第1話 既視感
四月。
まだ少し冷たい風の中、春樹は通学路で足を止めた。
前から自転車が来る。
曲がり角で少しふらつく。
後ろから誰かが「あぶない」と声を上げる。
自転車は体勢を立て直し、何事もなかったように走り去る。
春樹の心臓だけが、妙に早く打っていた。
(この光景、知っている)
だが、思い出せない。
昨日でもない。
夢でもない。
もっと曖昧で、もっと遠い。
喉の奥に小さな棘が刺さったような感覚だけが残る。
「何ぼーっとしてんの?」
後ろから声がして振り向くと、美咲が立っていた。
肩までの黒髪が風に揺れている。
「いや……今のさ。なんか、前にもあった気がして」
「え? どれ?」
「自転車。あぶないって声がして……その
あと普通に通り過ぎるやつ」
美咲は少し考えてから、ふっと笑った。
「あるある。私もたまにあるよ。夢で見た感じとか。デジャヴってやつじゃない?」
「デジャヴ……」
その言葉は、妙にしっくりきた。
教室に入ると、今度は悠斗が机に肘をついて待っていた。
「おはよー。今日の小テスト、範囲見た?」
「見てない」
そう答えた瞬間、春樹は一瞬だけ違和感を覚えた。
(このやりとりも、さっきやった気がする)
「なあ悠斗。デジャヴってある?」
「は? 急に何?」
「いや、さっきも同じ会話した気がして」
悠斗は笑う。
「気のせいだろ。寝不足じゃね? 昨日遅かったんだろ?」
言われてみれば、そうかもしれない。
疲れているだけ。
脳の錯覚。
それで説明がつく。
その日は、それ以上のことは起きなかった。
夜。
夕飯のあと、リビングで母に何気なく話してみた。
「今日さ、変な感じがしてさ」
「どんな?」
「前にも同じことがあった気がするっていうか」
母は食器を拭きながら言った。
「それってデジャヴじゃない? 脳の誤作動みたいなものらしいわよ」
「誤作動?」
「記憶の処理がちょっとズレるとかなんとか。よくあることよ」
よくあること。
その言葉に、少し安心する。
自室に戻り、春樹はスマホを開いた。
検索窓に打ち込む。
「デジャヴ 原因」
画面には記事が並ぶ。
・記憶処理のタイムラグ
・脳の誤認識
・疲労やストレス
・誰にでも起こる現象
「なんだ、そういうものか」
小さく呟く。
胸の棘が、少しだけ抜けた気がした。
だが。
画面を閉じようとした瞬間、指が止まる。
この画面……
この安心……
この独り言……
これも、前にあった。
春樹はゆっくりと息を吐く。
大丈夫。
説明はついている。
ただのデジャヴだ。
そう思いながらベッドに横になった。
天井を見つめる。
どこかで聞いたことのある静けさ。
目を閉じる直前、ふと思う。
(明日も、同じ一日が始まる気がする)
四月。
まだ少し冷たい風の中……




