第16話 高級美容クリームで営業しちゃうもんね<二>
後宮の朝は遅い。特に皇帝の妃ともなれば、日が高くなるまで寝台で微睡むのが特権であり、また美肌の秘訣ともされている。
だが、まだ優雅な惰眠を貪る刻限に先春殿の静寂は破られた。
「ごめんくださーい! 挨拶に来ました!」
能天気な、あるいは空気を読まない明るい声が響く。声の主は凛華である。彼女は今、後宮のしきたりなどどこ吹く風とばかりに、梅妃の居所へとやってきたのだった。手には小さな包みを抱えている。
後ろには、念のために連れてきた李元を従えている。悪徳訪問販売員が用心棒を引き連れてきたかのような構図だが、当人たちにその自覚はない。
いや、凛華にはあるかもしれない。彼女の瞳は研究者としての探求心と、商魂という名の邪念でギラギラと輝いているのだから。
「な、何事ですか!」
血相を変えて飛び出してきたのは、筆頭侍女の周但娘である。彼女はただでさえ吊り上がった目をさらに吊り上げ、両手を広げて凛華の行く手を阻んだ。その背後には、おろおろとする若い下女たちの姿が見える。但娘の視線が、凛華の顔に注がれる。そこには明らかな敵意と、微かな困惑が混じっていた。
……おかしい。毒入りの滑雪膏を贈ったのに、なぜこの女の肌は爛れるどころかツヤツヤしているの? そんな心の声が聞こえてきそうである。
凛華は、にこりと微笑んだ。営業スマイルである。
「先日いただいた贈り物のお礼に来ました。それに梅妃さまに挨拶もしないなんて、新参者の礼儀に反するでしょうし」
「贈り物? 何のことかしら。梅妃さまは体調が優れないのです。お引き取りを」
「体調が悪い? それは大変。私、一応は薬師ですので診察しましょうか」
「滅相もない! どこの馬の骨とも知れぬ洗濯女を、梅妃さまに近づけるわけにはいきません」
但娘が金切り声を上げたその時、凛華の後ろに控えていた李元が一歩前に出た。彼は懐から装飾の施された木札を取り出し、印籠のごとく掲げた。
「周坦娘殿、皇帝陛下のお許しはいただいております」
李元の慇懃な、しかし有無を言わせぬ声が響く。
「凛華殿は、陛下より後宮内の往来と、妃嬪の方々への謁見を許可されておいでです。これを拒む権利は、少なくともあなたさまにはありますまい」
効果は絶大だった。但娘はぐっと言葉を詰まらせ、悔しげに唇を噛みしめながら道を空けた。
「……どうぞ」
「ありがとう。話が早くて助かるわ」
凛華は悪びれもせず、ずかずかと奥へ進んでいく。
梅妃がいるという寝室は、むせ返るような香の匂いに満ちていた。最高級の沈香が焚かれているのだろうが、部屋の空気が淀んでいるせいで息苦しさを感じる。
凜華は呆れたように呟いた。
「ここも香害かあ……。お金持ちの特権なんだろうけど」
梅妃は、豪奢な天蓋付きの寝台にぐったりと横たわっていた。切れ長の瞳と整った鼻梁を持つ美女だが、その顔には生気がない。
「騒々しい。何事じゃ」
梅妃が不快げに顔を顰めながら身を起こす。凛華は寝台のそばまで歩み寄ると、軽く膝を折って礼をした。
「お初にお目にかかります。ここの新入りの凛華と申します」
「……凜華。では、お前が陛下の侍妾となったという洗濯女か」
梅妃は凜華をまじまじと見た。薬師というが、薬師はそれなりの年数の修行だか修練だかを積まなくてはなれないはず。年増なのかと思いきや随分と若い。顔色はよく、肌には張りがあってピカピカしている。
「はい。先日いただいた素晴らしいクリームのお返しに、特製の化粧品をお持ちしました」
「お返し……?」
梅妃は怪訝な顔をした。彼女自身は、下女を使って毒を贈ったことなど記憶にはないのかもしれない。あるいは周坦娘がやったことを本当に知らないのか。
凛華は梅妃の顔を注意深く観察した。化粧前の肌はくすんでおり、近くで見ると微細なシミが浮き出ている。口を開いた際に見えた歯茎には、わずかな色素沈着が見られた。……もしや、慢性的な水銀中毒の初期症状か。
「ところで梅妃さま。高貴な方々は、滑雪膏という高価な化粧品を好まれるとか。梅妃さまもお使いですか?」
「もちろん。あれがないと肌がくすんでしまう」
梅妃は、枕元の小卓を顎でしゃくった。そこには、凛華が贈られたものと同じ、高価な白磁の小壺が置かれている。
「ちょっと拝見しても?」
凛華は返事も待たずに壺を手に取った。
蓋を開ける。かすかに漂う腐卵臭とそれを消すための香料の匂い。間違いない。塩化第二水銀、昇汞が入った代物だ。凛華は壺を持ち上げ、しげしげと眺め――そして。
「せいやっ!」
気合一閃。壺を思いきり床に叩きつけた。
ガシャンという盛大な破砕音と共に、高価な白磁は粉々に砕け散り、中の白いクリームが床にぶちまけられた。
静寂が場を支配する。梅妃は目を丸くし、口をあんぐりと開けて固まっている。入り口で中の様子を伺っていた但娘が「ひっ」と悲鳴を上げ、部屋に飛び込んできた。
「あらやだ。手が滑っちゃった」
凛華は棒読みで言い放つと、てへ、と舌を出した。その目には一点の曇りも迷いもない。確信犯の目である。




