74. 早朝から神業
翌朝。ひんやりとした朝霧に包まれる帝都の上空から、巨大な老竜が静かに舞い降りた。
ファフニールに送られ、ソフィアとギルバートは無事に自身の工房であるフクロウ亭へと帰還を果たす。
「まさか、ものの数分で国境を越えてしまうとは……」
「さすがです、ファフ様!」
人間の姿になったファフニールが、ふんぞり返って胸を張る。ソフィアに褒められ、すっかり得意になっているようだ。
「こんな街中で竜の姿など見せれば、大騒ぎになるぞ……」
「戯けが。なるわけないだろうが」
「は……?」
呆れるギルバートに対し、ソフィアは目をキラキラさせながら解説する。
「認識阻害の高度な魔法を、結界に混ぜて展開していたんですっ。すごい緻密な術式でした!」
神速で移動していたため、当然、本人(竜)以外にはかなりの風圧や負荷がかかる。そうならないよう、ファフニールの体の周りには強固な結界が展開されていたのだ。
しかも、そこに他者から認識されなくなる魔法までも織り込んでいたのである。
二つの魔法をただ混ぜるのではなく、干渉させずに同時展開する。それは二つの絵の具を、色が濁らないように混ぜるに等しい神業であった。
(さすがは特級魔法使い。賢者といったところか)
一級魔導士であるギルバートは、理屈は理解できてもそれを自身の技として再現することは不可能である。しかし、そんな次元の違う凄技を、ソフィアは一目見ただけで完全に理解できていた。
(ソフィア……彼女に魔力があれば、きっと容易く特級になれただろう)
目で見て、理解し、言語化できる。それはつまり、完璧に術式の再現が可能であるということだ。
しかし皮肉なことに、己の中に魔力を持たない『魔力ゼロ』の特異体質でなければ、その深淵の領域には達することができないのであった。
さて。
三人はそのままフクロウ亭の中へと入る。
カランコロンとドアベルを鳴らして店内に入ると、そこには腕を組み、仁王立ちで待ち構えるジュリアンの姿があった。徹夜で起きていたのか、目の下にはうっすらと隈ができている。
「おかえり、フィア。君が無事で本当によかった」
「ご、ごめんなさいっ」
心配をかけた罪悪感から、ソフィアは幻の犬耳をペタンと伏せてペコペコと平謝りする。
ジュリアンはソフィアの頭を優しく撫でた後、背後に立つギルバートへと鋭い視線を向けた。
「間違いは、なかったな」
「無論だ」
男同士の低い声での確認に、ギルバートは堂々と胸を張って答える。
実はギルバートは、試験の運営側に「野営する」という連絡を魔導電話で入れていた。しかし、ソフィアは設計図に夢中でそのことをすっかり忘れていたのである。
「野営の件は聞いたが、まさか『朝帰り』になるとは聞いていないぞ」
「夜の魔物が蠢く森を歩く方が、よほど危ないとは思わんのか」
ジュリアンの抗議に、ギルバートが正論を突き返す。
二人の間に静かな火花が散り、バチバチと睨み合いが続いた。
「……おっしゃる通りですね」
「だろう?」
結局、安全を最優先にしたギルバートの判断が正しいと、ジュリアンが渋々ながら認める形でその場は収まる。
「とはいえ、フィア。遅くなるなら連絡を入れるべきだ」
「ごめんなさい……」
「いいんだ。次から気をつけなさい。といっても、君は昔から、杖のことになると全てを後回しにしちゃうからね」
そう、別に今回に限ったことではないのだ。ソフィアは「えへへ……」と恥ずかしそうに頭をかく。
「で、収穫はあったのかい?」
「うんっ! お兄ちゃん、結界のアイデアができたのっ」
不穏な空気を誤魔化すように、ソフィアは興奮気味に鼻息を荒くして設計図を差し出した。
ジュリアンはそれを受け取ると、少しだけ困ったような、気遣うような微笑みを浮かべる。
「わかった。では、私が確認しておく。少し時間がかかりそうだから、君は自分のことをしてきなさい」
遠回しな言い方であったが、ソフィアの服には焚き火の煙や土の匂いが染み付いている。「身支度と着替えをしてきなさい」という、兄としての優しい配慮であった。
「あっ。はいっ、すぐに行ってきますっ」
自身の匂いに気づいたソフィアは顔を真っ赤にし、そそくさと店の奥の居住区へと退散していった。
パタンと扉が閉まる音を聞き届け、ジュリアンがギルバートに向かって肩をすくめる。
「大事な妹と朝帰りしても、手を出さないなんて。やはり紳士ですね、あなたは」
ジュリアンの呆れ半分、感心半分の皮肉に対し、ギルバートは涼しい顔で返す。
皮肉の真意に全く気づいていない生真面目な騎士の態度に、ジュリアンは小さくため息をついて設計図へと視線を落とした。
しばらくして、奥の扉が再び開いた。
ふわりと、石鹸とほのかな香水の甘い匂いが店内に漂う。
「お待たせしましたっ」
着替えを終えて現れたソフィアの姿に、ギルバートとジュリアンは揃って目を見開いた。
ヨランダの手によって、なぜかお化粧までバッチリと済まされた「おめかしソフィア」がそこにいたのだ。
ほんのりと色づいた唇と、艶やかに結い上げられた緋色の髪。お忍びデートの余韻を残すような可憐さに、男二人はくらくらと眩暈を覚える。
「うぉほん! さて。フィア、設計図は見たよ。素晴らしいアイデアだ。すぐに私の商会に手配を済ませておいた」
「ありがとうございますっ。あれ、マリアさんの商会ではなくて?」
ジュリアンの言葉に、ソフィアは不思議そうに首を傾げた。
帝国の物流といえば、OTK商会が強いはずである。
「マリアの商会は帝国が拠点だ。試験会場である奈落の森は隣国のゲータ・ニィガだからね。そちらに強い私の実家の商会を使ったのさ」
「あ、そっか。なるほどですっ」
物流のプロフェッショナルとしての的確な判断に、ソフィアはポンと手を打って納得した。
ふと視線を横に向けると、ギルバートがソフィアの可愛さに照れ、気まずそうに顔を逸らしている。
「ギルさん、なんで目を逸らすんですか?」
自分の姿に見惚れられているのだと悟り、ソフィアは嬉しくなって幻の尻尾をパタパタと振る。
わざと顔を覗き込むように下から見つめると、ギルバートは耳まで真っ赤にして咳払いをした。
「わかってやってるだろっ」
「はいっ」
にこーっと満面の笑みを浮かべるソフィア。
小悪魔的な振る舞いに、帝国軍の精鋭である大佐は完全に陥落し、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
甘い空気を満喫したのも束の間、ソフィアの表情がふっと引き締まった。
いちゃいちゃモードから一転、その顔には一流の杖職人としての凄みが宿る。
「資材の手配が済んだなら、私は結界の要となるパーツを作りますね」
ソフィアは作業台に向かい、特殊な鉱石を手に取って『魔力杭』の削り出しを始めた。
その様子を見つめながら、ジュリアンが真剣な声で疑問を投げかける。
「フィア。設計図のロジックは理解したが、杖職人として一つ懸念がある。通常、杖の木材は数年かけて完全に乾燥させるものだ」
「はい」
水分を含んだままの生木では、キャンプの薪が燃えにくいのと同じで、魔力の伝導率が著しく下がるのである。
「どうやって森の木全体に結界の魔力を行き渡らせるんだ?」
ジュリアンの指摘は、魔法界の常識であった。
だがソフィアは手元の彫刻刀をピタリと止めて振り返り、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「だから、この杭を打ち込むんです」
彼女の手には、二十センチほどの鋭い杭が握られていた。
ソフィアは再び細かな粉塵を散らしながら、杭の表面に肉眼では見えないほどの極小サイズで、複雑怪奇な術式を刻み込んでいく。
「魔力を大量に蓄えておける『霊脈石』でできたこの杭には、魔力の『蓄力』『加速』『排出』の術式をびっしりと彫り込んでいます。魔力が通りにくいなら、このブースターで魔力を極限まで溜め込み、強制的に超加速させて一気に押し出しますっ」
「ば、馬鹿なっ。そんな過剰な加速をさせたら、摩擦熱と負荷で杖自体が燃え尽きてしまうぞ。だから普通の杖にそんなブースターは付けられないんだ」
ジュリアンが驚愕の声を上げ、頭を抱える。
だが、ソフィアの彫刻刀の動きは全くブレない。シャリ、シャリという硬質な音が、静かな工房に響き続ける。
「はい。普通の杖なら、一瞬で大爆発します」
「なら、どうして」
「相手は、何百年も生きた巨大な大樹だからですっ。幹の中をたっぷりと満たす冷たい水分と樹液が、摩擦熱を相殺する『天然の冷却水』になってくれるんですよ」
その解答を聞いた瞬間、ジュリアンとギルバートは息を呑んだ。
生木の弱点であるはずの「水分」を逆手に取り、巨大な木だからこそ耐えられる規格外の魔力術式を叩き込む。自然の理を完全に読み切った、杖職人としての究極の解答であった。
顕微鏡すら使わず、魔眼の視覚だけを頼りにミクロの術式を刻み続ける少女の背中。
先ほどまで小悪魔のように微笑んでいた彼女が振るう神域の技術に、二人の男はただただ畏敬の念を抱き、言葉を失って立ち尽くすのだった。




