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4、年下の男の子

 大希たきまちが大学の食堂で揉めていた頃、歓雫かんだ家で食事をしている二人がいた。

一人はキヨ。もう一人は「創紫つくし 夕空ゆあ」。二十九歳。

身長百六十二センチの、スタイルの良い女性だ。髪型は、毛先をアゴの辺りで揃えているボブカット。髪の色は金まではいかないが、明るい色合いに染めている。服装は白いカッターシャツに、灰色のスラックス姿。勤め先からの指定だ。

夕空はお弁当の宅配業者「百縁ひゃくえん」の従業員だ。平日は毎日、歓雫家にお弁当を届けてくれる、いわゆる「宅食屋さん」だ。

キヨは前から膝が良くなかったが、最近は特に悪化していた。もう買物に行ったり、自分で料理をするのは難しい。昼間は大学にいる大希には限界がある。そこで、キヨの昼食は宅食にしたのだ。宅食を初めて、もうすぐ一年が経とうとしいてた。キヨと夕空はコタツに入り、向かい合って座っていた。

キヨは夕空が配達してきたお弁当を、夕空は自作のお弁当をコタツの上にひろげていた。

キヨはお弁当の箸をすすめながら言った。

「うむ、美味いのう。このお弁当は、煮物が美味いから好きなのぢゃ」

夕空は嬉しそうに答えた。

「ありがとうございます。その『和食お弁当コース』は人気なんですよ。この辺りにもウチのお弁当を何件か宅配させてもらってますけど、ほとんど和食コースを選んでますね」

「うむ。このお弁当を取るようになってから良い事づくめぢゃ。買物の心配はせんでいいし・料理もせんでいいし・お弁当は美味いし・美人と昼メシが食えるし。万々歳ぢゃ」

「あら、最後の一つは私も同意見です。美人とお昼をご一緒できて、嬉しいです」

「ん? そうかそうか! カッカッカッ!」

本来、宅食はお弁当を配達して終わりである。ところが、キヨの天性とも言っていい人当たりの良さのおかげで、二人は意気投合した。夕空は歓雫家への配達ルートを昼休みの時間帯にして、そのまま二人で昼食を取るのが日課になった。

それも、そろそろ三ヶ月目に入ろうとしていた。


二人は昼食を終え、夕空の淹れた熱いお茶をすすっていた。

「キヨさん、お正月のお節料理、ありがとうございました。前にも言いましたけど、本当に美味しくって嬉しかったです」

「うむ、いいぞよ。夕威ゆいも食べたのかのぅ?」

「はい。一歳六ヶ月は過ぎましたから、離乳食は終わっていたので大丈夫でした。数の子はやめておきましたけど、だいたい食べれましたよ。美味しそうに食べていました」

「そうかそうか! 良かったのぅ、ユアピー」

「ゆっ、ユアピー…。その呼ばれ方、まだ慣れませんけど…。そういえば、大希君の事は『たき』って呼んでいますよね? なにかあだ名は付けないのですか?」

「うむ、『タッキー』と呼ぼうとしたのぢゃがのぅ。『慣れそうもないから止めて』と言われてしもうたわい」

「たっ、タッキー…。そうですね、止めておきましょう」

「つまらんのぅ」

「お節料理ですけど、本当に不思議な話ですね。玄関にお重が置かれていたなんて。今でも誰か分からないんですか?」

「実はな、知っておるのぢゃ。大希には内緒ぢゃがの」

「えっ! 本当ですか?」

「うむ、知りたいかのぅ?」

「はっ、はい!」

「決して他言無用ぢゃぞ。お節料理のお重を置いたのは---」

「置いたのは…?」

「ジョンぢゃ」

「へっ…? ジョンって、ゴリラのジョンですか? 銅像の?」

「そう、ゴリラのジョンぢゃ。あやつに違いない。大希がお節料理を買い損ねたのを知っているのは、ワシ以外ではジョンだけぢゃからのう」

「きっ、キヨさん。私---」

「うん?」

「信じます! ジョンですよ! 長年お掃除されているんでしたっけ? お礼ですよ」

夕空の真剣な目を見て、キヨは大笑いして言った。

「カッカッカッ! 信じてくれて嬉しいぞ」


《良いカンをしているな、歓雫キヨ》


キヨは、部屋のスミに置かれているジョンのぬいぐるみを見た。

「ん? なにか聞こえたような…」

キヨの様子を見た夕空は聞いた。

「ジョン…でしたっけ? そのぬいぐるみがどうかしましたか?」

「うんや、なんでもないぞよ」

「あ、はい。でも、なぜ大希くんには内緒なのですか?」

「男は、こういう『夢のある話』ができんからのう。話してもツマらんわい。夕威は、そんな男にしてはならんぞ」

「はい、キヨさん。…そういうのは大丈夫かもしれませんけど、夕威自身には寂しい思いをさせてしまっているので、夕威には申し訳ないなって思ってます」

「どういう事ぢゃ?」

「会社の託児所に夕威を預けて、お迎えに行くのが十七時ぐらいなんです。家に帰って・夕食を食べさせて・お風呂に入れて・二十時にはウトウトし始めます。だからゆっくりと一緒に過ごせるのは、二時間くらいなんです。きっと寂しいでしょうね。私も辛いです。父親や祖父母がいる家庭の子は、そんな事はないのかなぁって、比べてしまうんです」

「うむ…」

キヨは考え込んだ後に言った。

「ユアピーよ、ワシは思うんぢゃ。母親が働いている背中を、子供に見せるのは悪い事ではないぞよ。今は寂しがるかもしれん。だが、いつかきっと分かる時が来る。安心して、夕威の為に働くがよいぞ」

「はい、キヨさん。そうですね、そう信じたいです。夕威の為に頑張りますね」

「うむ、それがエエ。まぁもっとも、自分の子がおらんワシでは説得力に欠けるがの」

「えっ? じゃあ、大希君は?」

「ワシは後妻での。しかも、夫は何度も結婚・離婚を繰り返した男ぢゃったから、ワシは六人目ぢゃ。大希は、夫が先の妻との間にできた孫ぢゃよ。ワシとは血縁は無いのぉ」

「じゃあ、なぜ今ご一緒に?」

「ワシは夫以外の家族から疎まれておっての。財産目当てと思われておったようぢゃ。同じ頃、ワシと同じような境遇の子が親族におったのじゃ。孫は六人いたのぢゃが、五人は優秀。六人目は劣等生ぢゃった。その子もワシと同じように疎まれておった」

「それが大希君?」

「うむ、当時の大希は札付きのワルでのぅ。毎日兄弟達にいじめられておったから、そうなったのぢゃがな。家の連中は大希を追い出したがっていたのぢゃ。ワシも人生の最後は夫の家では過ごしたくないと思ぅておった。夫の死別を機会に、大希を引き取って家を出たのぢゃ。ま、要するに、うまく二人まとめて追い出されたのぢゃよ。その時に、ある程度のまとまった金と、この家を渡された。要するに『追い出し料』というトコロぢゃ。丸裸で追い出して自殺でもされたら、自分達に面倒が降りかかると思ったのぢゃろう」

「そうだったんですか。それはいつ頃のお話ですか?」

「ちょうど十年前かのぅ? 大希が十歳くらいで、ワシが八十くらいぢゃ」

「でも、お二人とも仲良いですよね? 大希君なんて、悪そうな雰囲気は全然ありません。『お婆ちゃん大好き』って感じです」

「うむ、そうぢゃ。そんなもんぢゃ。百人集まれば、百通りの事情がある。一つとして同じ事情はないぞよ。だからユアピーもあまり、他所と自分を比べん方がよいぞ」

「はい」

「ユアピー。お前さんは、近所に親や兄弟はおるのかの?」

「いえ、いません。親からは勘当された身です。

夕威の父親とは、色々あって結婚には至りませんでした」

「うむ。困った事があったら、いつでもワシに言うがエエ。ワシは自分の子はおらんが、子守は沢山させられたからのぅ。多少の事なら分かるぞよ。力仕事が必要なら、大希を使うがよいぞ」

「キヨさん、ありがとうございます。本当に嬉しいです。でもなぜ、そこまで私に良くしてくださるのですか?」

「簡単な事ぢゃよ。ユアピーは、ワシの話し相手になってくれるからのぅ」

「えっ…、それだけですか?」

「うむ。ワシも、もう九十ぢゃ。町の婆さん友達も、ほとんどいなくなってしもぅた。そんな時に、新しいお喋り相手ができるのは、本当に嬉しいぞ。夕威の話も面白いのぉ。また聞かせておくれよ」

「はいっ、また聞いてくださいね。私は祖父母とは疎遠で育ったんで、キヨさんみたいな方と仲良くできて嬉しいんです。笠地蔵市に住み始めてまだ一年だし、知り合いもほとんどいないから、とても心強くって」

「うむ。この家はユアピーの実家と思っておくれ。今度、夕威を連れてくるがええぞ」

「ありがとうございます。連れてきますね」

二人は昼食とお喋りを終えた。夕空は玄関に座り、スニーカーを履いていた。午後の配達の再開だ。その後ろで夕空を見送ろうと、背中を丸めて立つキヨがいた。

キヨは少し顔をしかめて呟いた。

「いてて…」

夕空は上半身を後ろのキヨに向けて言った。

「キヨさん、大丈夫ですか?」

「うむ、大丈夫ぢゃ。いつもの膝ぢゃからのぅ。気にせんでおくれ」

「はっ、はい。辛そうですね…」

夕空は体を前に向け、靴紐を結び始めた。キヨは夕空の背中に向かって言った。

「ところで、例の件は考えてくれたかのぅ?」

夕空は背を向けたまま、靴紐を結びながら言った。

「えーっと、なんでしたっけ?」

「大希を、お主の恋人にしてもらう件ぢゃよ」

「へっ?」

夕空は慌てて立ち上がった。そして振り返り、キヨと向かい合って言った。

「いや! 何をおっしゃっているんですかっ!」

「そんな大声で驚かんでも。ワシ、この話をするのは初めてぢゃったかのぅ?」

「いえ、前にもおっしゃっていましたけど。てっきり冗談だと思っていました」

「いーや、いたって本気ぢゃぞ。大希は将来有望な大学生ぢゃぞ。見た目もハンサムだと思うがの。うーむ、点数で言うなら七十点というトコロではないかの? どうぢゃ?」

夕空は恥ずかしそうに微笑んで言った。

「えっと…、九十五点くらいだと思います」

夕空にそう言われて、キヨは声高に笑った。

「ほぇ? カッカッカッ! そうかそうか! 大希を気に入ってくれて、何よりぢゃ!」

「でも大希君は、私の事を女とは見ていませんよ」

「ほぅ? なぜそう思うのぢゃ?」

「大希君は『若い女と話すのが苦手だ』という事を、以前キヨさんから聞いた事があります。でも、私とは普通に話しますからね。彼にとって、私は『女』じゃあないんですよ」

「ふむ、それは違うぞ、ユアピー」

「えっ?」

「お主と話す時は、ほとんどがワシも一緒ぢゃろう? だから安心して話せる。それともう一つ、大きな理由がある。それは---」

「それは?」

「大希がお主に惚れておるからぢゃ。惚れた女に勇気を振り絞って『あたっく』する。これは当然ぢゃ。カッカッカッ!」

「ちょっ、ちょっとキヨさん! もうっ…! そうだ、キヨさん。大希君に注意してほしい事があるんです。私、困ってるんです」

「うむ、どうした?」

「大希君が私に会うたびに『綺麗ですね』とか『髪切ったんですか? 可愛いですね』とか言うんです。おかげでメイクや服装が油断できなくなりました。お世辞を言うのは感心しません。キヨさんから注意しておいてください。私が言っても聞いてくれないから」

「う~む、しかしそれは無理ぢゃのう」

「なぜですか?」

「惚れた女をべっぴんさん(美人)に感じるのは当然ぢゃろぅ? 諦めなされ。カッカッカッ!」

「本当にもう…」

恥ずかしそうに微笑んでいた夕空だったが、すぐに表情は曇った。

そして視線を落として言った。

「キヨさんのお気持ちは嬉しいです。でも私じゃあダメですよ」

「ん? なぜぢゃ?」

「私、二十九なんです。大希君より八歳も年上なんです。バツイチみたいなものですし、子供もいます。若い男の子となんて、釣り合いがとれませんよ」

キヨは目を閉じて、少し考え込んだ。

しばらくすると、ゆっくり目を開いて言った。

「ユアピーよ、それは違うぞ。それらは、すべて長所ぢゃ」

「長所ですか?」

「うむ。八歳年上? 結構な事ではないか。『年上の女房は、金の草鞋を履いてでも探せ』と言うからのぅ。バツイチ? 結構な事でないか。辛い思いをしたんぢゃのう。そういう経験は、きっとこの後の人生に活きるぞよ。子供がいる? それこそが、一番結構な事ではないか。夕威は本当に良い子ぢゃからのぅ。夕威が家族になるなんて、最高ぢゃぞ」

夕空は、少しクスッと笑った。

「本当にキヨさんには敵わないなぁ。負けそうですよ」

「なんとっ! では大希と---」

「あっ、それはダメですけど」

「ムムムッ! お主、手強いのぅ」

 一月二十五日。時刻は十四時頃。大希が大学から帰ってきた。玄関では、キヨがホウキで掃き掃除をしている。自宅前はもちろん、向こう三軒まで掃くのがキヨの日課だ。

「ただいま、婆ちゃん」

キヨはホウキを止めて言った。

「うむ、勉学に励んできたんだの。ようやった。熱いお茶でも飲みなさい。

ワシはまだ掃除が残っておるでの」

「うん、一休みするよ」

大希は家に入り、八畳間に入った。そこには嬉しい光景があった。

夕空がコタツに入っていたからだ。

夕空は笑顔で言った。

「あっ、大希君おかえり。お邪魔しているよ」

「あっ、創紫さん! ただいまです。今日はどうしたんですか? もう十四時ですけど」

「今日は午前中で配達が終わったんだよね。さっきお昼ご飯を食べながらキヨさんにそう言ったら『夕威を連れて来なさいっ!』って猛プッシュされてさ。二人で遊びに来たの」

「夕威君?」

大希は夕威の名前をだされ、周囲を見渡した。すると、夕空の奥に寝ている子供がいた。夕威だ。座布団を体の下に敷き、体の上に毛布をかけれられている。スヤスヤと気持ちよさそうに寝ている。大希はそっと近寄り、しゃがんで夕威を間近で見た。

夕空は大希に言った。

「さっきまでキヨさんと遊んでいたんだけど、疲れたみたいだね」

「これが夕威くん…。初めて見ました」

大希は、ジーッと夕威を眺めた。もう一分ぐらい眺めている。

「可愛いですね。ずっと見ていられます」

「へへっ、でしょう? 可愛くってさ、どれだけ見ても全然飽きないよ」

「僕は子供と触れ合った事が無いから、余計に可愛いです。顔立ちは創紫さんに近いかな?」

「うん、それはよく言われるよ。『お母さん似ですね』って」

「でしょうね。二十歳くらいになったら格好良くなってるでしょうね。見てみたいな」

「フフッ、気長に待つよ。ところで大希君、上着脱いでおいで。お茶淹れるからさ。手も洗うんだよ」

「はーい」


コタツで夕空と大希は向かい合って座った。大希は夕空の淹れてくれたお茶を飲んだ。

「ありがとうございます、創紫さん」

「いーえ。それより、いいのかな? 私が勝手に台所を使っちゃって」

「全然いいですよ。お昼に、いつも婆ちゃんにお茶を淹れてくれているんでしょう?

ありがとうございます」

「フフッ。私、キヨさんや大希君と同じぐらい、歓雫家の台所に詳しくなっちゃった」

そう言って二人でお茶をすすっていると、夕空は何かを思い出して、少し吹き出した。

それを見た大希は不思議に思い、夕空に聞いた。

「どうしたんですか?」

「いやね、面白かったから。さっきの大希君」

「さっき? どの辺りですか?」

「私が『手も洗うんだよ』って言ったら、『はーい』って素直に言うからさ」

「…? 面白いですか?」

「うん、可愛いなって思ったの」

大希は顔を赤くして言った。

「かっ、からかわないでくださいよっ!」

「照れた顔も可愛いね、アハハッ」

夕空は真面目な表情になって言った。

「どっちが本当の大希君なんだろうね」

「どっちって?」

「私さ、この町全体に配送ルートがあるから、色々な人とお話をするの。宅食を契約している人って、大体がお年寄りなんだよね。で、お年寄りって噂話が大好きだから、大希君の事も沢山聞いたんだ」

「…はい」

「先週、商店街で、ヤクザ風の男をノックアウトしたって本当?」

「…」

「本当なんだ。どうしてそんな事をしたの?」

「商店街で、シルバーカーを押したお婆さんが歩いていたんです。八十過ぎくらいかな? その前から、歩きスマホをしたヤクザ風の男が歩いてきて。お婆さんは避けきれなくて、男の足に少し当たったんです。すると、その男は激高して『どけっ! ババアッ!』って怒鳴って、シルバーカーを蹴ったんです。お婆さんは弾みで倒れるし、シルバーカーの中身が飛び散りました。卵が割れてましたよ。商店街で買ったんでしょうね。それで---」

「怒って、ケンカになったんだね」

「違います。怒ったのは間違いないんですけど」

「どういう事?」

「ケンカは、一対一の戦闘でしょう? 僕は、ヤクザが通り過ぎた時を狙って、背後から殴ったんです。襲撃です。ケンカとは似ているようで違います」

「うーん…。こういう噂を何件も聞いたんだけど、大体こんな感じなんだよね」

「反省しているんですけど…。気が付いた時はもう…本当に気が短くて」

「う~ん、それは違うと思う。大希君は、『キレやすい・気が短い』とは違うかもね」

「違いますか?」

「キヨさんから聞いたよ。君は昔、算数の九九も言えなかったんでしょ? それが難関大学に合格するなんて、よほど頑張ったんだね。気の短い人なら、そんなにコツコツ努力なんてできないよ。それにキヨさんと二人で住んでるじゃない? お年寄りと二人で同居なんて、気が短いと絶対に無理だし。何か他に原因があるよ。心当たりある?」

「心当たり…」

「こんな話も聞いたよ。町外れに、年配のご夫婦がやっている花屋さんがあるじゃない? ご主人がバケツに入った泥水を、お店の前に撒いた。そうしたら、前を歩いていた大希君にかけちゃったって。『どんな目に遭わされるんだろう』って恐れていたら、笑顔で大希君が言ったんだって。『あっ、いいですよぉ~』って。それ本当?」

「笑顔で言った覚えはないですが、言いましたね。水がかかったと言っても、膝から下ですからね。洗えば済みますし。別にいいですよ」

「べったり泥が付いたんだよね? 後日、大希君の家に謝りにきたんでしょう? クリーニング代を払いに。受け取ってもらえないどころか、お土産を渡されたって言ってたよ」

「お土産っていうか、余ってた影丸を渡しただけです。残り二個だったから、ご夫婦に丁度良いかなと思って。賞味期限も間近だったし、こっちが助かったくらいで。それにあの花屋さんは、婆ちゃんがとても世話になっているんです。植木や花の扱い方のアドバイスを、しょっちゅうもらってますからね」

「う~ん、本当に分かんないね。大希君って『キヨさん』とか『お婆さん』っていうキーワード委が絡むと、人が変わっちゃう気がするね」

「…」

二人で話していると、横から声がした。


「どうじゃ二人共、盛り上がっておるかのぅ?」


キヨが廊下に立っていた。

大希はキヨに言った。

「おかえり、婆ちゃん。お掃除お疲れさま」

「うむ。大希、茶を淹れてくれ。ワシは手を洗ってくるでの」

夕空は慌てて言った。

「キヨさん、お茶なら私が淹れます」

「ならぬっ! 大希に淹れさせるのぢゃ。のう、大希」

「はいっ! お婆ちゃん」

大希とキヨのやりとりが面白かったのか、夕空は少し笑った。


キヨはコタツに入り、お茶を一口飲んだ後に言った。

「ところで大希よ、ユアピーは口説いたのかのぅ?」

「ちょっ、ちょっと婆ちゃん! なに言ってんだよ!」

「なんじゃ、まだか。せっかく二人っきりの時間を作ってやったのに。甲斐性のない男ぢゃ」

「止めてってばっ!」

夕空は恥ずかしそうにうつむいていた。

大希は話題を変えるべく、夕空に聞いた。

「あのー、創紫さん。あれなんですけど」

大希は部屋の隅に畳んで置いてある、夕空のハーフコートを指差した。

「コートがどうかした?」

「袖のボタンが取れかかってますね。付け直していいですか?」

「大希君が? いいって! そんな事しなくていいよ!」

キヨは冷静に言った。

「うむ。大希よ、ボタンを付けてあげなさい」

「うん」

大希は裁縫セットでボタンを付け始めた。

針でボタンを縫いながら、夕空に聞いた。

「ボタンを縫っていて思い出した。服の事で、創紫さんに相談があるんです。婆ちゃんから聞いたんですけど、創紫さんって服飾系のお仕事されていた時期があるんですよね?」

「そうだけど、なんだろう? 私に分かるかな」

大希はコートと針を、いったん畳の上に置いた。そしてタンスの前に行き、中から丁寧にたたまれた服を一着取り出した。それを夕空の前に広げた。

「これなんですけど」

それは古びたワンピースだった。色は全身ピンク色。だが、所々に茶色いシミが付いてしまっている。虫が喰った後なのか、小さな穴がいくつかある。

「へぇ、可愛らしいワンピースだね。でも、かなり古い品だね。これがどうしたの?」

「これって、直りませんかね? クリーニングに出そうとしたら、店員さんに『こんなに古いシミは落ちないかもしれませんし、かなり古い品なので、洗うと痛めてしまうかもしれません』って言われました。まぁ、七十年以上も昔の品ですからね…」

夕空はワンピースを手に取った。顔を近づけてじっくりと見た。

色々な部分を触って、感触を確かめた。

「う~ん、お店の人の言う通りだね。状態を良くするのは無理かもしれない。大希君は、これをどうしたいの?」

「少しでも綺麗にならないかなって。そして、婆ちゃんに着せてあげたいんです」

「そっか。でも、かなり厳しいね」

キヨは大笑いして言った。

「カッカッカッ! ユアピー、遠慮せずともハッキリ言ってよいぞ。仮にワンピースが直っても、このタヌキ腹では着れんぢゃろう? 当時と今では、体重が二十キロぐらい違うからのぅ」

「アハハ…。キヨさん、すみません。でも、キヨさんて背が高いんですね。このワンピースは身長百六十~七十センチの人用ですよ」

大希が言った。

「今は腰が曲がっているから分かりませんけど、若い時は百七十位だったそうですよ」

「そうなんだ! その身長で、この細いワンピースを着ていたんなら、凄いスタイルだ! これはいつ頃の品なのですか?」

「ワシが十八~九の頃かのぅ。ワシが街の服屋で見つけたのぢゃ。ガラス張りの所に飾ってあってのぅ。可愛らしくて、一目で心を奪われたわい。ウチは貧しかったから、もちろん買ってもらえん。服屋の前で眺めて、自分の来ている姿を想像するのが幸せぢゃった。そんな日が一年続いた頃、父親が買ってくれたのぢゃ。結婚が決まったからのぅ」

「あっ、お祝いですね」

「いや、詫びじゃ。償いぢゃよ」

「お詫び…?」

夕空はキヨが以前、『結婚生活は辛かった』と言っていたのを思い出した。

「つまりワシが望まない結婚ぢゃ。ワシは夫を好きではなかったし、夫の家族とはウマが合わなくてのぅ。彼らの前では絶対に着んかった。夜中に着て、鏡に映る自分を見とったよ。そして、華々しい街中を歩いている姿を想像して楽しんでおった。ワシの苦しい時期を支えてくれたんぢゃ。これはそんな思い出が詰まったワンピースなんぢゃよ」

「七十年前の、思い出のワンピースか…。じゃあ、尚更なんとかしてあげたいけど…。キヨさん、ごめんなさい」

キヨに代わって、大希が慌てて言った。

「いえいえ、そんな! 困らせてしまって、すみませんでした」


数分後、大希はコートのボタンを付け終えた。そしてコートを夕空に渡した。

「はい、創紫さん」

「ありがとう、大希君」

夕空はコートを受け取ると、ボタンの着いた袖を見た。

「綺麗に着いてる…。大希君って、本当に家事はなんでもできるんだね」

「僕は婆ちゃんの後継者ですから」

「後継者?」

「はい。この七年間で、婆ちゃんの家事・炊事は全部教えられましたから」

「えっ、そうなの? それはすごいね」

キヨは夕空に言った。

「カッカッカッ! 今時の男は家事もできんと、女にモテんからのぅ。

ユアピーよ、大希はエエと思わんか?」

大希は大声でキヨに言った。

「婆ちゃん! もう本当にそれはいいから! 止めてよね!」

「なんぢゃ、つまらんのぅ」

夕空は二人のやり取りが面白く、笑っていた。

そんな夕空を他所に、キヨは大希に言った。

「しかしのぅ、大希よ。お前がユアピーに惚れているのは、もうバレておるぞ。いくら否定しても、証拠が挙がっておる。諦めるのぢゃ」

「証拠って? そんなのある?」

「お前、いつから自分の事を『僕』なんて言うようになったのぢゃ? お前と暮らし始めて十年間、お前の口から僕なんて言葉を聞いた事がないぞよ。惚れた女に格好をつけたいと思っておる証拠ぢゃ。カッカッカッ!」

「へっ…? うぅ…」

大希は顔を赤くしてうつむいてしまった。


三人はお茶菓子の煎餅せんべいを食べながら、楽しく雑談をして過ごしていた。

次は夕威の話になった。

キヨは夕威の寝顔を見て言った。

「夕威は本当に可愛いのぉ。ユアピーよ、夕威はどんな大人になってほしいかのぅ?」

「え? 毎日の育児に追われて、じっくり考えた事はなかったですね。キヨさんは、どう思われますか?」

「う~む、そうぢゃのう。乱暴者ぢゃのうて、女を格好よく口説ける男かのぅ」

大希は肩を落として言った。

「もう、キツイなぁ、婆ちゃんは」

反対に夕空はクスクス笑った。

「アハハ、そうですね。私が女の口説き方を仕込もうかな」

キヨは高らかに笑った。

「カッ! カッ! カッ! それがええのぅ」

夕空は夕威の寝顔を見ながら、愛おしそうに言った。

「夕威だけじゃなくて、私と夕威はキヨさんと大希君みたいになれたらなって思います」

夕空の言葉の意味が、ピンとこなかった大希が聞いた。

「どういう意味ですか?」

夕空はキヨと大希を見ながら言った。

「大希君は勉強もできるし、格好もいいじゃない? そしてキヨさんを大切にしてる。キヨさんも大希君が大好き。夕威も勉強ができて格好良くなってくれたら嬉しいし、私の事を大切にしてくれたら嬉しいな。お二人は、私にとって理想なんだよね」

大希は恥ずかしそうに言った。

「理想だなんて、照れます」

「まぁ、勉強はできれば良いけど、なにより大切なのは、優しい心を持ってほしいの。そうだね…例えば、困っている人を、放っておけないというか。大切な人がピンチだと聞いたら、例え食事中だろうが仕事の途中だろうが、スッ飛んで行くような感じだね。そんな義理を大切にする優しい人。そんな男に育ってほしいかな」

キヨは、深く何度もうなずいた。

「うむ、うむ、そうぢゃのう。夕威ならそんな男になるぢゃろう。『お助け宅急便』みたいな男じゃな」

「アハハ、ありがとうございます。まぁ夕威は将来も楽しみですけど、まずは今ですね。小学校に入ったら、なにか習い事をさせてあげたいんです。私は音楽が好きだったから、ギターを教えてあげようかな。他には夕威の好きな事を見つけてあげたいですね。なにかお勧めの習い事ってありますか?」

大希は『う~ん』と言いながら考え込んだ。

一方、キヨはキッパリと素早く答えた。

「武術ぢゃな。習うのは空手。うん、空手がエエぞ」

夕威は不思議そうな表情でキヨに聞いた。

「あら? キヨさんが武術をお勧めになるなんて意外ですね。しかも空手なんて具体的だし。なぜ空手なのですか?」

「武術は心と体を一緒に鍛えらえるでのぉ。特に空手は、精神の鍛錬に重きを置いておる。『空手に先手無し』なんて格言もあるのぢゃ。攻撃ではなく、身を守るための武術。それが空手ぢゃ」

「へ~え! そうなんですね。詳しいですね」

関心している夕空を横目に、大希はキヨに言った。

「婆ちゃんそれって、この間一緒にテレビで見た、空手の映画の事じゃあ…」

キヨはトボけた表情で言った。

「う~ん、そうぢゃったかのう?」

夕威は笑って言った。

「アハハ! キヨさんってば。でも、武術で心身共に鍛えるのは良いかもしれませんね。空手か。覚えておきます」


十五時を過ぎた頃に、夕空は言った。

「さて、そろそろ帰りますね。もうすぐ夕威も起きる頃だし。車をとってきます」

キヨが言った。

「うむ。大希よ、駐車場までユアピーを送って行きなさい」

夕空は言った。

「あっ、いいですよ。歩いて十分くらいのコインパーキングですから」

「うんやっ! 大希よ、行ってきなさい! ワシは夕威を見ておるでの」

大希と夕空は、コインパーキングに向かって歩いていた。

大希は言った。

「創紫さん、今日はありがとうございました。婆ちゃん、楽しそうでしたよ。僕も楽しかったです。夕威くんも初めて見れたし」

「うん、それはこちらもだよ。私、この町には親戚とか友達がいないからさ。親しい人達ができて心強いの」

「これからも夕威くんと一緒に、仲良くしてくださね」

「うん、ありがとう。よろしくね」

「それと、さっき婆ちゃんが言った事は気にしないでください」

「えっと、なんだっけ? 今日は沢山お話したからね」

「僕が創紫さんを好きだって話です」

「あ、大丈夫だよ。キヨさんが言っているだけでしょう? 気にしてないよ」

大希は恥ずかしそうにしつつも、ハッキリ言った。

「いえ、本当です。僕は創紫さんに惚れています。好きなんです」

断言した大希の言葉と言い方に、夕空は驚いた。

「いっ、いや、おかしいよ! 私は年上だし、子供もいるし。若い大希君と釣り合いなんてとれないって!」

「美人で、仕事に一生懸命で、子供を愛してる。良いトコロしかありませんよ。僕は親に愛されないで育ったから、夕威くんに愛情を注ぐ創紫さんが素敵に映ります」

夕空は顔を真っ赤にして、右手で自分の後頭部を撫でた。

「アハハ…、参ったな」

「でも安心してください。僕は、創紫さんに付き合ってほしいと言う事はありません」

そう言われ、夕空は安心したような、残念なような、不思議な感覚になった。

「あ、そうなんだね。理由を聞いていい?」

「二つあります。一つは、創紫さん。今、僕に告白されても困るでしょう?」

「うん、まあそうだね。仕事はこれからって感じだし、夕威をもっと構ってあげたいし。恋愛って気にはなれないの。時間も作れないしね」

「ですよね。創紫さんを困らせたくないんです」

「二つ目は?」

「婆ちゃんの事です。他所の人から見たら、婆ちゃんって元気に見えるでしょう? でも、もう九十なんです。初めて会ったのは、十年前だから八十歳でした。その頃と今とでは比較にならないくらい、体は弱りました。僕は医者じゃないけど、これから何年も元気でいられるとは思えません。今、何かあっても不思議じゃないんです」

「うん…」

「だから婆ちゃんと過ごす時間を大切にしたい。一緒にオヤツを食べたり・散歩をしたり他愛もない事なんですけどね。婆ちゃんと過ごす時間が愛おしいんです。婆ちゃんから聞いているかもしれませんが、僕にとって家族と呼べる人は、キヨ婆ちゃんだけなんです」

「そっか。本当に大希君はお婆ちゃん想いなんだね」

「婆ちゃんが僕の幸せを願って、恋人を作ってほしいと思っているのは分かっています。でもそれ以上に、僕は婆ちゃんと一緒にいたいんです」

「うん、大希君の気持ちは分かったよ」

「はい、僕は告白したりしません。だから安心してくださいね」

夕空はイタズラっぽい笑顔で言った。

「分かったけどさ~、な~んか私がフラれたみたいな感じになってるよねぇ?」

大希は必死に否定した。

「違いますっ! 違いますよ、そんなっ!」

夕空は大笑いした。

「アハハッ! 冗談だよっ! 本当に真面目なんだから、大希君は。不器用なのに一生懸命に言葉を紡いで、気持ちを伝えようとしてくれたんだよね。私が困ったり、悩んだりしないようにさ。ありがとう」

「いっ、いえ」

「大希君は優しいね。私は君のそういうトコロがさ---」

「ん?」

「好きなの」

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