光あれと少女はつぶやいた
今マリアはマグダエルの丘に立ちイズレル平原を見渡している。マグダエル遺跡が視界の片隅に見えていた。
傍にはベルがいる。彼女の方へ顔を向けるマリア。昨日、姉と告げられたばかりで、ぎこちない表情を浮べている。微笑みを返すベルは、十年前から事実を知っていたからか、表情は穏やかで、これからマリアが為すことに一点の疑いも抱いていないようだった。
太陽が中天に差し掛かかる時、マリアはもう一度イズレル平原を臨み、声高らかに宣言する。
「光あれ」
彼女の声が周りの空気に溶け込んでいく。今彼女は”点火”を発動した。”復光”を、全世界で発動させるための調律が整えられる。
マリアを中心に煌く光の粒子が溢れ出る。
地下本部のテレサは、捜索部隊から送られてくる映像を食い入るように見ていた。あの光の雲は、憎悪の対象である徴を持つ者があそこに居ることの証しだ。ベルにたいする呪詛の言葉が彼女の口から止め処無く漏れていた。
同じ映像を司令室で見ていたエイス司令は、奇妙な薄笑いを浮べていた。
「イザベルの直系なら、記録の改変など、できて当たり前だな。隣りの少女も見覚えがある。報告書色の映像にあった娘だ。色を変えただけとは大胆だなベル」
笑いを収めたエイス司令は次の命令を下した。
「現地の殲滅部隊員に命令する。ベル工作員は捕獲、もう一人の少女は処分せよ」
マリアの周囲を満していく光の粒子がマグダエルの丘を覆い尽そうとした時、丘の下に一つの集団が姿を現す。レナスキタの殲滅部隊が丘を駆け上がってきのだ。ベルは殲滅部隊へ向って走りだす。
——助けは必要かい、死神ベルさん
ベルの頭に使者ラウの声が響く。相変らずからかうような声だ。
——お願い
ベルとラウは、マリアへ向う最前列の工作員二人に対し正面からぶつかるように急加速で接近する。急加速での衝突は、互いに致命的な破壊力を与えあう。無事でいるためには、速度差を無くす方向に退避しなければならない。ベルとラウが正対した工作員達もそのように動いた。だが、ベルとラウは更に追い討ちをかける。
二人は夫々の相手が後退に移るその一瞬前に、高圧縮空気を音速を越える速度で彼らの膝と手首に命中させていた。関節を破壊された工作員二人は行動不能に陥いる。
高圧縮空気の弾丸は他の工作員達をも襲う。それは彼らへの牽制として働き、マリアへの突撃速度を鈍らせた。
工作員がマリアへ駆け寄ろうとする度同じことが繰替えされ、殲滅部隊の工作員は次々と行動不能にされていった。
殲滅部隊の制圧完了と安堵した時、ベルは視界の片隅に違和感を感じた。遺跡の壁の蔭にちらりと動くものが見えたのだ。身に纏う黒装束はレナスキタの暗殺部隊のものに見えた。黒い長いそれを見定めたベルは戦慄した。狙撃銃の銃身が丘の頂上に向けらていたのだ。既に照準は定められ、引き金に掛かる指は今にも引き絞られそうだった。
銃口の先にはマリアがいた。
ベルは盾となるため加速状態でマリアへ向って走り出した。銃口から鈍色の弾が飛び出すのが見えた。ベルの能力はこの距離では届かなかった。銃弾がマリアへどんどん近づいていく。これ以上の加速を行うと逆にベルの起こす風圧がマリアを吹き飛ばすだろう。間に合わない。絶望に捉われたベルの耳に、加速によって引き伸ばされた間抜けな銃声が届く。鈍色の弾丸が胸に吸い込まれていくマリアの元へ、絶叫と共にベルは駆けていった。
胸を打ち抜かれたマリアはゆっくりと後ろへ倒れていく。着弾に少し遅れて到着したベルは加速を解き、マリアを背後から支えるように抱き締めながら座りこんだ。その顔は後悔の涙で濡れていた。涙はとどまることなく次から次へと溢れ彼女の顔を濡らし続けた。
——ベル。継承せよ
いつもの軽妙でからかうような雰囲気とは打って変ったラウの厳かな声が、ベルの意識を現実へと引き戻した。
マリアはまだ奇跡的に意識を保っていた。ラウの声は彼女にも届いていた。彼女は自分を抱えるベルを見ながら囁く。
「貴女に、”点火”、を引き、継ぎ……ま……す」
切れ切れに出されるマリアの声に、涙を必死に堪えながらしっかりとした声でベルは応える。
「貴女の”点火”を引き継ぎます」
誓約を交した二人を淡い光が包む。左肩に熱を感じたベルは引き継ぎが成されたことを確信した。今、自分は覚悟を決めないといけない。
『わたしが後悔したくないから、出来ることをやります』
マリアなこう言っただろうとベルは思った。ならばわたしも出来ることをしなくては。そう決心したベルではあるがマリアの最後を看取る我儘は赦されるだろうと、身動きひとつせず腕の中のマリアを見つめる。
やがて、マリアは静かに息を引き取った。その死に顔は苦しみの色はなく成すことを成した者の満足気な表情を浮べていた。
おやすみなさい、マリア。そうつぶやいたベルは、そっとマリアを地に横たえ立ち上がる。
もう邪魔させてはならない。ベルは早速行動に移った。
まず、狙撃手を始末する。ベルは抑えていた高速移動を解放し狙撃手の元へ走った。その速度は超音速に逹っしていた。横を通り過ぎるベルの纏う大気の壁が、狙撃手に襲いかかる。大気と遺跡の壁に押し潰された狙撃手は派手な赤い落書きと化した。
身を翻したベルの次の目標は殲滅部隊へと移る。ベルが側を通り過ぎる度に、大気の壁と巻き上げられ引き摺り込まれた大量の土砂が、彼らに襲いかかり、全身を粉々に砕いていく。
邪魔者の始末を終えたベルはマリアの横に立ち、凛とした表情でイズレル平原を見おろす。わたしはわたしに出来ることをする。ベルは乾いた浮べる。
「光、あれ」
ベルはつぶやいた。光の粒子がベルから溢れ出す。その粒子はすぐにマグダエルの丘を包みこみ、更に外へ外へと拡大を遂げる。やがて全世界を光の粒子が覆った時、ベルはラウを見詰めて思念を送る。
——”消灼”するわ
——デトルアントの血の情報を消去する”復光”はマリアにしか発動できないさ。お前はお前に出来ることをすればいい
——もし生まれ変わりがあるのなら、また一緒に仕事したいわね
——ははっ、そんなことは無さそうだが、それはそれで楽しそうだ
「”消灼”」
ベルのつぶやきに、光の粒子は一斉に灼熱の輻射を放出する。全ての地表が、その輻射に晒された。それはあたかも、太陽の中に放り込まれた様だった。
ベルとラウとマリアの遺体は瞬く間に消失した。
イズレル平原は燃える間もなく蒸発した。
キラキラと輝く大気に、不思議なこともあるものねぇ、と驚いていたレシェルの街の老夫婦も街ごと一瞬にして蒸発した。キネレル湖はあっという間に干上がりその形を大きく変えた。
アラベル湖畔の街で、ベルの隠れ家の監視を続行していたフォルテは監視装置に映し出される不思議な光景に困惑したまま建物ごと蒸発した。
イズレル地区外のデトルアント達は、周りに満ち溢れる光の粒子に自身の終りを覚悟し感謝の祈りを捧げていた。彼らは自身の不老不死を倦み飽いていて、憎悪すら抱いていた。”消灼”の時を、彼らは皆心穏やかな最後を迎えた。
クメル洞窟の地下施設にいるレナスキタの職員達は少し異る最後に見舞われる。不幸にも本部を形作る数々の建設素材が不十分な耐熱性能を発揮してしまったのだ。
まず洞窟が”消灼”によって上層部から徐々に蒸発していった。しかし下層部の洞窟を構成していた岩石は溶けて流れだす。さらさらの流動体となった元岩石は、あらゆる隙間という隙間から地下施設へと流れ込んだ。
流れ込む超高温のさらさらの流体は壁という壁、床という床を溶け崩れさせる。”消灼”の熱輻射に次第に晒されていく構造材は、触れたものを発火させる熱い雨となって地下施設内の職員に降り注ぐ。
熱流と熱雨は地下施設を一層づつ侵食していく。熱雨に襲われた職員達は己の発火に狂気の舞を舞い始める。溶け崩れた壁や天井は彼らの逃げ道を塞ぐ。そして熱流に飲み込まれ踊り狂いながら炭化していく彼らは直ぐにその動きを止める。やがて追い付く”消灼”の輻射が彼らを地上から消去していった。
テレサは自分の医療機器と工作機器の城の中で、大気の発光から地下本部が瓦解していく様をベルへの呪詛を呟きながら解析していた。自身の命より研究を優先する狂気の科学者の姿がそこにあった。そんな彼女もやがて”消灼”された。
地下の最下層で全ての様子をモニター越しに見ていたエイス司令は、最後まで不可解な薄笑いを浮べていた。彼はその最後の瞬間にこう呟いていた。
「この素晴しいデータを君達に託す。ベルと名も知らぬ少女に感謝を」
”消灼”が終る。
残されたのは煮え滾る泥濘と化した、大地の成れの果てだった。
大気となるような軽いものは天上へと吹き飛ばされてしまっていた。
この世界の生命の基となるものは全て消失してしまった。
この世界は何故破滅しなければならなかったのか。
そう問うものはこの世界にはなにも残されていなかった。
終
最後までお読み頂いた皆様、ありがとうございました。