22、檻の中、腕の中
私は、危険を冒してまでエーベルが持って来てくれた食事をじっと見た。
これを食べれば、また人間になれるかもしれない。
けど……出来たら、この場で人間の姿は見せたくない。
であれば、夜に起きて意識的に狼の姿を維持し、昼間に寝る様にすれば良い。
狼型になると時間感覚が人間の時より鋭くなるから、恐らく檻の中でも日の出や日の入りはわかるだろう。
私は一生懸命横倒しになったまま、顔の前に置いてくれた食事に舌を伸ばす。
自分の姿が情けなくて、でも安堵という気持ちもあって、涙が溢れて頬を伝った。
狼型の時、目にゴミが入った等の理由以外で私達が泣く事は滅多にない。
人間の時ほど感情が表情に現れないのだ。
しかし今の私は、決して病気や怪我で涙を流しているのではなく、明らかに感情の昂りがそれを引き起こしていた。
……狡いなぁ、エーベル。
あのタイミングで、自分が一番恐れていた事をあっさりと否定して、自分が一番欲しかった言葉をくれるなんて。
これで落ちない女っている?
どんな姿でも、愛していますって──。
ぎゃああああ!!
私は内心赤面して、悶絶する。
何がヤバいって、エーベルが私を慰める為ではなく、本心で言ってくれていると理解したからだ。
いつもエーベルから言われていた言葉だが、ここまで心に染みた事は今までなかった。
普段は変態さが際立っているから、どちらかというと悪い意味で諦観していた。
そう考えて、やっと気付く。
そうだ、さっきのエーベルとのやり取りは、珍しくエーベルの変態味を垣間見る時間がなかったのだ。
エーベルから変態を差し引けば、こんなにも理想的な人になるなんて、ある意味詐欺だ。
……もしかしたら、町の女性達がやたらエーベルに群がるのは、この変態部分を知らないからかもしれない。
成る程なぁ、と一人納得する。
もし……もし、薬の効果なく、私が銀狼のままだったとしても。エーベルは変わらず愛してくれるという確信を持たせてくれた。
うむむむむ……。
私は照れと動揺を隠しながら、囚われの身にしては美味しすぎる食事を頂いた。
***
私が檻に入れられて幾日か経った頃。
「今日がチャンスだな。この機会を逃せば、中央から大量に派遣された第一王女の捜索部隊が合流してしまい、我々も動けるタイミングがなくなってしまうだろう」
「伯爵様は第一王女の取引相手を見つけたのか?」
「ああ、金払いの良い新規の顧客が既に大枚払ってるらしい」
ほほう。
私の視界には見えない扉を開けたまま話す見張り達の会話を盗み聞きして、私の右耳だけがピクピクと動く。
今は昼だから、する事はないので夜寝ない為に惰眠を貪っている最中の事だ。
猛獣遣い達は、私が皆の前から姿を消した──本当は拉致された──初日以来、その殆んどが私を探す為の人員として割かれているらしく、人数が揃う事はなかった様だ。
中央から本当に人が来るかどうかはわからないが、これは軍隊が仕掛けた罠だろう。
恐らく、私に対して何も出来ない状況を長時間作りだし、その後一味が動ける短い時間をわざと与えるのだ。
この部屋は、檻も壁も床もかなり強固な素材で出来ている。檻を齧ると私の歯が欠けそうな予感がしたので、口輪が外されても手を出さなかった。
そして檻の鍵は常に伯爵が所持しているらしい。
伯爵がこの檻から私を出す時、もしくはその後の移動中に、私が逃亡する為の計画がきっと仕組まれているだろう。
私の手足は三日前頃から自由にさせて貰っていて、檻の中を彷徨く事が可能になっていた。
売る前に筋力が著しく落ちて売値が下がっても嫌だということだろうか。
ともかく、逃げる為には体力は大事だ。
私は筋トレするがごとく、狼版反復横跳びに励み、激しく頭を天井に打ち付けて涙目になっていた。
夜中に凄い音がしたものだから、寝ていた見張りすらも飛び起きてくれた程だ。
日が沈む頃に、私は意識して狼型を保った。
そして深夜……。
今度は完全に口を開けない様な口輪をしっかりと装着され、手足も拘束された後。
「さぁ、出すぞ」
私は久しぶりに、外へ出る事を許された。
***
ゴウン……と音がして、床が迫り上がっていくのを感じる。今までいたのは、地下だった様だ。
おお、流石ゴージャスグデーラ。
猛獣をこっそり売って儲けた金で、設備に掛けるお金は惜しまないらしい。
どうやら檻はそのまま持ち運び出来る様に箱型になっているらしく、既に待機していた馬車の後ろに連結された荷台にそのまま乗せられた。
先客がいるらしく、他の猛獣の息遣いも聞こえる。
……成る程。
ペガススは馬車で運べる大きさなのに高値がつくからこうした輩に狙われるのか。
まさか私まで狙われるとは正直思ってなかったけど!!
鼻の良い犬や猛獣がいたら直ぐにこの屋敷に行き当たって捕まってしまいそうだけど、外に出るとともにザアアアア、という音が大きくなった。
見張りが交代する時とか扉を開けた音と一緒に何回か聞いたから連日雨だったという事か。
「布を被せろ!」
檻の天井の部分にあたるのは、猛獣の甲羅の一部のようだった。
中が見えない様に、わざわざ布を被せてくれたのはラッキーだ。
耳を澄ませて、敵が何人、どの位置にいるのか確認する。
前方に五人、檻を取り囲む様に五人、計十人が今回の取引の移動に同行する様だ。
馬車は軽快に走り出す。バシャバシャと飛沫をあげて、舗装されている道を走り続けた。
何処まで行くのだろう?
しかし、そう思ったのも束の間、馬車は急停止した。
「……ヤバい、この先で検問か?」
「聞いてねぇ!!」
「いや、この時の為にもう一匹正規の商品を載せてるから何の問題もねぇよ、狼狽えるな!!」
敵が口々に慌てふためき、列を乱す。
そして、敵が全員、一度持ち場を離れて前方に集まった事を私の耳が捕らえる。
──今だ。
私は、狼型から人型になった。
手枷から手を抜き、自由になった手で足枷から足を抜く。
最後に口輪を頭から抜き、檻の中に転がっていた毛布を身体に巻き付けた。
後方に回り、私の身体がギリギリ通れる位の檻の間から何とか抜け、布を下からまくりあげて……まずい、敵が打ち合わせを終えて後方に回ってきた。
私は必死で走り出す。
雨で水が跳ね、足音が逆に目立つ。
舗装されているとはいえ、小さな石を踏んで足裏が痛い。寒い。
けど、見つかったら折角の機会を失ってしまう。
私が人型になれないという勘違いをしていなければ生まれなかった油断をふいにしてしまう。
「誰だっ!?」
私の走る方に、松明が向けられた。
焦る。
狼型になりたいのに、今は夜だから急にはなれない。意識をしないと……狼型に早く……っっ!!
「お前、ちょっと待てっ!!」
私の後ろに、敵の乗る馬が迫っていた。
そして、バサバサっという大きな羽ばたき音。
この旅に出てから聞き慣れた音に、涙が出そうになる。
ひゅん、と音がして、私の胴に鞭が巻き付いた。
足が地面を離れ、身体が宙に浮いて……。
「……ヴァーリア様、よくご無事で」
次の瞬間には、私はすっぽりとエーベルの腕の中におさまっていた。
やたら懐かしく感じて、安堵する。
あんなに私を拒否して乗せてくれなかったペガススは急旋回して空高く舞い、私を安全なところまで連れて行ってくれた。
「あれは……ペガススだ!!」
「退却しろ!!猛獣調教師だ!!」
「うわぁ!軍隊がっ……」
見下ろした先、敵が軍隊に囲まれ、雨の中戦闘が始まっていた。
「ヴァーリア様、こちらを羽織っていて下さい」
エーベルはそう言いながら自分のコートを脱ぎ、私の肩から掛ける。
自分がガタガタ震えていた事に、その時やっと気付いた。
「ヴァーリア様、もっとしっかりくっついて下さい」
エーベルに言われて、私は小さく抵抗した。
「……私、しばらく風呂入ってないから……」
エーベルに臭いと思われるのは、何だか嫌だ。
そう思ったのに、エーベルは笑った。
「雨が流してくれてますよ。それにしても……そんな風に意識して頂けるなんて、嬉しいですね」
「……うん」
今までだったら、きっと違うと返事をしていた。相手が誰であっても気にしたよ、と言っていた。
エーベルは驚いた顔をして、優しく私を抱き締める。
「帰ったら、私が身体を隅々まで誠心誠意洗って差し上げますね」
私は頷いた。




