95 みんな一緒だね
「ふぃー! いい天気ね!」
青空を見上げ、エルゼは大きく伸びをした。
これから馬車での長旅が待ち構えているのだ。
エルンスタールに来るときに散々体がかちこちになってしまったので、今回は少しでも備えておこうと体を動かす。
「エルゼ……本当に何も言わずに行っちゃうの?」
傍らでぴょこぴょこと跳ねていたシフォンが、不満げに問いかけてきた。
「いきなりエルゼがいなくなったら、お兄様が悲しむよ」
シフォンの言葉に、エルゼの胸がつきりと痛んだ。
女官に「花嫁選考会を辞退する」とは言ったが、エルゼはリヒャルト本人には何も言わずに故郷へ帰ろうとしている。
それが不義理な行為だと、もちろんわかっている。
だが――。
「能力がなかったとはいえ、『先詠み』の一族の者がリヒャルトやあなたにひどいことをしたのは確かよ」
あの、リヒャルトの家族を殺しエルゼやリヒャルト本人までも手にかけようとした男。
彼が「先詠み」の一族であり、それを利用して前皇后やグロリアに取り入ったことは確かなのだ。
「同じ『先詠み』である私が傍にいたら、きっとリヒャルトは苦しみ続ける」
エルゼと顔を合わせるたびに、リヒャルトは過去の悲劇を、苦痛を、怨嗟を思い出さずにはいられないだろう。
だから、エルゼはリヒャルトの前から姿を消す。
これから先の未来で、少しでも彼が幸福に生きて行けるように。
「エルゼ……お兄様のこと、嫌いになっちゃったの?」
しょぼん、とした顔でそう問いかけるシフォンに、エルゼは笑顔で首を横に振る。
「いいえ、好きよ」
それだけははっきりと宣言できた。
リヒャルトのことが好きだ。
いずれ祖国を破滅へ導く元凶だとしても、惹かれずにはいられなかった。
「好きだからこそ、離れるの」
そう告げると、シフォンはしょぼくれた顔のまま頷く。
「……あなたは、お兄様のところに残る?」
「ううん、エルゼと一緒に行く!」
シフォンはぴょん、と跳躍すると、エルゼの腕にしがみついてきた。
エルゼは少し迷ったが、シフォンの意志を大事にすることにした。
(きっと、私たちがいなくてもリヒャルトは大丈夫)
彼はもう、エルゼが見た未来のような復讐に取りつかれた人物ではないのだ。
ここには彼の家族がいる。
いまはぎこちない関係だが、今なら少しずつ歩み寄ることができるだろう。
「結局私は、一度しか未来を視ることができなかったのね」
最後にエルンスタールの王宮を遠目に眺めながら、エルゼはそう呟く。
リヒャルトが幸せに暮らしている未来を視たかったのだが、残念ながらエルゼの能力が開花するようなことはなかった。
(でも、未来が視えなくても、もう彼があんなことをするはずがないってことはわかる」
だからこそ、エルゼは旅立てる。
現在残っている花嫁候補は皆優秀な才媛ばかりだ。
「誰が妃になるのかしら。やっぱりグロリア様かな」
「……エルゼは妃になりたくないの?」
「……正直に言うと、なりたいわ」
リヒャルトの伴侶として、正式に隣に立つことを許された存在。
もしも自分がなれるのなら、どれだけ幸せなことだろう。
(でも、私はリヒャルトを苦しめてまでその道を選べない)
彼を愛しているから。
誰よりも幸せになってほしいから。
だからこそ、手を離すのだ。
「エルゼ王女、そろそろ出発のお時間です」
馬車の整備をしていた御者にそう声を掛けられ、エルゼは頷く。
「はい! よろしくお願いします!」
最後にもう一度、エルンスタールの王宮を振り返る。
きっともう、エルゼがこの地を踏むような機会は訪れないだろう。
(さようなら、リヒャルト。どうか幸せになってね)
そう願いながら、エルゼが馬車へ乗り込もうとした途端――。
「待て」
低く、けれども確かな熱を孕んだ声だった。
その声を耳にした瞬間、エルゼの心臓がどくりと大きく跳ねる。
(うそ……)
おそるおそる振り返れば、そこに立っていたのは――今まさに花嫁選考の場にいるはずの人物だった。
「リヒャルト……!?」
淡い金の髪を揺らし、青い瞳でまっすぐにこちらを見つめるリヒャルト。
その姿を認めた途端、エルゼは呆然としてしまった。
「どうして、ここに……? 今ごろ選考会をしているはずじゃ――」
やっとのことで絞り出した声に、リヒャルトは短く息をつく。
いつものような冷ややかさはなかった。ただ、わずかに焦ったような、切羽詰まったような気配が感じられた。
「……お前がいないのに、続けられるわけがないだろう」
「え……?」
意味がわからず、エルゼはぱちぱちと瞬きをした。
そんなエルゼの前まで歩み寄ったリヒャルトは、懐から小箱を取り出す。深い青の布張りの、見るからに高価そうな箱だった。
「帰るのなら持っていけ」
「持っていけって何を……!?」
エルゼの目の前で、リヒャルトが小箱を開く。
その中に収められたものを目の当たりにして、エルゼは思わず息をのんだ。
それは目を見張るほど美しいティアラだった。
繊細な銀細工に、朝露のような透明な宝石が散りばめられている。中央には、まるで夜明けの星を封じ込めたような青白い石が輝いていた。
リヒャルトがおもむろにティアラを手に取る。
次の瞬間、エルゼの頭にひやりとした重みが乗った。
「え、えっ……!?」
慌てて頭に手をやれば、指先に触れたのは細やかな細工の施された硬質な感触だった。
間違いない。小箱の中に収められていたティアラを、リヒャルトがエルゼの頭に被せたのだ。
「こ、こんなすごいもの急にかぶせないで! 万が一汚したりしたら弁償できないんだから! 本当にこれ……ものすごく高そうで……」
あたふたするエルゼに、リヒャルトは静かに告げた。
「母の形見のティアラだ」
「……え」
その言葉に、エルゼは凍りついた。
さっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「お、お母君の……形見……?」
「あぁ」
あまりにも重大すぎる言葉に、エルゼは絶句した。
そんな大切な品を、どうして自分なんかが頭に乗せられているのか。
「だ、駄目よ! そんな大切なものを頂くわけにはいかないわ!」
慌てて差し出そうとしたティアラを、リヒャルトは押し返さなかった。ただ、まっすぐエルゼを見つめたまま動かない。
「これは、妃になる人に渡すべきものよ! 私なんかが持っていていいものじゃないわ!」
「……だから、お前に渡すんだ」
低く、けれどはっきりと告げられたその言葉に、エルゼはぴたりと動きを止めた。
「……え?」
理解が追いつかない。
頭の中で、今の言葉が何度も反芻される。
だから、お前に渡す。
それって、つまりは……。
「私、に……?」
「そうだ」
リヒャルトは一歩、距離を詰めてきた。
逃げることなどできない。いや、逃げたくなかった。
「エルゼ。俺は、お前を選ぶ」
その一言で、世界が変わってしまった気がした。
ずっと欲しかった言葉。けれど、聞いてはいけないと思っていた言葉。
「で、でも……!」
喜びが込み上げるより先に、不安が喉を塞ぐ。
「私は、弱小国の王女でしかなくて……! 他の方々みたいに立派な後ろ盾もなくて、皇妃にふさわしいかなんて――」
「関係ない」
「それに、ずっとあなたに黙っていた。嘘をついていた。私はあなたを苦しめた者と同じ、『先詠み』の一族で――」
そこまで言ったところで、ふわりと体が包まれた。
「え……」
気づけば、リヒャルトの腕の中だった。
強く、けれど壊れ物を扱うように優しい抱擁。
「それでも、お前がいい」
耳元で落とされた声は、驚くほど熱を帯びていた。
「お前が何者でも関係ない。小国の王女だろうが、『先詠み』だろうが、そんなことはどうでもいい」
抱きしめる腕に、わずかに力がこもる。
「お前が笑っていると、救われる。お前が泣けば苦しい。いなくなると言われた時、何も考えられなくなった」
エルゼの胸の奥がじわりと熱くなる。
こんなにもまっすぐ求められて、嬉しくないはずがない。
「だから、行くな」
その一言が、たまらなく愛おしかった。
「……ずるいわ」
エルゼは、くしゃりと顔を歪めた。
泣きそうなのか、笑いたいのか、自分でもわからない。
「そんなこと言われたら……もう、断れないじゃない」
「断る気だったのか」
「だって、あなたのことが好きだから……!」
一度口に出すと、もう止まらなかった。
「好きだから、あなたが苦しまない道を選びたかったの……」
するとリヒャルトは、ほんのわずか――本当にわずかに、だが確かに笑った。
「なら、もう迷うな」
長い指が、そっとエルゼの頬に触れる。
「俺の隣にいろ、エルゼ」
その言葉に、エルゼはもう頷くしかなかった。
「……はい」
返事をした途端、リヒャルトの瞳がやわらぐ。
次の瞬間、そっと唇が重ねられた。
最初は触れるだけの、確かめるような口づけ。
けれど離れたあとも、二人の距離はほんのわずかしか開かない。
「嫌か?」
真顔で尋ねられ、エルゼは真っ赤になった。
「……嫌じゃ、ないわ」
そう答えると、リヒャルトは今度こそはっきりと微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、エルゼは確信する。
(あぁ……もう、本当に未来は変わったんだわ)
かつて夢で見た、氷のように冷たい皇子はここにはいない。
いるのは、苦しみを乗り越え、エルゼを選んでくれたただ一人の人だけだ。
再び唇を重ねた二人の足元で、シフォンがぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねていた。
『えへへっ! これからはみんな一緒だね!』
◇◇◇
その頃、遠く離れたマグリエル王国では――。
「視えた! 視えたぞ! これはとびきりの吉兆だ!」
王城の廊下に、第一王子オルトヴィーンの弾んだ声が響き渡っていた。
「あら、お兄様。随分と嬉しそうね」
「エルゼならともかく、オルトヴィーンがそんなにはしゃぐなんて珍しいな」
「まったくね」
ウルリカと国王夫妻が呆れ半分でそう呟くと、オルトヴィーンは興奮を抑えきれない様子で言う。
「いい知らせを視たんだ! ものすごくいい知らせだよ! 空は晴れ渡り、鐘が鳴り響き、皆が笑っていて……これは間違いなく祝福の兆しだ!」
「祝福……もしかして、エルゼに何か関係があるんじゃ――」
王妃が胸の前で手を組んだその時、廊下の向こうから息を切らした使者が駆けてきた。
「へ、陛下! エルンスタールより急使にございます!」
一同が息をのむ。
国王が書状を受け取り、封を切った。書状に視線を落とした瞬間、その目が大きく見開かれる。
「あなた、何と書いてあるのです!?」
王妃に促され、国王は震える声で読み上げた。
「『マグリエル王国第二王女エルゼ王女を、エルンスタール第二皇子リヒャルト皇子の妃として正式に迎えることをここに通知する』……」
「「えええええっ!?」」
小さな城内に、見事なほど揃った声が響き渡る。
次の瞬間、オルトヴィーンが嬉しそうに声をあげた。
「ほら見ろ! やっぱりいい知らせだっただろう!」
「まあっ、あの子ったら……!」
「エルゼ……本当にやり遂げたのね……!」
「まったく、とんでもない娘だ……!」
王妃は目元を押さえ、ウルリカは嬉しそうに微笑み、国王は感極まったように天を仰ぐ。
城下にもその知らせは瞬く間に広がった。
「エルゼ王女が皇妃に!?」
「慰めパーティーの準備をしていたのに!?」
「結婚おめでとうパーティーに変更だ!」
「特大のウエディングケーキだ! 今すぐ焼けーっ!」
城内も町中も大騒ぎだった。
祝福の声が宝石のような山々に響き渡る。
その喧騒の中で、オルトヴィーンは誰よりも誇らしげに胸を張った。
「やっぱりね。僕たちのエルゼなら、きっとやると思ったんだ」
空は青く晴れ渡り、風はやさしく吹き抜けていく。
まるで未来そのものが、エルゼの掴み取った未来を祝福しているようだった。
こうして――小さな国の王女エルゼは、大国の皇子リヒャルトに選ばれた。
悲劇へと続くはずだった運命は、もうどこにもない。
あるのはただ、たくさんの祝福と、これから二人で紡いでいく幸せな未来だけだった。




