レコードの鳴る店
その店は、通学路から少し外れている。
外れている、というよりは、わざと外れているように見える。最短距離で帰ろうとすれば絶対に通らないし、用事がなければ見つけることもない。看板は小さくて、通りに対して斜めについているから、正面から歩いてきても一度見落とす。
僕がそこに入るようになったのは、偶然に近い。
ドアを開けると、音が先に出てくる。
ギターの音だった。乾いていて、それでいて少しだけ遅れて響くような音で、誰が弾いているのかは知らないけれど、少なくとも流行りのものではなかった。
それから、コーヒーの匂いが来る。
この店では、いつも音の方が先だった。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、マスターが言う。
「いつものでいいか」
「はい」
僕は頷いて、端の席に座る。
木のカウンターは、触ると少しだけ冷たい。磨かれているけど、新しくはない。時間がそのまま染み込んでいるみたいだった。
店の奥には、赤いビロードのソファがある。ほとんど使われていないのに、そこにあることだけはちゃんと意味を持っている。
コーヒーが置かれる。
湯気はそれほど立っていないのに、香りは強い。
僕は少しだけそれを見てから、飲む。
苦い。
でも、ただ苦いわけじゃない。
「また難しい顔してる」
後ろから声がする。
振り返ると、小川光希が立っていた。
「してないよ」
「してる。考えてるとき、だいたいその顔」
光希はそう言って、僕の隣に座る。
「小川、いつものでいいな」
「うん」
マスターは何も聞かずにコーヒーを淹れる。
置かれたカップに、光希はすぐ口をつける。
「……今日は少し軽い」
「そうか」
マスターはそれだけ言う。
光希はもう一口飲んで、少しだけ考える。
「悪くないけど」
「けど?」
「もう少し深い方が好き」
「深いって何だ」
「苦味がちゃんと残る感じ」
カップを軽く回す。
「途中で引くの、もったいない」
「引かないと雑になる」
「いいじゃん別に」
「よくない」
短い。
光希は少しだけ笑う。
「私は、はっきりしてる方が好き」
「味が?」
「うん。苦いなら苦いでいいし、変に整えなくていい」
少しだけ間を置いて、
「中途半端が一番つまんない」
僕は自分のカップを見る。
「これでも軽い?」
「軽いっていうか——」
少し考えて、
「優しい」
「それ褒めてる?」
「微妙」
少しだけ笑う。
「ぼやけるのは嫌い」
そして、ぽつりと付け足す。
「ちゃんと残る方がいい」
そのとき、ドアのベルが鳴る。
軽い音なのに、この店では少しだけ浮く。
入口に、見たことのない女の子が立っていた。
背は低くて、髪は左右で少し分かれている。制服じゃない。どこか街に馴染まない服だった。
その子は店内を見回してから、カウンターに来る。
「……営業中で合っていますか」
「合ってる」
マスターが言う。
「では、一杯ください」
「何を」
少しだけ間が空く。
僕たちのカップを見る。
「それと同一のものを」
光希がわずかに眉をひそめる。
マスターは何も言わずに準備を始める。
コーヒーが置かれる。
ルリはカップをすぐには持たなかった。
少しだけ顔を近づける。
「……これは、嗜好品ですか」
「そうだな」
「栄養摂取が主目的ではない?」
「まあ、そういう人もいるけど」
小さく頷く。
「では、苦味は機能ではなく、選択ということになりますか」
「……たぶん」
僕が言うと、
「理解しました」
一口飲む。
ほんの少し間が空く。
「苦いです」
「そうだな」
「身体的には、拒否反応が出る味です」
「まあな」
「しかし」
カップを見つめる。
「周囲の反応と矛盾があります」
「矛盾?」
「これを“好ましい”とする文化が存在している」
光希が笑う。
「文化っていうか、慣れでしょ」
「慣れによって、拒否反応が嗜好に変換される?」
「そういうこと」
ルリはもう一口飲む。
「……興味深いです」
少し間を置く。
「これは、どこから来ていますか」
「豆だよ」
「この苦味が?」
「そう」
「この性質は、他の個体にも共通しますか」
「種類によるけど」
「では、選択可能ということですね」
「まあ」
ルリは頷く。
「この飲料は、再現可能ですか」
「淹れればな」
「同一の味で?」
「それは難しい」
少しだけ間が空く。
「……不安定ですね」
ぽつりと言う。
僕は少しだけその言葉に引っかかる。
レコードの音が、わずかに揺れる。
「この味は、記録する価値があります」
ルリはそう言った。
光希が少しだけ顔をしかめる。
「記録って何」
「再現のための基準です」
「それ、無理でしょ」
「なぜですか」
「さっき言ってたじゃん。不安定だって」
「不安定でも、近似は可能です」
「“近似”で満足するの?」
少しだけ強い。
「完全一致が理想です」
「無理だよ」
「なぜですか」
光希は少しだけ言葉に詰まる。
「……そういうものだから」
「説明になっていません」
「なるでしょ」
「なりません」
少しだけ間が空く。
僕はそのやり取りを見ながら、コーヒーを飲む。
やっぱり、うまく言えない味だった。
「名前、聞いていい?」
僕が言う。
「ルリです」
「総一郎」
「光希」
「認識しました」
ルリはカップを見る。
「この液体は、依存性がありますか」
「あるよ」
光希が言う。
「でも悪い意味じゃない」
「区別が曖昧です」
「そういうもんなんだよ」
「……興味があります」
外は夕方だった。
光が少しだけ変わっている。
僕はぼんやりと思う。
たぶん、この時間のことを、あとで思い出す。
理由はわからない。
ただ、少しだけ、何かがずれている気がした。




