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86 たとえ自分がどうなろうとも

「まさか、あなたは……」

「皇后は焦っていた。病弱な自分の息子と、健康な他の皇妃の息子。皇帝が後継者に選ぶのは健康な方ではないか……と。そこに付け込むのは容易かったよ」


 エルゼは全身の血の気が引くのを感じていた。

 頭では理解できるが、感情がついていかない。

 自分と同じ、「先詠み」の血を引きながらもその能力を持たない男が、どうしてそんな残酷なことをしてしまったのか。


「皇后の不安を煽り、まやかしの「未来」を刷り込み、邪魔者を排除し彼女の息子を皇位に就ける……そうすれば、私は皇后の右腕として輝かしい未来が約束されていた。未来が読めるだけで大した役にも立たない「先詠み」共よりもよほど上の立場に立てるはずだった! あのガキが邪魔さえしなければな!!」


 あまりにも身勝手な行動原理に、エルゼの心の中に絶望と強い怒りが湧き上がる。


(そんな、そんな理由でリヒャルトの家族は殺されたの? ただ、他の「先詠み」を見返したい、上の立場に立ちたいだなんてくだらない理由で……)


 彼の計画は失敗した。排除するはずだったリヒャルトが生き延びたことで、皇后の悪行が表に出たからだ。

 彼はそれを逆恨みし、今もリヒャルトへの復讐に駆り立てられている。


「……自分勝手ね。そんな風だから「先詠み」の力も得られず、計画も失敗したのよ。あなたにはお似合いの末路だわ」


 エルゼが冷たく吐き捨てると、男の動きがぴたりと止まる。


「……なんだと?」

「もう一度言ってあげましょうか? あなたみたいな自分勝手で最低な人間が何も得られないのは当然だってことよ。一生かかったって他の『先詠み』に追いつけはしないわ」

「くっ……黙れ!」


 男は激高したように表情を歪め、エルゼの脇腹を蹴りつけた。


「ぐっ……」


 鈍い痛みと共に息が詰まり、エルゼはうめき声をあげる。

 それでも、気丈に男を睨み返した。


「『先詠み』の力を持っていてもいなくても、確実にわかることが一つだけあるわ。あなたは、リヒャルトには勝てない」


 エルゼは余裕に満ちた笑みを浮かべ、そう告げる。

 これははったりじゃない。確信だ。

 こんな小細工ばかり弄する男に、リヒャルトが陥れられていいわけがない。

 この男はリヒャルトへの復讐を目論んでいるようだが、リヒャルトだってこの男のしたことをしれば積年の恨みを晴らそうとするだろう。

 どちらが狩られる側になるのかは、考えるまでもない。


「リヒャルトを甘く見ないことね。あなたみたいなゴミ屑は、一瞬で蹴散らされて終わりよ」

「ふん……さも自分があの皇子の味方であるような言い方をするものだな。私がゴミ屑だというのなら、貴様も同じだろう。『先詠み』の王女」


 言葉に詰まるエルゼに、男は愉快そうに告げた。


「知っているぞ。貴様は自身が『先詠み』であることをあの皇子に黙っている。彼が『先詠み』を恨んでいるということを知っていながら! 招待を偽り懐に入り込み、果ては皇妃か? 自分自身が仇敵の一族であると自白しないまま? とんだ大噓つきだな!」


 男がエルゼを詰るように笑う。

 エルゼは反論できなかった。

 そう……リヒャルトを騙しているという点では、エルゼも同じなのだ。

 招待を隠したまま彼に近づき、皇妃になろうとしている。

 家族を、国を守るためだと大義名分を掲げても、リヒャルトに嘘をついていることは確かなのだ。


「私がゴミ屑だというのなら、貴様も同じだ!」

「かはっ!」


 男の蹴りが腹に入り、エルゼは苦悶の声を上げる。

 だが、体よりも心の方がよほど痛かった。


(私は、リヒャルトを騙している嘘つきだ。マグリエルの皆のためとはいえ、今もリヒャルトを欺いて傷つけ続けているのだから)


 俯くエルゼを見て、男は嘲るように笑う。


「随分とうまくやったようだな? リグナー公爵令嬢は花嫁候補の中で貴様を一番の脅威だと認識しているのだから。弱小国の王女がよくやるものだ」

「……あなた、今はグロリア様に仕えているのね。彼女はあなたが過去に仕出かしたことを知っているの?」

「まさか。皇帝は皇后の罪を歴史の影に葬り去ろうとした。おかげで私は今日まで逃げ延びたわけだが。リグナー公爵令嬢も、私もことは少々腕の立つ占術師としか思っていないだろう」 

「そう……」


 男の言葉に、エルゼは存外ほっとした。


(グロリア様はこの男がリヒャルトの家族が亡くなる元凶だということをご存じないんだ……)


 彼女は様々な手を使って他の花嫁候補を妨害し、自身が皇妃の座に就こうとしている。

 それは褒められたことではないだろう。

 だが、少なくともリヒャルトの怨敵だと知ったうえで手を組むような真似はしていないようだ。


(そうね……きっと、グロリア様も話せばわかる御方なのだから)


 この男がここまでの危険人物だとは知らず、内に入れてしまったのだろう。


「ルイーゼ皇女殿下の誕生祭で騒ぎを起こしたのも、あなたね」

「あぁ、どさくさに紛れてリヒャルト皇子を抹殺する機会を伺っていたが、貴様を助けに行ったことで難を逃れたな」


 エルゼは男を睨みつける。

 身勝手な動機でリヒャルトを害そうとするこの男を、許せるわけがなかった。


「それで、今回は私を餌にリヒャルトをおびきよせるつもり?」

「あぁ、貴様にも見せてやろう。あの皇子の最期を」

「リヒャルトは来ないわ」


 エルゼは余裕たっぷりにそう言ってみせた。

 男は冷たい視線でエルゼを見下ろし、呟く。


「なぜそう言える」

「グロリア様に聞いていないの? 残念ながら私、もう彼に愛想を尽かされているのよ。花嫁候補として呼び寄せた王女がいなくなったらさすがにエルンスタールも動くでしょうけど、都合よくリヒャルトが一人で乗り込んでくるなんてあり得ないわ」


 そう、こうなってしまった以上リヒャルトには来てほしくなかった。

 エルゼのせいで彼を危険に晒したくない。

 きっと彼は来ない。どうか、来ないでほしい。


「あなたはもう終わりよ。そのうちここにはエルンスタールの兵が乗り込んできて、あなたは捕縛される。かつてのことを表沙汰にしたくない皇帝はさっさと処刑を命じるでしょうね。あなたはなにも成せずに終わるのよ。可哀そうに」


 そこまで言い終わった時点で、強い力で頬を張り飛ばされた。

 エルゼの体はしたたかに床に打ち付けられ、口内に血の味が広がる。


「…………黙れ」


 底冷えするような冷たい響きに、ぞくりと肌が泡立つ。

 だがエルゼは、彼を挑発するのをやめなかった。


(この男が冷静さを失えば、それだけリヒャルトが無事な確率が上がる)


 相手は長い間潜伏し、リヒャルトを亡き者にせんと機会を伺って来たのだ。

 とんでもない狡猾さと、公爵令嬢であるグロリアの下に潜り込みエルンスタールの祭事を無茶苦茶にするような大胆さを持ち合わせている。

 彼が冷静に目的を遂げようとしたら、リヒャルトも無事ではいられないかもしれない。

 エルゼにできることは、たとえ自分がどうなろうとこの男を激高させ冷静な判断力を奪うことだけだ。

 そう、たとえ自分がどうなろうとも。


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