負傷兵には、勝利より先に粥を出す
第一波を退けたあと、砦で一番混み合ったのは武器庫ではなかった。
医療室だった。
矢傷、打撲、凍傷、転倒で捻った足。大きな傷を負った者は少ない。だが小さな傷は多かった。小さな傷は、空腹と寒さが重なると、翌日には大きな欠員になる。
リオネルは厨房から薄粥の鍋を運ばせた。
グレオが不満そうに鼻を鳴らす。
「戦のあとだ。兵には濃いものを食わせたい」
「立っている兵には濃いものを。横になった兵には薄いものを」
「薄い飯で元気が出るか」
「出さなくていいんです。まず、戻します」
負傷兵の腹は、元気な兵の腹とは違う。血を失った者、痛みで吐き気がある者、寒さで胃が縮んだ者に、脂の浮いた濃い豆湯を入れれば、体は受け取れない。戦場では「食え」と命じるより、「食える形」にするほうが早い。
医療室の長椅子に、若い弓兵が座っていた。腕に包帯を巻かれ、顔色が悪い。彼の前には、朝の配給で残した硬いパンが置かれている。
「食べられませんか」
リオネルが尋ねると、弓兵は悔しそうに目を伏せた。
「噛むと、腕に響くんです」
「腕で噛むわけではないのに、不思議ですね」
弓兵が驚いて顔を上げる。叱られると思っていたのだろう。
「痛みは体の中でつながっています。無理に噛まなくていい」
リオネルは薄粥を椀によそい、砕いた黒パンを少しだけ沈めた。香草の茎を湯にくぐらせ、匂いだけを移す。塩は控える。体が水を欲しがっているときに、塩で追い立ててはいけない。
「三口でやめても構いません。残したら、次はもっと少なく出します」
「残していいんですか」
「次に食べるためなら」
弓兵は椀を受け取り、慎重に口をつけた。喉が動く。二口目までは遅かったが、三口目で少しだけ息をついた。
「温かい」
その言葉は、北壁の兵が言ったものと同じだった。けれど意味は違う。こちらは戦うためではなく、戻るための温かさだった。
エルセが医療室へ入ってきた。鎧を脱いでいない。肩に矢傷の手当てを受けた跡があった。
「負傷兵を甘やかす余裕はない」
言葉は厳しかったが、目は負傷者の数を数えている。彼女は甘やかしを嫌うのではなく、砦が壊れることを恐れているのだ。
「甘やかしではありません。明日の戦力計算です」
「粥で計算するのか」
「はい。今日、硬いパンを残した兵を叱れば、明日は食事を隠します。食事を隠す兵は、痛みも隠す。痛みを隠す兵は、城壁で倒れる」
エルセの表情がわずかに変わった。
「痛みを隠す兵は多い」
「なら、食事から聞き出します」
リオネルは医療室の入口に小さな表を貼った。重傷、軽傷、凍傷、夜番復帰予定。兵の名前の横に、食べられるものを書く欄を作る。
副官が眉をひそめた。
「軍務記録に食事欄などない」
「だから足します」
「上に出す書類ではないな」
「現場が倒れないための書類です」
エルセは表を見つめ、やがて短く言った。
「許可する。ただし、兵に弱音を書かせるな」
「弱音ではなく、回復予定を書きます」
その言い方なら、兵も受け取りやすい。リオネルはそう考えた。誇りを折らずに体を守る。それも給糧の仕事だ。
昼過ぎ、第一波で負傷した弓兵が、自分から粥の二杯目を求めた。
「腕はまだ痛みます。でも、腹が落ち着きました」
「なら、夕方は少し濃くします」
「明日は壁に戻れますか」
リオネルは包帯を見て、医療係に目を向けた。医療係が首を横に振る。
「明日は矢作りです。壁ではなく、壁を支える仕事です」
弓兵は不満そうにしたが、すぐに頷いた。
「矢作りにも飯は出ますか」
「出します。細かい作業なので、手が震えないものを」
医療室にいた兵たちが、少しだけ笑った。
夕方、敵の第二波は来なかった。代わりに、森の奥で煙が上がった。敵も食事をしている。だが煙は細く、長く続かなかった。
リオネルはそれを見て、倉庫の残量を数え直した。
こちらも余裕はない。負傷兵へ粥を出せば、城壁の兵の分が減る。城壁の兵に濃い豆湯を出せば、夜番の分が苦しくなる。
勝利とは、豪華な祝宴ではない。
誰に何を食わせ、誰を明日へ残すかを決め続けることだ。
リオネルは表の端に、新しい欄を書き足した。
「復帰予定」
その四文字が、灰嶺砦の小さな希望になった。
希望は、書いただけでは腹に入らない。だからリオネルは、復帰予定の横に「最初に食べるもの」も書き足した。薄粥、柔らかい麦団子、豆湯、焼き直しパン。医療係は最初こそ戸惑ったが、すぐに頷いた。
「傷の深さより、食べられるもののほうが回復の目安になることがあります」
「では、医療室と厨房の表をつなげます」
「そんなことをした給糧官は初めてです」
「王宮では嫌がられました」
医療係は少し笑った。
夕方、リオネルは負傷兵たちの椀を見て回った。残した量、飲む速さ、顔色。兵たちは最初、監視されているようで落ち着かない様子だったが、やがて一人がぽつりと言った。
「給糧官殿、明日はもう少し塩を」
「汗が出ていますか」
「寝ているだけなのに、やけに」
「では、次は少しだけ」
別の兵が口を挟む。
「俺は酸っぱいのがほしい」
「熱があります。酢漬け根菜を少し入れましょう」
医療室に、妙な注文の列ができた。豪華な注文ではない。体が何を求めているかの報告だった。痛みを隠す兵も、味の注文なら言いやすい。
エルセが入口からそれを見ていた。
「兵がわがままになったな」
「生きるためのわがままです」
「悪くない」
彼女は短く言い、自分の肩の包帯を押さえた。リオネルはその動きを見逃さなかった。
「砦将も粥です」
「私は立てる」
「立てる人にも、治す食事は要ります」
エルセは不服そうにしたが、椀を受け取った。周囲の兵が見ないふりをして笑う。指揮官が粥を飲む姿は、負傷兵たちに妙な安心を与えた。
強い者も、食べて治す。
その当たり前が、砦の中に少しずつ広がっていった。
翌朝、医療室の入口に小さな椀置き場ができた。食べ終えた椀をそこへ返せば、リオネルが残り具合を見られる。最初は嫌がる者もいた。自分の弱さを椀の底に残すようで、居心地が悪いのだろう。
「残したら叱るのではありません」
リオネルは負傷兵たちへ言った。
「残し方を見ます。豆だけ残るなら噛みにくい。湯だけ残るなら塩が強い。全部残るなら、熱か痛みを疑います」
弓兵が苦笑した。
「椀まで診るのですか」
「椀は嘘をつきません」
医療係がその言葉に頷き、椀置き場の横に清潔な布を置いた。食べることと治ることが、ようやく同じ場所に並び始めていた。




