最終話 五年越しの約束
「姉さん、そろそろだよ!」
「そうね……」
優二はスマートフォンを握りしめていた。
今日は、国立房総大学の合格発表の日である。
百合も隣に座り、画面をのぞき込んでいる。
一年間、二人でどれほど勉強してきただろう。
苦手だった数学と英語も、今では十分な実力がついている。最後の模試ではA判定を取り、自信を持って入試に臨むことができた。
それでも、合格発表となると緊張する。
「……時間だ!」
優二は大学のホームページを開いた。
合格者の受験番号が並んでいる。
二人は食い入るように画面を見つめた。
「……あっ!」
「どうしたの!?」
「姉さん! あった! 僕の番号だ!」
「えっ!? どこ!?」
「ここ! ここだよ!」
百合はスマートフォンを受け取ると、番号を確かめた。
「……本当だわ!」
「やったああああっ!」
「やったわね! 優二くん!」
二人は思わず抱き合った。
「おめでとう! 本当におめでとう!」
「ありがとう! 姉さん!」
優二は、百合をぎゅっと抱きしめた。
「本当に、よく頑張ったわね……」
百合の声も、少し震えていた。
自分が教えた生徒が難関大学に合格したことは、これまでもある。しかし、毎日一緒に暮らし、励まし、時には叱りながら教えてきた優二の合格は、格別にうれしかった。
「姉さん、本当にありがとうございました」
「ふふっ。じゃあ、最後のご褒美をあげなくちゃね」
「えっ?」
百合は優二の頬にそっと手を添えた。
そして、優しく唇を重ねた。
「…………!」
優二が驚いている間に、百合はもう一度彼を抱きしめた。
「これが最後のご褒美よ。よくやったわ♡」
「……姉さん」
優二は、もう一度百合を強く抱きしめた。
百合も、優しく抱きしめ返した。
* * *
それから数日後。
優二は、自分の部屋で荷物をまとめていた。
国立房総大学の学生寮に入れることになったのである。
大学は自宅から通えない距離ではない。しかし、優二は入寮を決めていた。
いつまでも百合の世話になっているわけにはいかない。
荷物をまとめ終えた優二は、百合のもとへやってきた。
「姉さん」
「なあに?」
「僕が就職したら、百合さんをもらっていい?」
「……えっ?」
百合は思わず優二の顔を見た。
いつになく真剣な表情だった。
「ふふっ、県庁みたいないいところに就職できたらね♡」
大学に入れば、同じ年頃のかわいい女の子といくらでも出会うだろう。
その頃には、こんな年上の女のことなど、すっかり忘れているに違いない。
「……約束だよ!」
「はいはい、約束ね!」
百合は笑いながら答えた。
* * *
そして、旅立ちの日。
「それじゃ、姉さん! 行ってきます!」
「ええ! 元気でね! 身体には気をつけるのよ!」
「はい!」
「困ったことがあったら、いつでも相談するのよ!」
「ありがとう!」
優二は大きく手を振ると、学生寮へ向かって歩き始めた。
必ず一人前になって、百合さんにふさわしい男になる。
そして、いつか必ず、この家に戻ってくる。
その決意を胸に、優二は勇ましく歩いていった。
一度も振り返ることなく。
百合は、その後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
「……行っちゃったわね」
家に戻ると、居間はしんと静まり返っていた。
優二がいつも勉強していた机も、今はきれいに片づけられている。
百合は、誰もいない部屋を見渡した。
「……あら、こんなに広い家だったかしら」
* * *
それから四年。
優二は時々、百合の家を訪ねてきた。
大学での出来事を楽しそうに話し、百合もそれを聞くのを楽しみにしていた。
そして、時折、妙なことを聞いてくるのだった。
「百合さん、付き合っている人はいるの?」
「いないわよ。かわいいことを聞くのね」
百合は笑っていた。
実際、離婚してからというもの、交際している男性はいなかった。
男性に誘われたことは何度かある。
だが、どうしても一歩を踏み出す気になれなかった。
また、あんな男に引っかかったら……。
そう思うと、どうにも気が進まないのだ。
予備校では相変わらず人気講師で、生徒たちに囲まれ、充実した毎日を送っていた。
別に、誰かと付き合わなければ幸せになれないわけでもない。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか四年が過ぎていた。
* * *
大学四年生の夏。
優二から、どうしても家で会って話したいことがあると連絡があった。
百合は快く承諾した。
そして、約束の日。
ピンポーン。
「はーい!」
百合が玄関を開けると、優二が立っていた。
「百合さん! 県庁に受かったよ!」
「まあ! すごい! よく頑張ったのね!」
百合は満面の笑みを浮かべた。
優二が歩み寄ってきた。
「これで、百合さんは僕のものだね」
「えっ?」
優二は百合をぐいっと抱き寄せると、唇を重ねた。
突然のことに驚いた百合だったが、胸に熱いものがこみ上げてきた。
元夫は、結婚してわずか一年で自分を裏切った。
でも、この子は……。
五年間も、ずっと自分を想ってくれていたのだ。
「……本当に、ばかなんだから……」
「式はどこで挙げようか?」
「ま、まあっ!?」
そう言いながらも、百合の腕は、優二の背中に回されたままだった。




