言い訳だらけの勉強会
夏休みの課題一覧をローテーブルに広げながら、私は「よし」と一人で気合を入れた。
分厚い問題集の山。これを片付けなければ、心置きなく夏休みを楽しめない。
隣では、東堂駿太が「うへぇ」と気の抜けた声を上げている。
「うへぇ、じゃないの。ちゃんとやらないと、後で大変になるのは駿太なんだからね。バスケばっかりやってないで、少しは机に向かいなさい」
「わーってるって。つーか、結衣の部屋、涼しいな。天国だわ」
駿太はそう言うと、私の抗議なんて聞こえないふりをして、ベッドにごろんと寝転がった。
私の枕を抱きしめて、気持ちよさそうに目を細めている。Tシャツの裾が少しだけめくれて、部活で鍛えられた腹筋がちらりと見えた。
その光景に、どきりとして、私は慌てて視線を逸した。心臓が、とくん、と変な音を立てる。
付き合う前も、こうして私の部屋で勉強をすることはよくあった。
でも、あの頃とは何もかもが違う。
ただの幼馴染だった頃の、あの気楽な空気はもうどこにもない。
今は、駿太の一つ一つの仕草が、私の心臓を高鳴らせて、思考を停止させる。あの日の夜、この腕に抱かれたことを思い出して、体温が上がっていくのがわかった。
「こら、寝ない! 人のベッドでくつろがないで! 早くこっち来て、数学やるよ!」
「へーい」
渋々といった様子で起き上がった駿太が、私の隣に、以前よりもずっと近い距離で腰を下ろす。
わざとだ。絶対にわざとだ。
肩と肩が触れ合うだけで、意識が全部そっちに持っていかれそうになるのを、私は必死で堪えた。
「ほら、この問題。ちゃんと公式覚えてる?」
「んー……なんだっけかなあ。sin、cos……なんだっけ?」
駿太は私のノートを覗き込むふりをして、その顔を私の首筋に寄せてきた。シャンプーの匂いを確かめるみたいに、くん、と鼻を鳴らす。吐息が耳にかかって、全身がぞくぞくした。
「……っ! な、何すんのよ! くすぐったい!」
「ん? いや、結衣がいい匂いするなーって。いつも思うけど」
悪びれもせずに笑う駿太に、顔が熱くなる。
もう、だめだ。これじゃあ、勉強なんてできるわけがない。私の先生としての威厳はどこへやら。
「……真面目にやって!」
「やってるって。なあ、結衣」
「なに」
「ちょっと、休憩しねえ? アイス食べたい」
「まだ始めて5分も経ってない! それにアイスは後!」
私がそう言うと、駿太は「ちぇ」と子供みたいに唇を尖らせた。
そして、今度はローテーブルの上に置いてあった私の手を、大きな手でそっと掴んで、指を絡めてくる。
「手が、疲れた。シャーペン持つと疲れるんだよ」
「シャーペン持ってただけでしょうが。言い訳ばっかり」
「結衣の手、ちいせえな。それに、ひんやりしてて気持ちいい」
そう言って、自分の頬に、私たちの繋いだ手をすり、と寄せる。
その温かさに、私の抵抗する力は、どんどん弱くなっていく。もう、怒る気力もなくなってしまった。
「……駿太」
「ん?」
「……勉強、どうすんの」
「してる」
どこが、とは思ったけど、もう何も言えなかった。
だって、駿太が、見たことのないような、甘くて、とろけるような目で、私を見つめていたから。
その瞳に映る私が、自分でも知らないくらい、幸せそうな顔をしていたから。
ゆっくりと、駿太の顔が近づいてくる。
私は、吸い寄せられるように、そっと目を閉じた。
唇に触れたのは、数学の公式なんか、全部どうでもよくなってしまうくらい、深くて優しいキスだった。
「……ん」
唇が離れた後、駿太は私をぎゅっと抱きしめて、耳元で囁いた。
「課題の勉強より、結衣の勉強がしたい。……だめか?」
ずるい。
そんな、少しだけ不安そうな声で聞かれたら、断れるわけがないじゃない。
その言葉に、私の理性は完全に吹き飛んだ。
私は、駿太の首に腕を回して、もっと、とねだるように、もう一度唇を重ねた。
ローテーブルの上に広げられたままの、手付かずの課題たち。
ごめんね。今日の勉強会は、もうおしまい。
だって、大好きな人が、こんなにも私を求めてくれているんだから。
勉強なんて、また明日から頑張ればいいよね。




