第1話 ギルベルト視点①
俺にも、そういったところはあるだろうし、そんな態度を気づかないうちにとっているかもしれない。
だが――少なくとも、あいつらよりはマシだと思いたい。
問題は、目の前にいる本人たちが、自分のことをどう思っているのかということだ。
王宮の小会議室には、淹れたての紅茶が並んでいた。
香りのよい茶葉だと聞いていたのに、俺には何の匂いもしない。
俺は口を挟まず、ただ目の前のやり取りを眺めていた。
右隣に座る父は、時折苛立たしげに膝を動かしている。対して左隣の妹のアシュレイは、微動だにしない。
目の前では、王太子シャイン殿下が椅子へ深く腰掛け、どこか気だるそうに父の話を聞いていた。
その隣の国王陛下は、ほとんど表情を動かさない。
何を考えているのか、俺にはさっぱり分からなかった。
「――オルブライト家は北部諸侯との調整も、先王陛下の御代から担ってまいりましたのですよ」
父が何度目かになる実績を持ち出しても、シャイン殿下は表情を変えなかった。
そんなやり取りを延々と聞かされ、紅茶で腹が膨れた頃、ようやく父が折れる形で話は終わった。
正直なところ、さっさと諦めればいいのにと思っていた。
あのシャイン殿下を言葉だけでうまく誘導できるのは、昔からアシュレイくらいだ。
それに父も父だ。
ここまで娘を虚仮にされて、それでもまだ王宮との繋がりにしがみつくつもりなのか。
もちろん、公爵家としての立場も責務もある。父なりの考えがあることも分かっている。
だからといって――。
「だいたい、お前がもう少しシャイン殿下の心を繋ぎ止めていれば、こんな話にはならなかったのだ」
屋敷へ戻るなり、父はアシュレイに向かって吐きつけるように言った。
背後で、革靴の底が床を擦る小さな音がした。
……オリバー、落ち着け。
護衛騎士のオリバーは昔から、アシュレイのことになると分かりやすい。
もっとも、そのことに俺が気づいたのは、ずっと後になってからだが。
それからもしばらく父の愚痴が続き、ようやく解放されて執務室を出ることができた。
アシュレイと別れたあと、俺は一人で人気のない廊下を歩いた。
――もう、いいんじゃないか。
もうアシュレイを自由にしてやっても。
昔のアシュレイは、くだらない物語を読んでは笑い、見たことのない菓子が出れば真っ先に手を伸ばす、ごく普通の子供だった。
それが、王太子妃教育が本格的に始まってから変わった。
いや。
思い返してみれば、オリバーを自分付きの護衛騎士として連れていきたいと言い出した頃からだったのかもしれない。
あのときは俺も驚いた。
アシュレイが妙にオリバーへ懐いているのは知っていたが、わざわざ自分付きの護衛にすると言い張るとは思わなかった。
その頃には、なんとなく分かっていた。
――こいつ、オリバーのことが好きなんだろうな。
もちろん、幼い頃の「好き」がどこまでのものだったのかは分からない。
オリバーの方には、そんな気配など欠片もなかった。当然だ。アシュレイはまだ子供で、オリバーにとっては守るべき主家の娘でしかなかった。
だからこそ、父も母も最終的には許したのだろう。
その後のアシュレイは、目に見えて変わっていった。
礼儀作法の教本にでも載っていそうな笑みを浮かべ、何時間でも机に向かうようになった。
俺だって、その頃は友人と遠出して釣りをしたり、馬で出かけたりしていた。
なのにアシュレイは、そういう時間まで勉強に費やし、いつの間にか俺に物語を読んでくれとせがむこともなくなった。
未来の王太子妃として立派になっている、と父は喜んだ。
母と俺は、素直には喜べなかった。
何度アシュレイに尋ねても、返ってくる言葉は決まっていた。
『わたくしはシャイン殿下の婚約者ですもの』
その言葉遣いさえ妙に大人びていて、どうにも耳に馴染まなかった。
ある日のことだった。
アシュレイがまた朝から勉強していると聞き、俺は厨房へ寄った。
ちょうどアップルパイが焼き上がったところだったので、一切れを皿に載せてもらい、紅茶と一緒にワゴンへ載せてアシュレイの部屋へ向かった。
まだ温かく、歩くたびに焼いた林檎と砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐった。
「アシュレイ、入るぞ」
扉を開けると、机に向かっていたアシュレイが振り返った。
「……お兄様? どうかしましたか?」
母が選んだ淡い花柄の壁紙は、いつの間にか壁際へ並べられた高い本棚に大半を隠されていた。
棚に詰まっているのは、法律、歴史、外交、礼法――背表紙を眺めているだけで頭が痛くなりそうな本ばかりだ。
アシュレイの好きな物語の本は、見当たらなかった。
「休憩しよう」
俺がワゴンを示すと、アシュレイは目を見開いた。
「まあ……ありがとうございます。でも、あとでいただきますわ」
「あとでじゃ駄目だろ。お前、アップルパイは焼きたてが一番おいしいって言ってたじゃないか」
「ですが、まだ解けていない問題が――」
俺はアシュレイの手元から本を取り上げた。
「甘いものは、頭を使ったあとに食べるといいんだぞ」
「本当ですか?」
「俺はそう思っている」
少し疑わしそうな顔をしたあと、アシュレイがクスクス笑った。
俺は壁際に控えていたオリバーへ視線を向ける。
「悪い。兄妹だけでお茶したいんだ」
「かしこまりました」
オリバーと侍女が部屋を出ていった。
俺は椅子を引き寄せ、アシュレイと向かい合ってアップルパイを頬張った。
口へ入れた瞬間、シナモンの香りが一気に広がる。
「……シナモン、効きすぎじゃないか?」
俺は昔からシナモンが少し苦手だ。
「これくらいがいいんです」
そう言って、アシュレイは嬉しそうにもう一口食べた。
まあ、アシュレイが喜んでいるならいい。
「……なあ、アシュレイ。ちょっと頑張りすぎじゃないか。もう少しくらい、ゆっくりやってもいいだろ」
フォークを持っていた手が止まった。
「……でも、シャイン殿下が……」
「シャイン殿下? また何か言ってきたのか?」
王太子妃教育について多少の希望を口にすることはあっても、勉強の進め方までシャイン殿下が口を出す話ではない。
「さすがに言いすぎだろ。父上から一度――」
「違うんです」
アシュレイが慌てて俺の言葉を遮った。
「……オリバーを、辞めさせた方がいいとおっしゃって……」
「……どうして?」
「オリバーは正式な騎士教育を十分に受けていませんし、孤児だった者を自分付きの護衛にしていれば、わたくしまで軽く見られるかもしれない、と」
俺はゆっくりフォークを置いた。
「ですから、シャイン殿下に申し上げました」
アシュレイはフォークを置き、俺を見た。
その顔には、あの微笑が浮かんでいた。
「オリバーを側に置いていても、わたくしの価値が下がらないくらい、わたくしが頑張ります、と」
そのときの俺は、何と答えたのだったか。
よく覚えていない。




