛り付けられたソフィアの表情は、どこまでも穏やかなままであった。
「いいえ。あなたはちっとも悪党なんかじゃありません」
ソフィアは真っ直ぐにリヒトの目を見つめ、透き通るような声で断言した。
「あなたはただ、大好きなお父様に褒めてほしいだけです。その不器用な思いは、昔からちっとも変わっていないんでしょう」
「ッ」
急所を正確に射抜かれ、リヒトの顔が激しく引き攣った。
彼は慌てて懐から鋭いトランプを取り出し、ソフィアの白く細い首元へと突きつける。
「適当なことを抜かすな。このカードで、お前の綺麗な首を切り落としてやろうか」
「誤魔化しても無駄です」
首筋に冷たい紙の刃を当てられても、ソフィアは全く怯むことなく、リヒトの両手へと視線を移した。
「あなたのその手。指先や掌の付け根にある分厚いタコは、暗殺用の暗器やトランプを弄ってできるものではありません。幼い頃から、何万回、何十万回と『杖』を振り続けてきた、血の滲むような努力の証です」
リヒトがハッと息を呑み、思わず己の手元へと視線を落とす。
ソフィアはさらに、リヒトの腰に提げられた奇妙なステッキへと目を向けた。
「杖も、嘘はつけません」
ソフィアの『虚無の魔眼』が、ステッキの真実の姿を捉えていた。
「あなたはそれを光の魔法で偽装して、ただの奇術用のステッキに見せかけています。でも、その内側にあるのは、傷だらけでボロボロになった、古い木製の魔法杖ですよね」
「黙れ」
「なぜ、わざわざ偽装してまで使い続けるんですか。新しい杖を買えばいいはずなのに。それは、その杖が、お父様から初めて貰った大切なものだからでしょう」
ソフィアの言葉が、牢獄の冷たい空気を震わせる。
「お父様が本当に憎くて嫌いなら、どうしてそんなものを、いつまでも大切に持っているんですか」
「黙れっ。黙れぇっ!」
リヒトは激昂し、子供のように声を荒らげた。
偽り続けてきた自身の脆い精神が、魔力を持たない少女によって粉々に打ち砕かれていく。
「お前に何がわかるっ。魔法使いでもないお前にっ。ただの杖職人でしかないお前に、ボクの何がわかるって言うんだっ」
悲痛な叫び声が、石壁に反響する。
ソフィアは痛ましそうに幻の犬耳を伏せ、優しく、包み込むような声で紡いだ。
「ええ。わたしはただの杖職人です。でも、杖職人にしかわからないこともあります」
ソフィアは拘束されたまま、ふわりと温かい微笑みを浮かべる。
「杖は、持ち主の心を映す鏡です。とても雄弁なんですよ。あなたのそのボロボロの杖が、すべてを教えてくれました。あなたがまだ、お父様に認められたがっているということを」
「……っ」
リヒトの手から力が抜け、トランプがパラパラと冷たい床にこぼれ落ちた。
彼は顔を覆い、肩を震わせて立ち尽くす。
「親父は……。親父は、こんな俺を、認めてくれるかなぁ……」
その声は、闇の暗殺者ジョーカーのものではない。
ただ父親の愛情を渇望する、迷子になった少年の切実な響きであった。
「あの人は、馬鹿じゃありません。ちゃんと認めてくれますよ」
ソフィアが力強く頷いたその時である。
ギィィッ、と重々しい音を立てて牢獄の鉄扉が開かれた。
「おい、リヒト。時間だ」
仮面の魔族が、不気味な瘴気を漂わせて姿を現した。
「ガンダールヴルたちが、取引の場所に到着したようだ。行くぞ」
魔族の言葉に、リヒトは顔を覆っていた手を下ろす。
その顔には再び、道化師の歪んだ狂気の笑みが張り付いていた。
◇
帝都から遠く離れた、荒涼たる岩山の広場。
乾いた風が砂埃を舞い上げる中、ガンダールヴル、ファフニール、ラーズスヴィズ、そしてギルバートたち一行が、重苦しい沈黙を保って立っていた。
空間が歪み、魔族とリヒト、そして縛られたソフィアが姿を現す。
「フィーっ」
ギルバートが思わず叫び、一歩前へ出ようとする。
しかし、魔族がソフィアの首元に凶悪な爪を突きつけたため、歯を食いしばって立ち止まるしかなかった。
「よく来たな、光の賢者よ。約束通り、命を貰おうか」
魔族の歪んだ声が、岩山に響き渡る。
ガンダールヴルは静かに歩み出た。魔族の配下によって、老賢者の両腕に魔力を封じる重い呪いの鎖が掛けられる。
「ソフィア嬢を解放しろ」
ガンダールヴルの言葉に従い、魔族が顎で合図を送る。
リヒトがソフィアの縄を解き、背中を押してギルバートたちの元へと歩かせた。
「フィーっ。怪我はないか」
ギルバートが駆け寄り、ソフィアの小さな体を強く抱きしめる。
ソフィアは「大丈夫です」と微笑み返し、彼に守られながらガンダールヴルの背中をじっと見つめていた。
ソフィアという人質を失っても、魔族に焦りの色は全くない。
すでに最大の脅威である光の賢者は、魔力封じの鎖に縛られ、完全に無力化されているのだから。
「さて、誰がこの老いぼれの首を刎ねるか」
魔族が楽しげに周囲を見渡した時、リヒトがスッと前に出た。
「ボクにやらせてくれよ」
リヒトは口の端を吊り上げ、歪んだ笑みを浮かべる。
「ずっと、この時を待ってたんだ。憎き親父を、この手で殺したくてたまらないんだぜ」
その言葉には、狂気に満ちた本物の殺意が混じっていた。
魔族は満足そうに頷き、完全にリヒトを信用して処刑人の役割を任せる。
「いいだろう。親殺しの業、とくと味わうがいい」
リヒトはステッキを手に、ゆっくりとガンダールヴルの前へと歩み寄る。
老賢者は抵抗することなく、静かに目を閉じて自身の死を受け入れていた。
「じゃあな、親父」
リヒトがステッキを高く振り上げる。
魔族が、人間界の最高戦力の死を完全に確信して醜悪な笑みを浮かべた、まさにその瞬間であった。
シュァンッ。
リヒトの手の中で、奇術用のステッキを覆っていた偽装の魔法が解かれた。
姿を現したのは、傷だらけでボロボロになった、一本の古い木製の魔法杖。
ザシュッ。
肉を切り裂く鈍い音が、荒涼たる岩山に響き渡る。
しかし、血飛沫を上げて倒れ伏したのは、ガンダールヴルではなかった。
「……ば、ばかなっ」
背後で成り行きを見守っていた仮面の魔族が、自身の胸から噴き出すおびただしい血を見下ろして驚愕の声を上げた。
リヒトの放った不可視の光の刃が、魔族の急所を正確に貫いていたのだ。
「リヒト……お主っ」
目を開けたガンダールヴルが、信じられないものを見るように息子を見つめる。
リヒトは無言のまま、手にしていたボロボロの杖を、父親の胸元へと放り投げた。
ガンダールヴルの縛られた手に、かつて自分が息子に贈った古い杖が収まる。
その瞬間、ガンダールヴルはすべてを理解した。息子の不器用な愛と、己の犯した罪の重さを。
老賢者の両眼から、大粒の涙が溢れ出す。
ガンダールヴルは魔力封じの鎖を引きちぎらんばかりの力で杖を握り締め、息子から託された魔力を増幅させ、残る力をすべて振り絞った。
極大の光魔法が、荒涼たる岩山を真昼のように照らし出す。
浄化の光の奔流が、致命傷を負ってうずくまる魔族へと容赦なく降り注いだ。
「ぎゃあああああああああっ」
断末魔の叫びを上げ、魔族の体が光に飲まれてチリとなって消滅していく。
「ばかな……。なぜ、我らを裏切った……」
消えゆく魔族の最期の問いかけに、リヒトは道化師の仮面を投げ捨て、ふっと寂しげな、だがどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「悪いな。ボクはジョーカー。裏切り者であると同時に、最強の『切り札』なのさ」
砂埃が晴れた岩山に、リヒトの涼やかな声だけが静かに響き渡るのだった。




