96.緋色のやきもち
自分の生み出した杖にヤキモチを焼くという、前代未聞の複雑な乙女心。
その正体不明のもにゃもにゃとした感情から逃れるため、ソフィアは職人としての仕事に没頭することに決めた。
ヴォルグ公爵邸に滞在して家を空けていた十日間の間に、工房にはいくつもの注文が溜まっていたのだ。
そのどれもが、冒険者たちが命を預ける大切な杖のメンテナンス依頼である。
ソフィアは作業着に着替え、工房の机に向かった。
目の前の仕事に全神経を集中させると、竜杖に対する理不尽なヤキモチは、あっという間に頭の中から完全に消え去る。
一本、また一本と、丁寧に杖の魔力回路を調整し、表面の傷を磨き上げていく。
どれも中級クラスの複雑な構造を持った杖であり、本来であれば一つを仕上げるだけでもかなりの時間を要する代物であった。
しかし、今のソフィアは完全に職人としてのトランス状態に入っていた。
食事をとることも、夜が明けたことすらも気づかないまま、ただひたすらに杖と向き合い続けた。
ふと、気がつくと。
ソフィアは手の中にある最後の杖のコーティングを終え、ぽかんと口を開けて瞬きをした。
窓の外からは、いつの間にか眩しい昼下がりの陽光が差し込んでいる。
そして、なぜか自身の口の中には、甘いスープの味が残っていた。
「あれ。私、いったい」
「あ、やっとこちらの世界に戻ってこられましたのね」
背後からかけられた涼やかな声に振り返ると、そこには完璧な姿勢で控えるヨランダの姿があった。
「将来の乳母である、ヨランダさんですよぉ」
ヨランダのにこやかな表情。
だがソフィアは気づいている。
彼女のエプロンや、そして自分の着ているものが、変わっている。
そして何より、さっきのこちらの世界に戻ってきたという発言。
彼女は、理解している。
さすがに学習している。
「わ、私。どれくらい作業をしておりましたか」
ソフィアが恐る恐る尋ねると、ヨランダは三本の指を立ててみせた。
「まあ、ざっと三日ですわね」
「み、三日っ」
ソフィアは驚愕して立ち上がりかけたが、足に力が入らずによろけた。
三日間もの間、まったく眠った記憶がないのだ。
(良かった、三日しか没頭してなかったみたい……)
五徹当たり前の彼女からすれば、三日はまだいい方だった(当社比)。
「全く、三日【も】トリップしてるだなんて。いけませんわもう」
(三日も、なんだ……)
常々、自分と他者の、価値観の違いに、戸惑うばかりのソフィアである。
「その間の食事、水分の補給、そして睡眠。すべてを完璧に介護したのは、このわたくしですわ」
ヨランダは誇らしげに胸を張り、事の顛末を語り始めた。
ソフィアは作業に没頭するあまり、机の上で唐突にぱたんと倒れて気絶するように眠りに落ちたらしい。
それをヨランダがベッドへと運び、目覚めたソフィアがふらふらと夢遊病者のように再び机に向かう。
その不気味なループを繰り返しながら、ヨランダの差し出すスープを無意識のうちに飲み込み、ひたすら作業を続けていたというのだ。
「寝ていた意識すら、まったくありません……」
「無理もありませんわ。完全に職人の魂だけが肉体を動かしているような、恐ろしい状態でしたから」
ヨランダが肩をすくめる横で、店員のリサが呆れたようにため息をついた。
「おはよ、ソフィア」
「リサさん、おはようございます……あとごめんなさい」
作業場に三日引きこもっていたということは、その間の接客は、リサがやってくれていたということだ。
「いいのよ。いつものことじゃない」
「すみません……」
「まあにしても、ほんと、中級の杖をこれだけまとめて、こんな短時間で完璧に仕上げるなんて。店長の腕は異常だわ」
ソフィアは申し訳なさそうに頭を掻いた。
しかし、ヨランダの鋭い観察眼は誤魔化せない。
「でも、いつにも増して異常な没頭ぶりでしたわね。何か、どうしても忘れたい嫌なことでもあったんですの」
「うっ」
図星を突かれ、ソフィアは肩をびくっと震わせた。
その時、店先のドアベルがカランコロンと軽やかに鳴り響いた。
「フィー、いるか。顔を見に来たぞ」
漆黒の軍服に身を包んだ大柄な男、ギルバートが姿を現した。
普段のソフィアであれば、彼を見つけた瞬間に幻の尻尾をパタパタと振り、満面の笑みで駆け寄るところである。
しかし、今日の彼女は、ギルバートの姿を見た瞬間にぴたりと足を止めた。
彼女の視線は、ギルバートの顔ではなく、彼の手にあるものへと釘付けになっていた。
「ギルさん。今日も、その竜杖を持っているのですか」
「ああ、当然だ。フィーからもらった大事なものだからな」
ギルバートは悪気など微塵もない、無邪気で誇らしげな笑顔を向けた。
その言葉を聞いた瞬間、仕事で忘れかけていたあの感情が、再びソフィアの胸の奥で猛烈な勢いで膨れ上がった。
ソフィアは両手で顔を覆い、言葉にならない呻き声を上げた。
「どうしたんだ、フィー。顔色が悪いぞ。どうして、この子とばかり見つめ合っているんだ」
「え」
「だってそりゃ、フィーが俺のためを思って作ってくれた、最高の杖だからな」
ギルバートの言葉は、職人としてはこれ以上ないほどの賛辞である。
ソフィアの作った杖を大事にし、肌身離さず持ち歩いてくれている。
それは無上の喜びであるはずなのに。
それはつまり、ギルバートがソフィア以外の『あの女』を、四六時中愛おしそうに撫で回しているということと同義なのだ。
(うーっ)
ソフィアの中で、理不尽な乙女心のジレンマが完全に限界を突破した。
「フィー。本当にどうしたんだ。腹でも痛いのか」
「ギルさんの、浮気者っ」
ソフィアは真っ赤な顔で叫ぶと、踵を返して作業場へと猛ダッシュした。
バタンっ。
重厚な扉が乱暴に閉められ、店内には虚しい沈黙が降り下りた。
「な、なんだ。俺は何か、悪いことをしたのか」
ギルバートは完全にわけわかめといった様子で、オロオロと周囲を見回した。
隣にいたリサも、店長の突然の奇行に意味不明だと首を傾げている。
しかし、ただ一人、ヨランダだけは全てを理解したように深く頷いていた。
「わかるのか、お前」
「ええ。恋愛マスターであるヨランダさんには、すべてがお見通しですわ」
ヨランダは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、得意げに唇の端を吊り上げた。
「はぁ」
「つまり、これは三角関係ですのよっ。ソフィアちゃん、坊ちゃま、そしてその『杖』による、前代未聞の泥沼の三角関係ですわーっ」
ヨランダが両手を広げて高らかに宣言する。
その突拍子もない推理に、ギルバートとリサは完全に唖然として口を開けた。
「お前、こいつが言っている意味がわかるか」
「さっぱりわからないわ。メイドさん、疲れてるのよ」
リサが冷めた目でヨランダを見るが、当のヨランダは一人で大興奮している。
「ソフィアちゃん、いいですわよっ。嫉妬は恋愛を大きく進めるスパイスですわっ。進みます、お二人の関係は確実に。そしてわたくしは、晴れて本物の乳母となるのですっ」
妄想を爆発させ、ヨランダが鼻息を荒くして拳を握りしめる。
そのあまりにも堂々とした姿に、ギルバートは深く重いため息をついた。
「前から思っていたが」
ギルバートは冷ややかな視線をヨランダに向け、身も蓋もない事実を口にした。
「乳母ってお前、そもそも母乳が出ないだろ」
「気合いで出しますっ」
メイドの即答に、ギルバートはこれ以上のツッコミを諦めて天を仰いだ。
愛する婚約者との再会は、杖へのヤキモチという奇妙な三角関係の始まりを告げている。
帝国の破壊神の恋愛模様は、強大な魔獣を討伐するよりもはるかに難解で前途多難であった。




