記録No.13『コーヒーと、手のひらの温度』
翌日、ユウトは通常通り出勤した。ただ、表情とは裏腹に、ユウトの内心では心臓の鼓動がうるさいくらいに鳴り響いていた。
昨日フリーゾーンへ行ったこと、タツヤと会ったこと、ひっかけを仕掛けたこと。それらは業務上の記録にない。私用として処理した範囲の出来事でしかなかった。
急に休みを取ったことについて、同僚は何も尋ねてこなかった。今思えば、それすらも不気味に思えてくる。
午前中は二件、案件があった。どちらも通常の面談で、話を聞いて、何か不満なことがないか、状態としてどんな状態かをデータを参照しながら行う確認作業。ただ、いつも通りの流れの中で、ユウトだけがいつもと違う行動をしていた。業務の中で困っていることはないか。何か、昔のことを思いだそうとすると変な感触はあるかなど、面談の時間を多少長引かせてでも契約者に事細かに尋ねるようになっていた。
ただ、回答はどれも同じで徒労に終わる。契約者は小首をかしげ考えつつも、その回答はミナトのソレと酷似してばかりだ。
「確かに、昔のことあんま覚えていないかも」「ま、でも安心できる暮らしで最高っすね」「数値も問題ないってなってて、この前ボーナス貰いましたよ」そんな返しに、ユウトは果たしてうまく笑えていたのか、わからなかった。
昼食はいつもの定食屋だった。レナと二人で向かう道で、ユウトはタツヤからの連絡がまだ来ていないことを確認した。
「ねぇ、昨日、どこ行ってたの」
道を歩いていたレナが振り返り、尋ねる。
「ちょっと、用事があって。あ、変な店ではないです」
「まだ聞いてませーん。単純に仕事がいやになったとか、疲れたとかなのかなって。一昨日は休んでたし、昨日は帰るの早かったじゃん。なんかペットでも飼い始めたの?」
「いえ、飼ってないですね。ちょっと、知人に会いに行ったんです」
恐らく、普通のやり取り。上手く返せているだろうか。貼り付けた笑顔で返すユウトは、レナの丸い瞳をうまく見ることができない。
「昔の友達とか?」
「まぁ、そんなところです」
「ふーん」
それ以上は聞かれなかった。レナは前を向いて歩き続ける。
食堂に着いて、いつもの席に座った。日替わりを頼んで、少し待つ。と、そこで、レナは思い出したかのように「あ」と声を上げた。
「ど、どうしましたか」
「報告書、昨日の分だけど」
レナが言った。
「はい」
「M-0031の備考欄、フォーマット違うよ。修正依頼の通知があった。まだ他の人は確認してないんじゃない?何か言われる前に直しときな」
「……あ」
ユウトは自身の昨日の行動を振り返り、喉奥を小さく鳴らした。M-0031。その記録は確か、タツヤとのやり取りの後、夜中に確認していたはずだ。確認した後、何かを備考欄に書き込んでいたかもしれない。だが、正確な記憶がなかった。あの夜、自分のプロフィール含め、かなりの量の記録を読んでいたから。
「……すみません、確認します」
「うん。まぁ、多分簡易なモノなんじゃないかな。ユウトがミスするのって珍しいからさ」
「そうですかね」
「うん、そうでしょ。あんまり周りを悩ませたことがない。シゴデキ人間って感じだったもん」
運ばれた食事に口をつけながら、レナは昔を思い返すかのようにそう話す。
「疲れてるとか、そうじゃないならいいんだ」
「疲れてはないですよ」
「そ、あれなら気晴らしにどこか飲みにでも行く?って誘おうと思ったけど」
「僕、あまりお酒を飲めないの知ってて言ってますよね」
「まぁね」
手を口に添えながら、レナは笑う。気を紛らわせようとしてくれてるのだろうか。先日先々日のユウトは、急な休みを取ったり、急に午後にいなくなっているのだから、何か思うことはあったのだろう。ユウトはレナに心の中で感謝しつつ、食事に口をつけた。
昼食が終わって、二人で事務所に戻る道を歩いていた。
少し前を歩くレナの後ろで、ユウトはM-0031の備考欄のことを考えていた。何を書いたのか。フォーマット違反というのは、様式の問題か、それとも内容の問題か。
「……ユウト」
レナが前を向いたまま言った。揺れるポニーテールに目を奪われて、遅れて気づく。
声のトーンが、いつもより低い。
「……はい」
「修正は、急がなくていいよ。今日中に出してくれれば」
「わかりました」
「ただ」
レナが少しだけ、歩調を落とした。ユウトとの距離が、わずかに縮まる。ふわりと、香水の香りがした。
「備考欄に書いてたこと、誰かに見られる前に、直した方がいい」
そう告げられ、ユウトは足を止めた。
それとは対照に、レナは足を止めることはなかった。縮まっていたはずの距離が、また開く。
「それって、どういう」
ユウトの問いに、レナは答えない。前を向いたまま、歩き続けることが、その意思の表れだった。ただ、足を止めるユウトのその声を聞いて、
「気をつけて」
ただ一言。それだけを残して、歩き続けた。
その声は、驚くほど冷たく、おおよそレナから発せられた声とは思えなかった。
和やかな昼食時の会話からの温度差に、ユウトはしばらく、レナの背を見るしかなかった。レナは、ユウトが止まっていても、一度も振り返ることはなかった。足音で、ユウトが止まってしまったことには気付けているはずだ。
それでも、ただの一度も振り返ることはなく。そうして、振り返らず、角を曲がって、消えた。
「レナ……」
誰かに、とはどういう意味か。機構の中の誰か、ということか。それとも、もっと具体的な誰かを指しているのか。
答えは出なかった。ただ、レナが「気をつけて」と言った。それは、知っているから言える言葉だ。知っていない人間は、気をつけてとは言わない。
昼食時のレナは、まるでフォーマットとの齟齬は認識していたが、中身は確認していないような言い回しだった。それが、今の言い回しになるならば、レナは嘘をついていたことになる。
何を書いていたのだろう。ユウトは、早歩きになりながら続けて事務所に向かった。
――――――――――――――――――――――
事務所に戻ってすぐ、ユウトはM-0031の備考欄を確認した。
レナの言葉を受け、どのタスクよりも最初に確認したのだ。
「――いや、これ」
開いて、ユウトは呟く。呟くというより、漏れ出たかのような言葉、口を押え、目を見開いた。
フォーマット違反の原因がわかった。所定の欄ではない。規定外の記入欄に「外部端末参照・確認済」という文字が入っていたのだ。
記憶を遡る。あの夜、記録を見ていた最中に、無意識に打ち込んでいたらしい。
フォームの登録手段として、本来、この欄は空白でなければならない。通常時の報告においては、この欄への記入そのものが逸脱となる。
ここは異常や問題があると確認した場合にのみ、原因その他諸々を記載するための領域だ。だからこそ、「問題なし」が続く正常と評されたM-0031の報告に文字が存在した時点で、それは既に以上として扱われ差し戻されていたのだ。
即、文章を削除した。
フォーマット通り備考欄に何も書かず保存し、提出する。
その後、口を覆いながら頭の中で状況を整理し始めた。まず、上の人たちにバレていないかだ。恐らく、問題ないだろう。システムというのはあくまで機構側のログデータとして残るわけではない。一度削除し、保存し直した時点で恐らく振り返ることはできないはずだ。
修正する前に、見られていなければだが。
つまり、レナは気づいていたということになる。気づいていた上で――そこまで思考して、再度ユウトの脳内が謎に埋め尽くされていく。
何故レナは、「見られる前に」とだけしか言わなかったのか。例えば、ユウトがミスをしてしまったから、バレないうちに隠してしまえという意味で伝えたのかもしれない。だが、その場合、レナはユウトの入力したこの内容をやはり確認したことになる。仮にレナが見たのだとすれば、まずユウトと同じ気持ちにならないだろうか。
要は、外部端末とはなんなのか?と言う気持ちにならないのだろうか。レナはユウトが入力した内容について、「何も疑問に思わず」「ただ、消す必要がある」と感じたと言うことになる。
そして、もしこの考えが正しければ、レナはこの外部端末の話が、機構に知られてはいけないことだと認識していることになる。
――レナは、機構のおかしさに気づいてる?
信じて、いいだろうか。レナがもしも外部端末の存在を知っており、尚且つそれを機構に伝えるべきではないと判断している人間なら、心強い。この異常について対応する仲間が増えるかもしれないからだ。
ただ、純粋に内容はわからないが、ルールに従って消すべきだと言う助言程度のものなのかもしれない。その場合、下手に動揺をしたり、余計なことを話してはその後がどうなるか予想がつかない。
ユウトの行いを機構にとっての異端と捉えたなら、先ほどのような対応はしないだろう。かといって、機構に対して違和や敵意を向けていた場合、レナ側からのコンタクトが訂正しろだけで終わるだろうか。
中立的な立場……あくまで見て見ぬふりをするにしても、それにはそれで相応の理由がないとおかしいはずだ。この内容を理解し、そのうえで関わりたくないとなった理由や背景がそこには隠れている。
意図は掴めないし、こちらからの詮索をどう受け取るかすらわからない。
当然、集中できるわけもなく、午後から終業時刻までの一分一秒が永遠のように感じられる苦行にユウトは耐えるしかなかった。
――――――――――――――――――――
業務終わりまで、レナと会うことは一度もなかった。メールで呼び出せるわけもなく、ユウトは業務終了後、足早に「お疲れ様です」とだけ言ってレナの方へと向かうことにした。
と、ちょうどそこで荷物をもって帰宅しようとしていたレナとばったり出くわす。ちょうど偶然と言わんばかりのタイミング、先に気づいたのはユウトだったが、レナは後から気づき、わずかに目を見開いた。呼吸も、ほんの一拍だけ乱れる。
――だが、それもすぐに消えた。
作られた笑みが、寸分の狂いもなくそこにあった。
「あれ、ユウトももう帰り? 修正は無事出来たかな。特にあの後何も来てなかったみたいだし、良かった良かった。それじゃあ、今日は私オフデーなの。ジムとか行くんだ~」
それだけを残して、彼女は視線を外す。そのまま、すれ違うように歩き出した。
「レナ……」
呼び止めるより先に、名前が零れる。だが、弱弱しいユウトの声には応じない。そのまま、帰りのエレベーターに乗るようにとユウトの後ろを通り過ぎようとして、
「——待って、待ってください。」
反射のように手を伸ばし、その小さな手のひらを掴んだ。
彼女の動きが止まる。振り返るまでに、わずかな間があった。その一瞬だけ、整えられていたはずのものが、追いついていない。
口角は、確かに上がっていた。けれど、噛み締められた歯が、その形を無理に支えている。目元だけが、取り残されたように濡れていた。
ユウトは、瞬きをする。その次の瞬間には、何事もなかったかのように、レナの口元は整えられていた。
「なに、どうしたの。そんな顔して」
軽く首を傾げてみせる。さっきまでの歪みなど、最初から存在しなかったかのように。
「手、痛いってば」
くすりと、レナは小さく笑う。
その声音も、仕草も、いつもと変わらない。
——変わらないはずなのに。
ユウトは、何も言えなかった。
さっき確かに見たはずのものを、どう言葉にすればいいのか分からない。問い質すことも、引き留めることもできないまま、指先の力だけが曖昧に残る。
やがて、その手がするりと抜けた。
「じゃ、またね。ユウトも、今日は早めに帰るんでしょ?」
ひらりと手を振って、レナは今度こそ背を向ける。振り返ることは、もうなかった。
足音が遠ざかっていく。
——追いかけるべきだったのかもしれない。
そう思ったときには、もう遅かった。レナはもう、角を曲がって見えない。思わず、ユウトは自分の手のひらを見つめる。
レナの手の感触だけが、いつまでも離れなかった。その温度は本物で、だからこそ、偽物のような笑顔を張り付けた彼女の真意が気になって。
ユウトは、その場に立ち尽くしたままだった。
——さっきまで、そこにあったはずのものを確かめるように。




