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ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない   作者: kiyoaki
第二部

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114/125

第114話 聖アントニウスの火と皇后の黒い粉<一>

 さて、古今東西の物語において「夢遊病」は作家の創作意欲をそそる絶好の素材だった。

 シェイクスピアの「マクベス」では、血に汚れた手を洗う幻影に追われるマクベス夫人が夜な夜な彷徨い、夢と現の境界で罪の意識を露呈させる。オペラ「アミナ」では、高所を歩く乙女の危うい姿が観客の心拍数を跳ね上がらせる。

 だが、実のところ、医学的に「夢遊病」という病気は存在しない。

 現代医学の権威たる「DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル)」を紐解けば、マクベス夫人のような病気は「ノンレム睡眠覚醒障害」という、なんとも情緒に欠ける名称で分類されている。

 文学の世界では、罪の意識や運命の予感といったドラマチックな装飾が施されるが、科学のメスにかかると、脳内の神経伝達物質が「渋滞」を起こした際のシステムエラーになってしまうのだ。


 外廷の清心殿。

 皇帝・景雲は、眉間に深い皺を刻んだまま、目の前に置かれた「顔」を見つめていた。それは蝋と石膏で固められた一人の女のデスマスクだった。その目は死の間際に見たのであろう驚きと恐怖で見開かれたままである。

 大膳房の女官に成りすまし、景雲の御膳にトリカブトの毒を盛ろうとして失敗し、何者かに惨殺された――剽娘(ひょうじょう)と呼ばれる女の死に顔であった。


「……ようやく身元が割れたというわけか、刑部尚書(けいぶしょうしょ)

 景雲の問いに、刑部の長官は一束の報告書を差し出した。

「はっ。死体から型を取った遺容拓(いようたく)と、絵師に描かせた似顔絵を手に内廷から外廷、さらには人身売買の市場まで虱潰しに洗わせました。結果、この女の正体が浮かび上がってまいりました」

 皇帝の暗殺未遂事件以来、刑部も遊んでいたわけではない。彼らは剽娘の死体から顔の型を取ってデスマスクを作成し、絵師に詳細な似顔絵を描かせたのだった。

 それらを持って、後宮に暮らす数千人、外廷に暮らす数万人の一人ひとりに見せながら虱潰しに捜査した。さらに剽娘を売った人買いも突き止め、捕らえて締め上げた。人買いは、自分が扱った商品について洗いざらい吐いた。


 報告によれば、剽娘というのは偽名だった。

 彼女の本当の名は「黄児(おうじ)」というが、これも固有の名前ではない。出身地が北方の峻厳な谷「黄景谷(おうけいこく)」というところだったため、便宜上そう呼ばれただけだった。

 黄児自身の物語は凡庸そのものだった。

 病に倒れた母親の治療費を稼ぐため、彼女は自らを人買いに売り、故郷を後にした。

 黄児が谷を出てすぐに、母親は息を引き取っていた。

 売られた代価が、死にゆく親の祈祷代や薬代に消えたのか、あるいは葬儀代になったのかは定かではない。


「黄児は都へ来て宮城に買われました。配属先は後宮ではありません。『太廟(たいびょう)』へ掃除婦として送られました」

「太廟か」

 太廟は、外廷にある先祖の霊を祀る施設である。廟内には、歴代の皇帝や王朝に多大な貢献があった皇族、王たちの生前の姿を象った巨大な石像が立ち並んでいる。

 遺体は都の郊外にある陵墓に副葬品と共に埋葬されるが、聖域である陵墓周辺は立ち入りが禁じられ、詣でることは滅多にない。その代わり、太廟にて法事や慰霊祭などが営まれている。

 景雲自身も父である先帝と、摂政で父親代わりだった太原皇叔の命日には、太廟へ足を運んで供物と祈りを捧げていた。


 長官が報告書を広げながら言った。

「記録によれば、黄児は二年前、掃除中に石段から転落し事故死したことになっておりました」

「事故死、か」

 景雲の目が鋭く光った。

「死んだはずの掃除婦が後宮へ入り、私に毒を盛ろうとしたわけか。明らかに組織的な偽装だな」

 太廟で働く人員の出入り、ましてや公式の記録を改竄するには、ある程度の権限を持つ者が手引きしなくては不可能である。


「何者かが黄児に接触し、連れ去ったのか。太廟に入れる者は限られているが……。それでもまだ多すぎる。絞りきれん」

 景雲は苛立たしげに呟いた。

 定期的に太廟に詣でる皇族や家臣、官僚たち、その付き人、常駐する祭礼官、廟を警護する兵士、果ては典礼を司る一族まで入れる者を数えればキリがない。


「陛下」

 長官が、慎重に言葉を選びながら続けた。

「黄児の出身地である黄景谷……。あそこは先代までは『趙家』の私有地、領地の一部でございました。このことから、趙家の残党が陛下のお命を狙い、領民を暗殺者に仕立て上げたという線も……」

「趙家か」

 景雲の顔に苦いものが走る。栄華を極めた名門貴族・趙家は、先帝による苛烈な粛清で滅ぼされている。


「趙家の生き残りは、ほんの数人のはずだ。……都にいるのは、秋淵邑主の母である趙夫人くらいか」

「左様にございます。夫人は紛れもなく趙家のお方。かつての領地の民を使役する人脈も持っておりましょう。……ですが」

 長官は否定の意味で首を横に振った。

「趙夫人は、一人娘である秋淵邑主さまを溺愛されております。陛下を(しい)(たてまつ)るという一族必滅の大罪を犯せば、邑主さまのお立場はどうなるか。それがわからぬお方ではないかと」

「ああ。そんな危ない橋を渡るとは思えん。元来気丈で賢い人だからな」

 景雲も同意せざるを得なかった。毒を盛るにしても、趙夫人のような立場の人間が動けば足がつきやすい。

 趙氏一族は誅され、修羅の宮廷を生き延びるだけでも大変な苦労があったはず。それなのに、今更愛娘を危険に晒してまで復讐を企てるとは思えない。それに景雲は、凜華を通じて寛姫を助けてやり、夫人に恩を売った立場だ。


「結局、何もわからんということか」

 景雲は深いため息をつき、背後の椅子に深く沈み込んだ。

 剽娘の身元は判明した。過去も洗った。

 しかし、現時点では彼女の背後にいる黒幕には繋がりそうにない。

「残念ながら……」長官も沈鬱な表情を浮かべる。

 皇帝の毒殺未遂事件は、解決の兆しを見せぬまま迷路へ入り込んでしまったようだった。


 景雲は、石膏のデスマスクを布で覆わせると重い口調で「下がれ」と命じた。

 剽娘、すなわち黄児は二度死んだ。

 一度目は廟の事故で。

 二度目は何者かに送り込まれた後宮で。

「死人に口なし」とはよく言ったものだが、彼女は末端の使い捨て要員だった。生きて捕まえたところで、背後に蠢く者をあぶり出せたかどうか。

 景雲は立ち上がると、窓辺に行って外を眺めた。

 太廟の方を見やりながら、自身を縛り続ける亡霊、今は亡き血族たちに想いを馳せた。


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