恋慕
9
「ここ、良いところですね〜〜」
破顔した夏が嬉しそうな声を出して顔を上げる。
「なら良かったです。ここは俺のお気に入りの場所なんで。」
涼真が夏と一緒に近所をウロウロして、何か思い出せるものはないかと歩き回った日の午後。
目ぼしいところに行って人に酔ったため、少し休もうと思い涼真は夏を公園に連れて行った。
都内だと感じられないくらい静かで人通りも少ない穴場スポットだ。
買ったペットボトルを開けながら、木陰にいる夏の隣に涼真は腰を下ろす。
眼前に広がった池は蓮で埋め尽くされている。
涼真の視線を辿った夏が呑気な声で言う。
「咲いてますね〜……なんか落ち着く。でも、暑そうにしてますね」
花を人に見立てるその言葉に自然と笑みがこぼれる。
「暑いでしょうね、こんな日は」
涼真の返答に頷く夏。
「蓮の下って泥なんですよね」
思わず夏の顔を見つめる。
しかし何かを思い出した訳ではないのか、夏の瞳は冷静で、そこには興奮や歓喜といったような表情はない。
「泥を吸ってるのに、なんであんなに淡い綺麗なお花が咲くんでしょうか」
答えが欲しい訳じゃないだろうと思い、涼真は静かに夏の言葉を聞いていた。
強い日差しの中で見る蓮は、涼真には綺麗というよりも、暑さという暴力に耐えているたくましい生き物に見えた。
「…蓮は、紫陽花と同じように、雨の日が似合うと思います。あの葉っぱに雫が溜まって、それがある時重さに耐えられなくなって零れ落ちるの。葉っぱがしなって、水滴が池に落ち波紋を作る。僅かな時間差でいくつもいくつも出来るの」
目を瞑って想像してみる。
少しばかり身体が涼しくなった気がした。
「うん、良いですね」
涼真は答える。
「雨が葉っぱに当たる音も、その雫がポタポタ落ちるのも、できる波紋も全て、蓮の奏でる音楽になりますね」
そう言って夏はニッコリ笑った。
10
涼真は公園まで走り、肩で息をしながら奥へと進んで行く。
あの日ちょうど話をしたその場所でーー
夏は立っていた。所在なさげに。
右手には2本の傘を持っているのに、そのことは頭にないみたいだ。
夏の視線の先には、雨に打たれた蓮があった。
呼吸を整え、びっくりさせないように小さく声をかけた。
「夏さん…」
少し肩が震えたが、夏の瞳は涼真を捉えた。
と、同時に涼真の知ってる夏らしさが戻ったようでもあった。
「…涼真くん…」
「…帰ろう?」
「ごめん、私が……傘を届けなかったから、涼真くんびしょびしょだね…」
自分こそずぶ濡れになってると言うのに、夏は人のことばかり気にしている。
「夏の方が酷い格好だょ」
意識せず呼び捨てになった。
「そっか、そうだね」
改めて自分の状況を認識したのか、泣き笑いみたいな顔になる。
それがやるせない気持ちにさせる。
「…なんで、いつも無理して笑おうとするんだ」
俯いていた夏が真っ直ぐこちらを向く。
「……」
「泣けばいいじゃないか、辛いなら」
暗いのに夏の瞳は溢れようとする涙で光って見える。
「だって…泣いたら………それが本当になっちゃうじゃない」
それがきっかけとなって、堰を切ったように夏の瞳から涙が溢れて来た。
思わず華奢な身体を引き寄せ、緩く抱きしめる。
夏が怖がらないように、頭を軽く叩く。
「…誰も見てないから」
聞こえるのは雨と夏の嗚咽だけ。
2人は世界から隔絶していた。
それでも尚、彼女は言った。
「私…大丈夫だから。もう放っておいてください」
夏を抱きしめていた左手に力がこもった。
「これ以上、巻き込みたくないんです…」
夏にしては精一杯の力で、涼真の肩を押した。
泣いているその顔を隠すように「ごめんなさい」と言い、頭を下げる。
逃げようとする夏の手を咄嗟に掴む。
「夏がいなくなったら、心配で眠れない」
「……っ。怖いんです!私は……警察と関わったことがあるんですっ、まだっ全然思い出せないけど…それだけは分かったんです!私は……酷い人間かも知れません。あなたに危害を加えたり、あなたをまずい立場に置いたり」
「知ってる」
「え…?」
「警察と話したことがあるのは分かった。でもそれだけで判断するの?」
「……嫌な、予感がするんです……」
「それでも良いよ」
自分でも思いがけない言葉が涼真の口をついて出た。
「恩を感じてるなら、今日はうちに帰って。これ以上、心配かけないで」
少し強引な物言いになってしまったが、必死だった。
夏は今度は静かに涙を流し、何分ほど経っただろうか。
雨音が少し弱まった頃、消えそうな声で「はい…」と言った。
11
「お前が風邪なんて珍しいな」
電話越しにバイト仲間の春翔が言った。
「…ほんとに悪いな」
「いや、気にすんなって、どーせ暇だし。お礼は昼飯で構わないから!」
「了解した」
「随分素直だな、やっぱ熱あるんじゃないか?辛かったら病院行けよ??」
「ありがとう、またな」
「おー、大事にな!」
玄関前で通話を切ると、部屋から夏の声がした。
「涼真くん……」
「ん〜?ごめん、声大きかった?起こしちゃったな」
「バイト…行って大丈夫なのに…」
夏がベットから腫れぼったい顔でこちらを見上げる。
「そんな赤い顔して何言ってんの?熱が38度6分もあるくせに…」
起き上がる気力はないらしく、トロンとした瞼がまた落ちそうになる。
「俺のことは気にしなくて良いから、ゆっくり休みな…」
涼真の優しい声に夏の目頭が熱くなる。
頭がぼうっとして目をつむると涙が流れてしまった。
「…涼真くん…」
小さい夏の声が聞きにくかったのか、涼真はベットの隣に来た。
「どうした? 何か飲む??」
夏は右手を思わずひらひらさせる。
弱っている自分を奮い立たせる術はなく、すがれるものに縋りたかった。
「ちょっとだけ……手、握ってくれない?」
一瞬の間があり、私何を言ってるんだろうと後悔したところで、思いがけずしっかりと大きい手に包まれた。
目を閉じて、自分のものではない温かさを感じる。涼真がどんな表情をしているか分からないまま言葉を紡ぐ。
「……本当は嬉しかった。1人にしないでくれて……ありがとう」
キュッと握る手に一瞬力がこもったので、瞼を開くと、優しい涼真の笑顔があった。
「私……記憶を失ったときに出逢ったのがあなたでラッキーだったなぁ〜〜」
熱に浮かされながらもへへっと笑う。
「……きっと、この先何が分かっても、頑張れる気が……する」
涼真の左手が伸び、髪を優しく撫でてくれるのを感じる。
「何も考えなくて良いから、今くらいゆっくり休んで」
手の温もりを感じながらその声を聞いて、久しぶりに心の底から安心して眠りについた。
ずぶ濡れで帰った翌日の夕方から、夏は見事に体調を崩した。
今までの疲労も重なったからに違いない。
熱で外に出られなくなった夏を可哀想だと思う反面、夏がどこにも行けないということに安堵している涼真がいた。
「俺って最悪だな…」
夏が寝静まった頃、思わず溜息がもれる。
記憶が戻ったら、夏にはどんな生活が待っているか分からない。だからこそ、ある程度の心的距離を置いていたはずだった。
夏のことをさん付けし、敢えて敬語を使うことで距離を取れている、と思い込んでいた。
けれど昨日の出来事が2人の関係を変えてしまった。
涼真は彼女を放って置けなかったし、それは彼女の為、というよりは自分の為だということに気付いてしまった。
昨夜言った「それでも良いよ」という言葉は、どんな夏でも良いから側にいて欲しいという自分のエゴから出たものだ。
思い起こして顔が熱くなる。
夏に触れたかった。
でもそれが、彼女を後に苦しめる要素になることが分かっていた。
そして、仮に夏が涼真を想ってくれても、それは頼れる人が他にいないというだけのことなのだ。
夏の弱さを利用して、彼女に触れるのはズルい気がした。
かと言って夏から来られると拒める訳もなく、握った手を離すタイミングすらつかめない。
「……困ったな」ポツリと言う涼真の声だけが部屋に満ちていった。
12
バイトを休んだ翌日、家のチャイムがけたたましく鳴った。
まだ微熱がある夏は、涼真が作ったお粥を嬉しそうに口に運んでいるところだった。
ドアスコープを通して外を見ると、そこには見馴れた春翔の顔があった。
驚き思わず涼真がドアを開けてしまったら、
「どうだ?体調??どーせ昼飯、まだだろ??」と大きな声で言って強引に上がり込んで来た。
慌てたが時すでに遅しで、目をパチクリさせた春翔とこちらも同じように目を丸くした夏が向かい合っていた。
夏は夕貴セレクトの可愛らしいパジャマを着たままお粥を持っているという、何を話したとしても誤解される格好だった。
気まずい気持ちのまま、けれど本当のことを言う訳にもいかず黙っていたら、春翔がこちらを振り返り「ほんとお前って水臭いのな」と若干怒ったような、それでいて面白がるような複雑な声を出した。
「……すまん」
ここは相手の想像に任せるとする。
「ま、いいや!同棲してる彼女が具合悪いんじゃ、バイト休む口実としては言いにくいのも分かるしな」
うんうん、と春翔は勝手に納得している。
やっぱりそう思うよな…。
パッと夏の方に向き直り、「食事中すみません、いきなりお邪魔しちゃって〜」と持ち前の明るさで話しかける春翔。
それに反応し、夏がなぜか慌てて正座になり、「い、いえ、すみません!こちらこそ…こんな格好で…」と恥ずかしそうな顔をした。
涼真は思わず近くにあったカーディガンを夏に手渡した。夏が素直にそれを羽織ったのを見て、これで少しはパジャマっぽくなくなったかなと思った。
あまり考えなしにやったことだが、春翔は珍しいものを見るように涼真を見やった。
「お前、独占欲、そんな強かったっけ?」
言われて頭に血が上った。
「ばっ…!そんなんじゃね〜よ!夏が恥ずかしそうだったから……」
でかい声になった自分を意識して、更に気まずい思いになる。
春翔は憎らしいくらいニヤニヤしている。
「夏さんって言うんですか〜〜俺は春翔って言います!涼真とはバイト仲間です。世話してやってます!」
「あ、いつもお世話になってます」
夏が真に受けてペコリとお辞儀する。
「こいつ、割とモテるんですけど、彼女が出来てもすぐ別れるタイプで、心に闇があるんじゃないかって心配してたんですよ!」
「おいっっ!」
今度は夏がクスクス笑う。
「そーゆうことは、まだ教えてもらってないんです」といたずらっ子のような目をして春翔に話す。
「夏さんも……ふざけないでください」
「なんでいきなりさん付けになってんだょ。そーゆうプレイか?」と横から春翔の突っ込みが入る。
「もう良いから、帰れば?」恥ずかしさを隠すためついつっけんどんな口調になってしまう。
「まぁ!バイトを代わってあげたばかりでなく、心配して弁当まで買って来てあげためちゃくちゃ親切な親友を追い出す気?!! ひどいわひどいわ〜〜」
……なんでお姉言葉なんだょ……。
「それはいけませんね。」とうんうん頷いてる夏。
それを見て脱力する。
勘弁してくれ……。
「……わかった、俺が悪かったょ」
不貞腐れた涼真の顔を見て夏は
「遊んじゃってごめんなさい」と笑った。
すかさず春翔が「俺は本気だ」と主張した。
13
バンッ。
春翔の彼女の天音が元気よく車のドアを閉め、サービスエリアのお店に入ろうと歩を進める。春翔は慌ててその後を追う。
涼真は斜め前に歩いている夏に声をかけた。
「今更だけど……本当に大丈夫?」
心配する涼真に夏は安心させるような笑顔を向ける。
「うん、むしろ嬉しい。キャンプに行くなんて……一体何年振りなんだろぉな〜」と伸びをする。
「まさか、春翔が本気だとは思わなかったよ」
夏がこちらを振り向く。
「涼真くんはさ、せっかくの夏休みなんだから、私のことは気にしないで思いっきり遊べば良いのにって思ってたんだ」
「……そんなこと気にしなくて良いのに」
「だから嬉しい。しかも私まで連れて来てくれてありがとう」
春翔から誘われた時、夏が行きたいと言わなかったら軽井沢にキャンプなど行こうとも思わなかった。
でもほんの一時でも不安や恐怖から夏を解放させられたら良いと思った。
臆病な涼真はあの刑事の名刺を財布に入れたまま、電話できずにいる。
結果を後回しにしている自分がいた。
「でもいろいろ質問されて困らない?」
「それは……でも涼真くんがさ、話題を逸らして助けてくれるから大丈夫」
「自分で作り話しようと思うんだけど、咄嗟に嘘言えないな〜」
夏は嘘が下手だ。例えば兄弟のことを聞かれると、何か言おうと逡巡している様子が手に取るように分かってしまう。
そんな時は涼真が「一人っ子なんだょな〜」とか適当なことを言って場を収めるが、オチオチぼうっとしてられないのでキツイものがある。
もっとも前席に座ってる2人はあまり細かいことを気にするタイプではないので、そのことに救われているのだが。
「天音ちゃんも良い子だし、ほんと楽しい」
「それは良かった」
笑顔につられて涼真も嬉しい気持ちになる。
前方を見ると、元気いっぱいにこちらに向かって手を振る2人が見えた。
散々遊び、辺りが暗くなった頃涼真たちは花火をすることにした。
春翔は普通に花火をするだけじゃ飽き足らず、花火を二重にも三重にも持って振り回したり、ロケット花火を涼真の方に向けて来たりしてはしゃいでいる。
女子たちもそんな様子を見て、キャーキャー言いながらも楽しんでいるようだった。
そうこうしているうちにあっという間に時は過ぎ、線香花火で誰が勝つか勝負することになった。
負けた人は初恋の話をしなくてはいけないという罰ゲームが決まり、みんな恥ずかしさからか話したくないが故真剣だった。
そんな中、まさかの夏が負けてしまった。
どうしたらこの場を抜け出せるだろうと考えていたのに、夏から出たのは思いがけない言葉だった。
「私の初恋は……小学校5年生の頃なの」
どこか遠くを見ている夏は、涼真の視線には気づかず話を続ける。
「私、当時ピアノを習っていて、その先生の息子さんに恋したの」
「……夏」思わず声が出てしまった。
「みんなと遊んでたら、思い出した」と涼真に顔を向ける夏。
驚愕する涼真をよそに、2人は続きを促す。
「それでそれで??」
「彼は私よりひとつ歳上で、ピアノが上手だったの。でも正直あんまり話したことはなかったんだ……だから最初はピアノの上手な近所のお兄ちゃんってだけだった」
「え?どうして意識するようになったの??」天音が嬉しそうに尋ねる。
「……」
口を噤む夏。
涼真には夏が話したくないのか、それともそこまでは思い出してないのか区別がつかない。
「…両親が交通事故で死んだの、5年生の夏に。それで、ピアノどころじゃなくなって……辞めちゃったの。私は小さかったし、おばあちゃんしかいなくなって……しばらくは学校を行くのも嫌なくらいだったの」
まさかこんな話が出るとは思わなかったのだろう。春翔と天音が息を呑む。
誰よりも驚いているのは涼真だった。
夏は静かな声で続ける。
「そしたらね、大ちゃん……あ、その子が大地って言うんだけど……大ちゃんがね、毎朝大きい声で家まで迎えに来てくれるようになったの。私はピアノを辞めたから、もう関係ないのにね。
私が怒っても泣いても、雨の日も雪の日も、毎朝同じ時間にね、外から大きい声が聞こえるの。一緒に行こう〜!って」
「その声に救われたんだぁ」
話終わった夏の瞳はキラキラしてる。
「思い出せて良かった」
涼真は何と声をかけて良いか分からなかった。
一番早く天音が言葉を発した。
「とっても素敵ね」
皆、それ以上質問を重ねることはなかった。夏のあまりに真剣な瞳に何かを感じ取ったのかも知れない。
シンとした雰囲気を振り払うように、涼真たちは片付けをして、春翔と天音はバンガローに入って行った。
夏は涼真を呼び止めた。
「涼真くん、ごめんね、びっくりしたでしょう?」
「そうだな」
夏を心配させないように涼真はかろうじて笑うことができた。
「どこまで思い出せたんだ?全部思い出せたのか??」
ううん、と夏が首を振る。
「まだ……どうして東京にいたのか分からない……」
それはどういうことだろうかと怪訝な顔をした涼真に夏は言う。
「あの……私ね、長野出身なの……。車で道を走っている間ね、なんだかすごく懐かしい感じがして……ずっと引っかかっていたの。
それで花火の光を見てたら急に思い出して……私もやったことがあるなぁって。誰とだろうって思ったら、大ちゃんとだった。そこからいろいろ思い出せたの」
予想しない言葉が返ってきて更に驚いたが、怖がっていない夏を見て安心する。
「自分の家、分かる?一緒に行ってみないか??きっともっとたくさんのことが分かるよ」
「……行きたい……」
それは本心からの声に聞こえた。
しかし夏は戸惑ったように言い直す。
「けど、もう遅いから……。それに車がないとちょっと行きづらい所にあるの。今出たら春翔くんと天音ちゃんが心配しちゃうし……」
夏の家がどの辺にあるか分からないが、既に夜の10時を回っていた。
運転は出来るがそこまで慣れている訳ではなく、ここまでは春翔の兄の車で来たので、涼真が車を借りて夜道を走るのはやはり躊躇われた。
「春翔に話してみよう。明日の朝レンタカーあるところに停めてもらって、うちらはそこで降ろしてもらおう」
「せっかくのキャンプなのに……悪くないかな……」夏はシュンとする。
そんな夏の頭を小突く。
「馬鹿だな。すごい偶然じゃないか、ここに来られたことって。こんなチャンスは中々ないんだからな?」
顔を上げてこちらを向き、夏が嬉しそうに笑った。
「うんっ。……ありがとう」
昔の記憶を思い出した夏が涼真のことを忘れていないということが単純に嬉しかった。
そして夏が長野に留まる決心をしたとしても、今回一緒についていき夏の家が分かれば、夏と二度と会えないような気にはならないだろうと安堵した。
東京で夏に何があったかは、もちろん気になっていたし、それは夏も一緒だろう。
しかし長野に戻りたい、という気持ちがあれば、長野にいれば夏は安全なんじゃないか。
そんな気がした。