補給線を切ったのは、敵ではなく王都だった
停戦一日目の朝、商人バルドが灰嶺砦へ呼ばれた。
彼は門をくぐるなり、両手を上げた。
「今回は値を吊り上げておりませんよ。まだ何も売っていない」
「今日は売買ではありません」
リオネルは広間の机に、三つの帳面を並べた。灰嶺砦の倉庫表、敵軍オルグが持ってきた契約控え、そしてバルドの納品記録。紙の質も書き方も違う。だが、食料の流れは紙の上に跡を残す。
エルセ、副官、バルド、そして敵側の連絡役が同席した。敵兵を砦の広間へ入れることに反対もあったが、停戦中の補給確認には相手の証言が必要だった。
「この乾燥玉ねぎの契約日」
リオネルは敵側の控えを指した。
「灰嶺砦が買った日より前です。なのに、荷は王都軍へ流れている」
バルドは汗をかいた。
「王都軍が高値で」
「高値で買うこと自体は商売です。ただ、契約済みの荷を横流ししたなら、次から誰もあなたを信用しない」
「横流しではない。仲介商が」
「名前を」
バルドは口を閉じた。商人にとって、名前は金だ。だが、今はその金より命が重い。
エルセが静かに言う。
「このままなら、北辺の砦も敵軍も飢える。飢えた者は商人の荷を奪うようになる」
バルドの顔色が変わった。商売相手が消えるより、商売相手が盗賊化するほうが商人には怖い。
「ダリオ卿の補給係です。名はセム。王都軍本隊へ回すと言って、北辺向けの荷を買い上げていた」
副官が机を叩いた。
「やはり王都か」
敵側の連絡役も顔を歪めた。
「我々の補給が消えた理由もそれか」
リオネルは帳面に線を引いた。灰嶺砦の食料不足、敵軍の突撃、王都軍の空腹。すべてが一本の補給線でつながっている。
「セム補給係は、なぜ集めた食料を王都軍へ正しく配っていないのでしょう」
エルセが目を細める。
「そこが問題だな」
ダリオの補給隊は空腹だった。荷車も空に近かった。つまり、買い上げた食料は王都軍の兵にも届いていない。
「どこかで止まっています」
リオネルは言った。
「横領か」
副官の声が低くなる。
「まだ断定できません。ただ、食料が消えている」
そのとき、広間の外から騒ぎ声がした。門番が駆け込んでくる。
「王都軍の荷車です! 追われています!」
全員が外へ出た。
南街道から、一台の荷車がよろめくように走ってくる。御者台には若い兵。後ろから、王都軍の騎兵が二騎追っていた。荷台には布をかけた樽が積まれている。
エルセが即座に命じる。
「門を開けろ。弓兵、騎兵を止める構えだけ見せろ」
荷車は門内へ滑り込んだ。若い兵は転げ落ちるように降り、膝をついた。
「助けてください。これは北辺砦向けの食料です。セム補給係が、売るために隠していた」
追ってきた騎兵は、城壁の弓を見て馬を止めた。
「その荷は王都軍のものだ!」
エルセが城門の内側から答える。
「ここは灰嶺砦だ。証拠品として預かる」
騎兵たちは罵声を残して引き返した。
荷台の布を外す。中には塩、乾燥玉ねぎ、粗挽き粉、獣脂。灰嶺砦と敵軍の双方が必要としていたものだった。
リオネルは樽の焼印を見た。北辺共同補給印。王都軍専用ではない。
「補給線を切ったのは、敵ではありません」
誰も言葉を返さなかった。
若い王都兵は震えながら言った。
「本隊でも、下の兵には食事が回っていません。上官用の倉庫だけが満ちている。セム補給係は、余りを商人へ戻して金にしていると」
バルドが青ざめる。
「私は知らなかった。いや、薄々は」
「薄々で人は飢えます」
リオネルの声は冷たかった。
エルセは荷を見て、敵側の連絡役を見た。
「停戦を延ばす。補給不正の証拠を集める」
連絡役は頷いた。
「こちらも証言を出す。腹を空かせた兵を、これ以上突撃で捨てたくない」
リオネルは荷台の前に立ち、深く息を吸った。
食料がある。
だが、それはまだ勝利ではない。正しく配らなければ、また誰かが飢える。
「まず、負傷兵と夜番へ回します。次に、停戦交渉用。残りは証拠として封を」
副官が笑った。
「証拠まで食われないようにか」
「食べたら証拠が消えます」
「食料の証拠とは厄介だな」
「はい。だから、帳面が必要です」
リオネルは新しい帳面を開いた。
消えた食料の行き先を、今度こそ誰にも消させないために。
その夜、灰嶺砦の厨房には、奇妙な緊張があった。食料は増えた。だが、増えたからといって自由に使えるわけではない。証拠として封をする分、負傷者へ回す分、夜番へ回す分、停戦相手へ見せる分。増えた食料ほど、使い道を間違えると争いになる。
グレオは封をした樽を睨んでいた。
「目の前に粉があるのに使えんとは、拷問だ」
「使う分は分けました」
「もっと使えば兵が喜ぶ」
「今日だけ喜ばせると、明日疑われます。『証拠を食った』と」
グレオは嫌そうに唸ったが、反論はしなかった。
逃げ込んだ王都兵には、薄い麦粥を出した。彼は椀を両手で受け取り、泣きそうな顔で礼を言った。
「本隊では、上官の食卓には肉がありました。下の兵は、乾いたパンを水で流し込んでいました」
「その話も、明日書面にします」
「字は苦手です」
「話してください。私が書きます」
王都兵は頷いた。敵ではない。だが完全な味方とも言い切れない。王都の旗の下にいた者だ。それでも、空腹の証言者として彼は必要だった。
エルセはリオネルの帳面を見て言った。
「おまえの帳面は、剣より人を追い詰めるかもしれないな」
「できれば、飯を正しく届かせるために使いたいです」
「今回は、不正を斬るためにも使え」
リオネルは筆を握り直した。
消えた食料には、消えた食事がある。消えた食事には、空腹で倒れた兵がいる。数字の向こうにいる人間を、今度こそ紙の上から消させない。
帳面の線が、静かに王都へ向かって伸びていった。
翌朝、封をした樽の前に見張りを立てた。敵から守るためではない。味方の空腹から守るためだ。誰も盗もうとは思っていない。だが、夜番明けの兵が粉の匂いを嗅げば、手が伸びない保証はない。
「疑っているようで嫌ですね」
ミロが言った。
「疑うためではなく、迷わせないためです」
リオネルは封の紐を確かめた。
「目の前の食料を使えない理由が見えなければ、人は不公平だと思います。見張りは、その理由を立たせておくためです」
ミロは難しい顔で頷いた。
食料はあるだけでは人を安心させない。どう配られるかが見えて、初めて安心になる。リオネルは封印済み、使用可、証拠、交換用の札を作り、樽ごとに結んだ。




