停滞
5
「おまえ、最近ぼぅっとしてること多くない?」
バイトの休憩中に投げかけられた一言にハッとするが、顔には出さないように努める。
「そうか…?気のせいじゃね?」
気のせいなんかじゃないことは、涼真自身が一番分かってる。
「まぁ、別にそれでミスがあるって訳じゃないから、周りも言わないんだろうけどな」
完全にバレている。
あれから5日ーー。
意外と早く記憶が戻るんじゃないかという希望的観測はもろくも崩れ去った。
名前すら思い出せないままだ。
足の怪我も良くなり、涼真が留守中にも近場を散策しているらしいが、未だ収穫はない。
個人情報ゼロ状態のため、働くことも出来ないことを夏は申し訳なく思っているらしく、最近の涼真の食事は家庭的で以前よりずっと健康的だ。それに部屋はいつでも綺麗で、まるで別のアパートみたいになった。
バイト仲間が訝るほど、今日の自分はいつにも増しておかしかったのだろうか。
涼真は今朝のことを思い出していた。
(それは明け方のことーー)
「夏さん、夏さん!」
呼びかけに反応し、夏がハッと目を覚ます。
「あ、すいません、起こしちゃって。苦しそうな声が聞こえたから……大丈夫ですか?」
夏は自分が汗だくになってることに気付いた。
嫌な汗だ。
咄嗟に起こしてもらったことに安堵する。
頰が濡れてることで、泣いていたのだと分かった。
「……怖かった」
ポツリと本音が漏れる。
起きがけに心配をかけまいとする理性は働かなかった。
「うん…」
沈黙が続く。涼真が何も聞こうとしないことを有り難く感じる。
言い様のない、込み上がる恐怖を退けることが出来ない。
「夢を……見たの」
「うん」その一言で促された。
「鍵が空いてる部屋に入っていくの…。入っては行けないのに……」
涼真は夏の真剣そのものの表情から目を逸らすことができない。
「真っ暗なの…。人の気配はしないのに…足元にたくさんの物が散らばって…」
そこから先を思い出そうとしたら、途端に気持ちが悪くなりーー嘔吐してしまった。
涼真はそんな夏を介抱し、落ち着くまで近くにいた。
バイトに行くか迷っていたところ、表情を取り戻した夏に大丈夫だからと背中を押された。
けれど、そんな状態の夏を残して行くことに気が引けた。
バイトに入っても事あるごとに気になってしまう。
あれは、唯の夢なのか……。
思い出せない不安が募って見る、ということは充分にあり得る。
しかし現実で起きたことだとすると…。
そこまで考えて溜息が出る。
今までも何回か夏を病院もしくは警察に連れて行こうとしたことがある。
しかしその度に真っ青になって拒絶する彼女に無理強いすることは、涼真には無理だった。
夏が家族と住んでいれば、捜索願いが出されているだろう。或いは彼女が勤めていればそこの勤め先から何らかの連絡が来ているはずだ。
ここ数日、ニュースやチラシなどにはいつも以上に目を通しているものの、夏に関連しそうな事柄は見つからない。
やはり、出来るだけ早く夏を病院へ連れて行く必要があると今更ながら思ったところで、バイトの休憩時間は終わった。
6
夏の夢の話を夕貴に話すと、友人がいる、という病院を紹介してもらった。
そこは都内から1時間半もかかる遠いところにあり、なぜわざわざと訝しがる涼真に夕貴は言った。
「あんたの話を聞くと、病院それ自体がトラウマになってる可能性があるでしょ。なっちゃん(夏のことを姉はなっちゃんと呼ぶことにしたらしい)と初めて会ったのがこの近辺なら、彼女はこの辺の病院は行ったことあるんじゃない?だから避けた方が無難よ」
「記憶を思い出すきっかけになるかも知れないじゃないか」
「馬鹿、本人がそこまで嫌がってんのょ?荒療治するつもり、今更。どちらにせよ、病院に行かなきゃならないなら、少しでも楽な方、選択してやりなさいよ」
「それにしたって、なんでそこなんだ」
「あそこの病院、病院っぽくないのょ。建物の中も白一色じゃなくて、ちょっとモダンで可愛らしくて、一見すると美術館みたいなの。病院の前には大きな花壇が広がっててね、気休め程度にはなるんじゃないかな。それにあそこならCTなどの検査もできるし」
珍しくまともなことを言う姉に感心し、声には出さないが良い案かも知れないな、と思う。
「あんた、お金もってんの?保険証、ないんだからね??」
痛いとこを突かれる。
「流石にそのくらいは、な」
「必要なら言いなさいよ、土下座したら出してあげるわょ」
最後のところは明らかに余計だ。
しかし良いアドバイスをもらえたことは確かだ。
「……考えとく」に留める。
「拾ったものは責任を持って最後まで面倒をみなさい」
犬や猫じゃないんだから……。
言おうと思ったお礼を飲み込み、「じゃあな」と言って電話を切った。
夕貴は「可愛くないやつぅ」と電話の向こうで悪態をついた。
7
病院の待合室で、ふぅ〜〜っと息を吐く夏の横顔を盗み見る。
手が僅かだが震えてるのを見て、申し訳ない気になる。
涼真が夏を半ば無理やり連れてきたようなものだった。
しかし夏自身も、あの夢以来、病院に行く必要性を感じていたに違いない。今までの抵抗が嘘のように、夏が青白い顔で首を縦に振ったときのことを思い出す。
携帯の時計をつい何度もチェックしてしまう。
病院での待ち時間はどうしてこうも長く感じるのか。
俺でこうなら、夏には永遠と思われてるに違いないーーと思った時に、仮の名前が呼ばれた。
散々検査をしてようやく帰ってきた頃、姉から連絡があった。
夏は可哀想なくらい疲れていたので、部屋に1人休ませ、姉が待つ喫茶店に向かうことにした。
姉が喫茶店を指定したのも夏のことを気にかけたからかもしれない。
「で?どうだったの??」
「脳に器質的な異状はみられなかった」
「やっぱり」
「医師がびっくりしてた。実際に診たのは初めてだって。検査をしていくと、実は覚えているのに忘れたふりをしてると判明することがあるらしいんだが、夏さんに関しては恐らくそうじゃないだろうって」
「……原因は何なの?」
「医師は原因の1つとして心因性がある、という言い方しかしてない。階段から落ちたのは単なるきっかけに過ぎないかも知れないと。検査結果に異状がなかったからな。それ以前に大きなストレスを抱えて、発症した可能性もある、と」
「随分曖昧なのね」
「断定的な言い方は避けるだろう。実際、記憶喪失ーーじゃなくって、何て言ってたっけな。健忘、か。レアなケースだし、脳に関して分からないことが多いのは事実だ。
夏さんに関しては、全…生活史健忘?と言うらしく、記憶を失う前の自分に関する全ての記憶が思い出せない状態なんだって。料理とか掃除とか、人が日常生活で行うことは出来る、って言ったら、自分に関するエピソードだけ忘れることはあるって言われた」
「これからどうするって?」
「必要ならば薬剤も使いながら、主にカウンセリングを重ねていくって話だ。1週間くらいしたら自然に戻るケースもあるって言われたが、既に経ってるし、何とも言えないな」
「なっちゃんはそれについてどう思ったのかな?前向きな感じ??」
「いや…カウンセリングの予約を入れるのも躊躇ったくらいだ。予約を取るのが難しいって聞いたから、俺が説得してようやく次回の予約をとった感じだょ。それも2週間後だ。
医師には市町村に問い合わせたか、警察に言ったかと聞かれたょ。市町村に話せば、そこから医療機関に繋げてくれたらしいな。
情けないけど俺は病院と警察のことしか頭になかった…。夏さんが嫌がるなら初めから市役所に連れて行けばよかった」
「馬鹿ね、そんなことくらい分かってたわょ」
「……そーゆうことは、早く教えてくれよ」
「そこに行って身元が分かることが彼女にとって良いことなのか分からなかったのよ」
「はぁ?」
「例えばね、記憶喪失になった原因が心因性のものだとする。そこで、記憶喪失になるくらいショッキングなことって何だと思う?想像してみなさいよ。もし犯罪に巻き込まれた、とかなら…」
「いくら何でも飛躍し過ぎなんじゃ……でもそうだとしたら、それこそ俺たちの出る幕じゃないだろ」
「でも例えば、夫がDVで逃げて来た、とかだったらどうするのょ。身元が分かってそこに戻ったらおしまいだわ」
「すげー想像力だな。あの日彼女には階段で落ちた時にできた怪我以外なかったょ」
「あんた、彼女とやったの?」
涼真は思わずコーヒーを噴き出しそうになった。
「…そんな訳ないだろ」夕貴の方を睨む。
「じゃあ分からないじゃない、見えるとこに怪我させると思う?」
「……」
「それにDVって暴力だけじゃないわょ、暴言とか、性的虐待とか…」
考えたくなくて頭を振るう。
「ちょっと待てよ、全部何の根拠もないじゃんか。やめろよ、憶測だけで話すの」
「でもなっちゃん、財布も携帯も見事に何も持ってないのよ?あの暑い日に走ってた、ここまでは正しいわね?おかしいじゃない、今時コンビニ行くのにも財布と携帯はマストょ。追い詰められて逃げていた、と考えるのは割と合理的だと思うんだけど。何も持つ余裕もないくらいの状態だった、と考えられない?」
「………」
「その沈黙は肯定と取るわよ」
自分が想像していた以上に事態は深刻なのかも知れないと思い、涼真は暗澹たる気持ちになった。
8
ひどく疲れてるのに眠れない…。
横になっても夏の神経は高ぶったままだ。
ふと窓に目を向けると……
雨が降っていた。
ぼんやりと窓の外の景色を眺める。
時計を見上げると、涼真が出て行ってから1時間ほどが経過していた。
駅の裏にある喫茶店に行ってくる、と言っていたか……。
アパートには、ビニール傘が2本置いてあった。1本は涼真が夏のために買ってくれたものだ。
1人で部屋にいると息が詰まりそうで、夏は傘を持って外に出る。
何もできない私が、少しでも役立てば良いと思いながら。
頬に生温い風を感じる。
線路の脇を通るとコンビニが行く手を煌々と照らしていた。まだ早い時間だからか人通りも少なくなかった。
けれど夏は……この世界で圧倒的に1人だった。
自分に一体何があって、記憶を失うに至ったんだろう。
どうして、病院と警察が怖いと思うのだろう…。
悪いことばかり考えてしまう。
そして、こんなに長く涼真に迷惑をかけ続けていることを心苦しく思う。
彼が負うべきことではないのに……良い加減覚悟を決めなきゃいけない。
もうこれ以上、迷惑をかけられない。
涼真の邪魔をしたい訳ではないので、駅前の改札で待つことにする。
小雨だった雨が、いつしか激しく地面に落ちる様をぼぅっと眺めていた。
いつの間にか降り出した雨のため、涼真は小走りになって帰路に着く。
走りながらも夕貴の話を反芻していた。
「あんたさぁ、分かってないと思うから、もう1つアドバイスしてあげる」
「…?」
「警察にも市役所にも行かなくても身元を確定することくらいできるわよ」
夕貴はサラッと言ってのけた。
「どうやって?」
「現代を生きる人の言葉とは思えないわ…。Facebookで拡散するのよ」
ーーそうか、その手があったか。
「ーー俺は登録したきり、開いてない」
「あんたのが使えないことくらい分かるわょ、思いつかなかったくらいなんだから。でも私のコネを使えば、判明するのに1週間はかからないんじゃない?」
完全に盲点だった。
「ただどっちにしたって、なっちゃんの許可が必要ね」
「あぁ……」
「まぁ、焦ることもないわょ。さっき話したことも気になるし。折を見て話してみれば?」
「分かった」
夏のことを考えていたからか、最初は見間違いかと思った。
改札前の柱に少し寄りかかって夏は立っていた。
虚空を見つめる姿はとてつもなく頼りなく、消え入りそうだった。
いつもの夏とは違う様子にドキッとする。
傘を2本持って立っているところを見ると、迎えに来てくれたのかも知れない。
近づこうとした、その時ーー。
知らない男が夏に話しかけた。
「あの、すみません…」
ふいに話しかけられた夏が顔を上げた。
「樟さん、ですょね?」
彼の顔を見た夏は目を見開いた。
「あ、覚えていますか?私は…」
彼の話が終わる前に、夏はーー走り出した。
その言葉を吹っ切るように、突如として。
「ーーなつっっっ!」思わず叫ぶ。
が、夏は全く涼真の声が聞こえていないようで早くも視界から消え去ろうとしている。
涼真は焦った。
突然のことに反応できなかったのだろう、男はそのまま夏の方に顔を向けてはいるものの追いかける素振りはない。
急いで男に言う。
「す、すみません!あなた、あの人を知ってるんですね?!」
慌ててポケットを探るも文字が書けそうなものはない。
「いや、そう思ったのだけど、私の勘違いかも知れません。名前がーー」
その言葉を聞いて涼真は確信を持った。
「どうしてもお聞きしたいことがあります、後日お電話差し上げてもよろしいでしょうか??」
こうしてる間にも夏はどんどん遠くに行ってしまう。
焦る気持ちを抑えて早口で話す。
涼真の鬼気迫る言い方に何か感じるところがあったのかも知れない。
男は逡巡した後、何も聞くことなく自分の名刺を取り出した。
そんな普通の動きでさえ、緩慢に見えてしまう。
「ーーっ、ありがとうございます!!!すみません!」
言い終わる前に駆け出していた。
夏の走った方へ全速力で走る。
水が跳ね、服を容赦なく濡らしていく。
服に含んだ水の重たさを感じながらも、速度を緩めることなく、ひたすら走り続ける。
「なつっっっ!」
人通りが少ないところまで来て、闇に向かって叫んだ。
このまま夏を1人にすることが怖かった。
アパートに戻ってみたが、やはり夏は戻って来ていない。濡れないように守っていた名刺だけ玄関に置いてすぐさま外に出る。
ーー記憶が戻っていたら、俺が探せるはずもないーー
でも戻っていなかったら?
夏にとっての思い出は、涼真と会ったわずか10日間に凝縮される。
夏が……行きそうなところ…行きそうなところ。
必死で頭を働かす。
もしかしたらーー思い立ったところへ息を切らし足を運ぶ。
脳裏には名刺にプリントされた文字が焼き付いていた。
ー警察庁刑事部 捜査第一課
巡査部長 桜木 誠ー




