89 彼女との未来が見たい
『誰か住んでいるのかな?』
素朴な疑問を零すウサギに、リヒャルトは重い口を開く。
「あぁ……許されざる罪を犯し、世界から隔絶された人間が幽閉されている」
『リヒャルトはその人を知ってるの?』
ウサギの澄んだ瞳が、不思議そうにリヒャルトを見つめている。
その邪気のない視線に、リヒャルトの心はざわめいた。
少しでも油断をすれば、抑えきれない激情がこみ上げてしまう。
だが、制御のできない激情は判断を狂わせる。
今一番大事なのは、エルゼの救出だ。
もう二度と、大切な人を失わないために。
そう自分に言い聞かせ、リヒャルトは告げた。
「あの塔に幽閉されているのは……前皇后だ」
ありもしない妄想に取りつかれ、リヒャルトの母と妹の命を奪った大罪人。
皇帝が事件を公にしたがらなかったのと、前皇后精神を病んでいたこともあり、彼女は死罪をまぬがれずっとあの場所に幽閉されている。
リヒャルトは今まで、あえてそのことを考えないようにしていた。
もし募り募った復讐心が限界を超えてしまえば、自らの手で彼女を地獄に堕としてしまいかねない。
リヒャルトはこれでも、自身が皇子という立場にあることはよく理解している。
父に対して文句は山ほどあるが、その治世を揺るがそうとは思わない。
異母兄のアルブレヒトは自分と同じく被害者だ。意味もなく彼を傷つけようとは思わない。
現皇后やその娘のルイーゼは、暗く沈んでいた宮廷を再び明るい場所にしてくれた立役者だ。
……まだ、大手を振って「家族」だと思うことはできない。
だが、彼女たちの平穏を脅かすつもりはない。
だからこそ、リヒャルトは仇敵である前皇后が近くにいるとわかっていても、今まで何もしなかったのだ。
だが、エルゼがここにいるとしたら。
まるで、誰かがリヒャルトをここにおびき寄せたかのようだ。
前皇后は幽閉されており、そんなことはできないだろう。
となると、考えられるのは――。
「……先詠み」
前皇后にありもしない未来を吹き込み、リヒャルトの大切な人を奪っていった元凶。
いまだ行方をくらましているその人物が、再び表舞台に姿を現そうとしているのか。
『リヒャルト、大丈夫?』
いつにない緊張を感じ取ったのか、ウサギがぽてぽてとリヒャルトの手によじ登って来た。
『怖い顔してるよ。いつもよりずっと』
呆れてしまうほどのんきな言葉に、普段なら苛立つところだが……不思議と、リヒャルトは落ち着きを取り戻すことができた。
「……俺が怖いか」
『うーん……ちょっと怖かったけど、今は大丈夫』
ウサギはふんふんと鼻先をこすりつけてきた。
リヒャルトには小動物を愛でるという習慣はない。
たとえ小さな動物が寄って来たとしても、煩わしいと思うだけだろう。
だが不思議と、エルゼが連れているこの不思議なウサギは……守り、慈しみたいという感情が湧いてくるのだ。
「お前は……お前の主人に似ているな」
『主人って、エルゼのこと? 違うよ。エルゼは、なんというか……家族?』
――家族。
かつて、リヒャルトが理不尽に奪われてしまったもの。
別にこのウサギとエルゼの血がつながっているということはないのだろう。
だがウサギはエルゼを家族のようなものだと認識している。きっと、エルゼもそうなのだろう。
それが、とてつもなく尊いことのように思えた。
「行くぞ」
軽くウサギの背を撫で、リヒャルトはそう口にした。
今度こそ、大切なものを失わないために。
……表舞台から姿を消した罪人である前皇后。
彼女を幽閉する塔は、奇妙な静寂に満ちていた。
数少ない住み込みの人間が彼女の監視と世話をするためにこの小島にいると聞いていたが、不思議とその姿は見えない。
……まるで、リヒャルトを一直線に誘うかのように、何一つ障壁がないのだ。
「俺を誘導しているのか」
『え、なんで? パーティーの招待状とかもらったの?』
「ある意味招待状よりも強力だな」
リヒャルトにとって因縁のあるこの場所にエルゼを幽閉したのは、おそらくリヒャルトをこの場に呼び寄せるためだろう。
いわばエルゼは餌として使われたのだ。
人を人と思わないその所業に、はらわたが煮えくり返りそうになる。
……まだ間に合うはずだ。
そう自分に言い聞かせ、リヒャルトはウサギと共に静寂に満ちた塔を上っていく。
『エルゼが近くにいる気がする! もっと上!!』
リヒャルトの肩にしがみついたウサギがそう叫んだ。
リヒャルトは皇后が幽閉されている部屋には目もくれず、ひたすらに階段を上り続けた。
……きっとこの場所に来たら、怒りで我を忘れ、自らの手で皇后を亡き者にするのだと思っていた。
だが、今は不思議と冷静さを保つことができている。
その理由が、リヒャルトにはわかっていた。
(過去よりも、未来に目を向けられるようになったからか)
リヒャルトはずっと、過去に囚われていた。
母と妹を奪われた凄惨な事件。
それを仕組んだ者たちへの復讐。
決して消えることのない、怒りと悲しみの炎……。
もちろん、それらを忘れたわけではない。
失った二人のことを考えなかった日は一日たりともない。
だが、変わったのだ。
二人のことを忘れず、それでいて「未来」へ目が向くようになった。
あの、常識知らずの奇妙な王女――エルゼに出会ってから。
彼女はリヒャルトの妃になりたいと言っていた。それは打算なのかもしれない。
……それでもいいと、思ったのだ。
彼女は二人のことを悼んでくれた。復讐に囚われていたリヒャルトの心を優しく包み、引っ張り上げてくれた。
……たとえどんな形でもいい。彼女との未来が見たい。
今はっきり、リヒャルトはそう思ったのだ。




