ぞくり、を認めたくない
TSして、二ヶ月が過ぎた。
体は相変わらず女のままで、戻る気配は一向にない。だが、日常が続けば人は慣れる。スカートの扱いにも、ヒールの歩き方にも、女物の下着の着け方にも、田中(仮)はもう戸惑わなくなっていた。慣れというのは、時に諦めと同義だ。
慣れないものが、一つだけあった。
――体の、反応だ。
第1部の頃、田中を苦しめたのは「無自覚の恥じらい」だった。見られると顔が熱くなり、体が勝手に縮こまる。あれはまだよかった。羞恥は、少なくとも「嫌なもの」として理解できたからだ。
だが最近、その羞恥に、別の何かが混ざるようになっていた。
その朝も、満員電車の中でそれは起きた。
斜め後ろに立った男の視線が、うなじのあたりに触れている。感じる、というより、わかる。この二ヶ月で、田中は視線の重さを皮膚で測れるようになってしまっていた。以前ならただ「気持ち悪い」で終わった。終わってほしかった。
なのに、その視線が首筋を這った瞬間、背筋を、ぞくり、と何かが走った。
(――……っ)
田中は吊り革を握る手に力を込めた。今のは、なんだ。羞恥じゃない。寒気でもない。もっと、こう……体の内側が、勝手に「反応」したような。認めたくない種類の、痺れ。
(気のせいだ。気のせいに決まってる)
自分にそう言い聞かせる。中身は男だ。男が、男の視線に、こんな反応をするわけがない。これはただの生理現象で、体が女になったことの副作用で、俺の意思とは何の関係もない――そう、何の関係もないはずだった。
次の駅で、田中はまた逃げるように電車を降りた。第1部の頃と同じ行動。だが、逃げる理由が変わってしまっていることに、田中自身が一番気づいていた。
あの頃は「見られるのが嫌」で逃げた。
今は――「反応してしまう自分が怖くて」逃げている。
ホームのベンチに座り、田中は両手で顔を覆った。
「……冗談じゃ、ないぞ」
声が、我ながら情けなく掠れた。
*
この二ヶ月で、田中は自分の体について、いくつかの「認めたくない事実」を蓄積していた。
風呂上がり、鏡に映る体を見ても、もう悲鳴は上げない。慣れたからだ。だが慣れたぶん、この体が「他人にどう見えるか」を、嫌でも客観的に把握できるようになってしまった。悪目立ちする体だ、と思う。自分の趣味とは無関係に、この体は「男の目を引く」ように出来ている。
そして最近は、その「引いた視線」に、体が応えようとする瞬間がある。
たとえば、コンビニのレジで店員の目線が胸元に落ちたとき。たとえば、エレベーターで乗り合わせた男が距離を詰めてきたとき。意識は「気持ち悪い」と拒否しているのに、体のどこかが、ほんの一瞬、その注目を「快」として受け取る。第1部の海の日に初めて感じた、あの総毛立つ感覚。あれが、日常に忍び込んできていた。
(この体は、本当に、俺の味方じゃない)
自己嫌悪が、澱のように溜まっていく。第1部の羞恥は、まだ外から来るものだった。突風、視線、不運な事故。だが今の敵は、体の内側にいる。逃げ場がない。
会社のデスクで午前を過ごしながら、田中はぼんやりとそんなことを考えていた。集中できるはずもなかった。
「田中さん(仮)、顔色悪いよ。大丈夫?」
声をかけてきたのは、他部署の三宅葵だった。書類を届けに来たついでらしい。二十八歳、いつもパンツスーツで、化粧は最低限。噂話にも合コンにも一切興味を示さない、社内では少し浮いた存在の女性だ。田中とは、廊下ですれ違えば会釈する程度の間柄だった。
「あ……いえ、ちょっと寝不足で」
「ふうん」
三宅は、田中の顔を、やけにまじまじと見た。値踏みでも、品定めでもない。もっと純粋な、観察の目。まるで珍しい昆虫でも見つけたかのような、無遠慮なほどまっすぐな視線。
その視線には、田中の体は――なぜか、何も反応しなかった。
(……あれ)
男たちの視線には、あんなに過敏に反応する体が、三宅の視線にはぴくりともしない。安心する。同時に、少しだけ、不思議だった。
「あなた、面白い座り方するね」
三宅は、それだけ言って、書類を置いて去っていった。
――座り方?
田中は自分の姿勢を見下ろした。無意識に、膝を大きく開いて座っていた。第1部であれほど「膝を閉じろ」と体が学習したはずなのに、今日は、男だった頃の座り方に戻っている。
(なんで、今日に限って)
答えは、すぐには出なかった。だが、三宅葵という女が、田中の中の「男」を、なぜか一目で見抜いたような――そんな薄気味悪さだけが、後に残った。
この日から、田中の二ヶ月間の孤独な戦いに、思わぬ闖入者が現れることになる。




