俺の、選び方(最終話)
「元の体に戻れるかもしれない」という噂を、田中が掴んだのは、それから間もなくのことだった。
TS現象の研究をしているという、とある大学の研究室。田中と同じような症例を集めていて、可逆の可能性を探っているという。藁にも縋る思いで、田中は問い合わせた。返ってきた答えは――「条件が合えば、元に戻せる可能性がある」。
二ヶ月間、ずっと望んできたもの。戻れる。男の体に。元の生活に。
なのに、その報せを読んだ田中の胸に湧いたのは、単純な喜びではなかった。
迷っている自分に、田中は戸惑った。あれほど嫌っていた体だ。あれほど戻りたかった生活だ。なのに、いざ「戻れる」となると、心のどこかが、引っかかる。
田中は、三宅に会いに行った。答えを、聞きたかったわけじゃない。ただ、この迷いを、あの同志にだけは話したかった。
「戻れるかもしれない。……なのに、迷ってる。俺、おかしいよな」
三宅は、いつものように、まっすぐに田中を見た。
「おかしくないよ。この二ヶ月で、あなたは変わったから」
「変わった?」
「うん。最初のあなたは、"男に戻ること"しか見てなかった。この体を、ただの牢屋だと思ってた。……でも今のあなたは、この体で誰かと出会って、悩んで、一線を守って、"女の世界"のしんどさも知った。それは、戻ったら消える経験じゃない。あなたの中に、ちゃんと残る」
三宅は、少し間を置いて、続けた。
「戻ってもいい。戻らなくてもいい。どっちを選んでも、あなたはもう、二ヶ月前のあなたじゃない。……大事なのは、"戻るか戻らないか"じゃなくて、"どっちを、あなたが選ぶか"。人に流されるんじゃなく、自分で選ぶこと。それだけ」
自分で、選ぶ。
田中は、長いこと、黙って考えた。この二ヶ月間の日々が、順番に胸を通り過ぎていった。満員電車の羞恥。風にめくれたスカート。海の日の総毛立つ感覚。給湯室で守った一線。女たちの冷たい視線。そして――この、まっすぐな目をした同志との、朝までの語らい。
どれもこれも、しんどかった。二度と味わいたくないものも、あった。だが、そのどれもが、確かに「田中」という人間の一部になっていた。
「……戻るよ」
田中は、静かに言った。
「戻る。俺は、やっぱり、男の体で生きたい。それが、俺の"自然"だから。――でも」
田中は、顔を上げた。二ヶ月前とは、明らかに違う目をしていた。
「戻っても、この二ヶ月は、忘れない。見られる側の怖さも、女たちの戦場も、体が勝手に反応する理不尽も、全部、覚えてる。……たぶん俺は、戻っても、前より少しはマシな男になれる。あんたのおかげで」
三宅は、その答えを聞いて、満足そうに頷いた。
「うん。それで、いい。――それが、あなたの選び方だ」
*
後日談。
田中は、研究室の協力を得て、元の体を取り戻した。二十五歳、冴えない、女に縁のない、ただのサラリーマン。鏡の中の見慣れた男の顔を見て、田中は、少しだけ泣いて、それから笑った。おかえり、と自分に言った。
だが、変わったこともあった。
電車で、視線に怯える女性がいれば、そっと壁になる。会社で、理不尽な陰口に晒されている女性社員がいれば、さりげなく庇う。かつて「自意識過剰だ」と切り捨てていたものの重さを、田中は今、皮膚で知っている。
そして、三宅葵とは、今も時々、飲みに行く。恋人ではない。同志だ。互いの檻の話を、今も交換し合う仲だ。田中が男に戻っても、その関係は、何も変わらなかった。型が変わっても、中身は変わらない。それを、二人は誰よりもよく知っていたからだ。
「なあ、三宅」
ある夜、田中は言った。
「俺、女だったとき、けっこう可愛かっただろ」
「調子に乗るな」
乾いたツッコミが返ってきて、二人は笑った。
女になっても、男に戻っても――田中は、ずっと田中だった。それだけが、この長い二ヶ月が田中に残した、たった一つの、確かな答えだった。
(第2部・完)




