表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

レコードの鳴る店

その店は、通学路から少し外れている。

 外れている、というよりは、わざと外れているように見える。最短距離で帰ろうとすれば絶対に通らないし、用事がなければ見つけることもない。看板は小さくて、通りに対して斜めについているから、正面から歩いてきても一度見落とす。

 僕がそこに入るようになったのは、偶然に近い。

 ドアを開けると、音が先に出てくる。

 ギターの音だった。乾いていて、それでいて少しだけ遅れて響くような音で、誰が弾いているのかは知らないけれど、少なくとも流行りのものではなかった。

 それから、コーヒーの匂いが来る。

 この店では、いつも音の方が先だった。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうで、マスターが言う。

「いつものでいいか」

「はい」

 僕は頷いて、端の席に座る。

 木のカウンターは、触ると少しだけ冷たい。磨かれているけど、新しくはない。時間がそのまま染み込んでいるみたいだった。

 店の奥には、赤いビロードのソファがある。ほとんど使われていないのに、そこにあることだけはちゃんと意味を持っている。

 コーヒーが置かれる。

 湯気はそれほど立っていないのに、香りは強い。

 僕は少しだけそれを見てから、飲む。

 苦い。

 でも、ただ苦いわけじゃない。

「また難しい顔してる」

 後ろから声がする。

 振り返ると、小川光希が立っていた。

「してないよ」

「してる。考えてるとき、だいたいその顔」

 光希はそう言って、僕の隣に座る。

「小川、いつものでいいな」

「うん」

 マスターは何も聞かずにコーヒーを淹れる。

 置かれたカップに、光希はすぐ口をつける。

「……今日は少し軽い」

「そうか」

 マスターはそれだけ言う。

 光希はもう一口飲んで、少しだけ考える。

「悪くないけど」

「けど?」

「もう少し深い方が好き」

「深いって何だ」

「苦味がちゃんと残る感じ」

 カップを軽く回す。

「途中で引くの、もったいない」

「引かないと雑になる」

「いいじゃん別に」

「よくない」

 短い。

 光希は少しだけ笑う。

「私は、はっきりしてる方が好き」

「味が?」

「うん。苦いなら苦いでいいし、変に整えなくていい」

 少しだけ間を置いて、

「中途半端が一番つまんない」

 僕は自分のカップを見る。

「これでも軽い?」

「軽いっていうか——」

 少し考えて、

「優しい」

「それ褒めてる?」

「微妙」

 少しだけ笑う。

「ぼやけるのは嫌い」

 そして、ぽつりと付け足す。

「ちゃんと残る方がいい」

 そのとき、ドアのベルが鳴る。

 軽い音なのに、この店では少しだけ浮く。

 入口に、見たことのない女の子が立っていた。

 背は低くて、髪は左右で少し分かれている。制服じゃない。どこか街に馴染まない服だった。

 その子は店内を見回してから、カウンターに来る。

「……営業中で合っていますか」

「合ってる」

 マスターが言う。

「では、一杯ください」

「何を」

 少しだけ間が空く。

 僕たちのカップを見る。

「それと同一のものを」

 光希がわずかに眉をひそめる。

 マスターは何も言わずに準備を始める。

 コーヒーが置かれる。

 ルリはカップをすぐには持たなかった。

 少しだけ顔を近づける。

「……これは、嗜好品ですか」

「そうだな」

「栄養摂取が主目的ではない?」

「まあ、そういう人もいるけど」

 小さく頷く。

「では、苦味は機能ではなく、選択ということになりますか」

「……たぶん」

 僕が言うと、

「理解しました」

 一口飲む。

 ほんの少し間が空く。

「苦いです」

「そうだな」

「身体的には、拒否反応が出る味です」

「まあな」

「しかし」

 カップを見つめる。

「周囲の反応と矛盾があります」

「矛盾?」

「これを“好ましい”とする文化が存在している」

 光希が笑う。

「文化っていうか、慣れでしょ」

「慣れによって、拒否反応が嗜好に変換される?」

「そういうこと」

 ルリはもう一口飲む。

「……興味深いです」

 少し間を置く。

「これは、どこから来ていますか」

「豆だよ」

「この苦味が?」

「そう」

「この性質は、他の個体にも共通しますか」

「種類によるけど」

「では、選択可能ということですね」

「まあ」

 ルリは頷く。

「この飲料は、再現可能ですか」

「淹れればな」

「同一の味で?」

「それは難しい」

 少しだけ間が空く。

「……不安定ですね」

 ぽつりと言う。

 僕は少しだけその言葉に引っかかる。

 レコードの音が、わずかに揺れる。

「この味は、記録する価値があります」

 ルリはそう言った。

 光希が少しだけ顔をしかめる。

「記録って何」

「再現のための基準です」

「それ、無理でしょ」

「なぜですか」

「さっき言ってたじゃん。不安定だって」

「不安定でも、近似は可能です」

「“近似”で満足するの?」

 少しだけ強い。

「完全一致が理想です」

「無理だよ」

「なぜですか」

 光希は少しだけ言葉に詰まる。

「……そういうものだから」

「説明になっていません」

「なるでしょ」

「なりません」

 少しだけ間が空く。

 僕はそのやり取りを見ながら、コーヒーを飲む。

 やっぱり、うまく言えない味だった。

「名前、聞いていい?」

 僕が言う。

「ルリです」

「総一郎」

「光希」

「認識しました」

 ルリはカップを見る。

「この液体は、依存性がありますか」

「あるよ」

 光希が言う。

「でも悪い意味じゃない」

「区別が曖昧です」

「そういうもんなんだよ」

「……興味があります」

 外は夕方だった。

 光が少しだけ変わっている。

 僕はぼんやりと思う。

 たぶん、この時間のことを、あとで思い出す。

 理由はわからない。

 ただ、少しだけ、何かがずれている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ