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夏の記憶  作者: 紅星乃叶
1/6

出逢い

早く、早く ここから遠くへ行かなくちゃ。


脚がもつれる。

でも止まることは出来ない。


これは悪い夢に違いない。


視界は滲み、

息苦しさを覚える。


それでも走り続ける。


ーーそんな訳ない。



階段の手すりに震える指を置こうとした、

その時ー


世界は暗転した。


1


人の声が遠くでする。


ぼやけた視界が、この世のものではない物を映し出しているような気がした。


しかしその声は徐々に大きくなってきて、私の意識を揺さぶった。


「大丈夫ですか?!俺の声、聞こえますか?!!」


怒声とも言える、逼迫した声が私に被さる。

それを意識した途端、鈍い脚の痛みを感じた。


すぐには声が出せなかった。

しかし瞼を開けると、眩ゆいばかりの空と、知らない青年の顔があった。


深い溜息と共に、「良かった…」と安堵した青年の声が聞こえた。


「あなた、階段から落ちたんですよ。呼びかけてもすぐに反応がなかったので、救急車を呼ぶところでした」


まだ頭がぼうっとして、働かない。


「大丈夫ですか?痛いところは??」


「す…すみません…」声が掠れた。


起き上がろうとしたところ、頭にも鈍い痛みを感じた。

思わず頭に手を当て、しかめ面をした私を見て、青年は心配顔になった。


「大丈夫ですか?ちょっと…すみません」

後ろに周り、頭の怪我の様子を見てくれる。


情けないやら恥ずかしいやらで、

「や、大丈夫ですから……」といいつつ、立とうとするも、「いたっっ!」と声を出してしまう。


「頭の方も少しだけですが赤くなっていますね、これから腫れるかも知れません。安静にしていた方が良いでしょう」


「脚は………骨折、まではいってなさそうですが…捻挫はしてますね。近くに病院もありますよ?俺、連れていきますんで、ちょっと待っててください」


病院…その言葉を聞いた途端、何故か心拍数が上がって、目眩がした。


「いや、やめてください!」

考えるより先に悲鳴に近い声が出た。


青年はびっくりした顔になったが、戸惑っているのは私も一緒だ。


病院に行ってはいけない。

自分の中の何かが警告しているようだった。


「す、すみません!せっかくご親切で言っていただいてるのに…」


様子がおかしい私にも臆せず、青年は話を続ける。

「いや、すみません。知らない俺がおこがましいですね。誰か呼びますか??その人に連れて行ってもらった方が良いかな…。携帯とか…持ってなさそうですね。俺の、使ってください」


こんな親切な人に、なんて言いかたしちゃったんだろうと申し訳なさで、俯く。


「すみません……」

あぁ、何回めだ?謝るの。自分にうんざりする。


ここは素直にならなければ。

「お借りします…」


どうしよう、誰に迎えに来てもらおうか、一体誰に……。


はた、と番号を押そうとしていた手が止まる。


青年は怪訝そうな顔をする。

でも、そんなことに構ってはいられなかった。


全身の血が一気に抜けたような感覚と共に、真夏だと言うのに冷や汗が出て来た…。


「…あのぅ…」


我ながら情けない声が出た。


「私の名前……知ってますか?」


たぶん、いや、絶対、人生初の情けない日に決定だ。

今まで何があったのか、何も憶えてないけれど。


2


さて、どうしたものか。涼真は悩んだ。

警察もやだ、病院も嫌、ときた。


彼女の怪我が気になったので、つい自分のアパートに連れてきてしまったが…。


知らない男の家なんて、この人は怖くないのか?

途方に暮れた様子の彼女は、そんなことまで頭が回らなそうではある。


俺と同い年くらい、かな。

これからどうするか、、、。


思案顔になった涼真を見て、しょぼんとする彼女。


「いろいろ、本当にありがとうございます。脚の手当てまでしていただいて…。すぐ帰ります……と言いたいのですが…」


そこまで言って、言葉を詰まらせる。


どうにも嘘をついてるようには見えない。


咄嗟に口をついて出た。

「あの、あなたの事情、うちの姉にだけ話しても良いですか? その足じゃ今日は大人しくしていた方が良いので、近くに住んでる姉にとりあえず必要な物を買ってきてもらいますょ。俺はよくわからないんで」


「え…?」


「それで、今日はここに泊まったらどうですか?俺は、友人の家に泊まらせてもらうから」

さすがに無用心かな、とも思うが、なくなって困るような物はあまりない。必要最低限の物を持っていけば大丈夫だろう、と考え直す。


それにどうしたって悪い人には見えない…。


可愛いからってだけではない…筈だ。


可愛い女に騙される男がいるってことはもちろん知ってるが、学生の身の自分をこんな凝った演技までして騙すメリットは何もない。お金が大してないことも、この狭いアパートから察することができるだろうし。


くだらない考えが頭をよぎっている間、彼女は真剣な表情で必死に何かを思い出そうとしているようだった。


「いや…さすがにそこまでは…」

言い澱むが後の言葉は続かない。


彼女は考える。


自分には頼れる人もいず、財布すら持ってないのだ。


ホテル代を借りようかと一瞬思ったが、明日記憶が戻る保証はない。


長期戦になることを覚悟するのであれば、この青年に無駄な出費をさせるのは忍びない。


再び黙り込んだ彼女に涼真は言う。


「繰り返しになりますが、俺としては警察に言って事情を話すのが一番だと思います。もちろん病院にも行くべきだと思うし…」


彼女はまたしても思案する。


彼の言うことは痛いほど分かる。


しかし、それを考えただけで気分が悪くなる自分がいるのだ。

想像するだけで足が竦む。


「……大丈夫ですか?顔、真っ青ですよ」


言われて自分が酷い顔をしているのだな、と気づく。


「……今は混乱しているでしょうから、焦らなくても良いかも知れません。気持ちが落ち着いたら行きましょう」


穏やかな声でそう言われ、ホッとする。


彼女の返事を待たずに、涼真は携帯を出し電話をかけた。


「もしもし、姉貴?俺」


彼女は涼真の急に砕けた話し方を聞き、あぁ、しっかりしていてもまだまだ若いんだな、と場違いなことを思う。


「悪いな、仕事中に」

涼真は話しながら部屋を出て行く。


「珍しいわね、あんたから電話なんて。どした?借金でも作った?」


「アホか、んな訳ないだろ!」

「つまんね〜の」


こいつは…。相変わらずだな。

涼真は早くも頭が痛くなるのを感じた。


これから話すことが姉を喜ばせることが容易に想像がついてうんざりする。

が、背に腹はかえられない。


彼女には聞こえない距離にいることを確認し、本題に入る。

「借金じゃないんだけど、姉貴に頼みがある」

「ほう」

ーなんだよ、ほうって。


まどろっこしいので一息で伝える。


「今、記憶喪失の女性がうちにいる。警察に行きたくないらしく、うちに泊まることになった。足を怪我してるので必要な物を買って来てくれ。姉貴の物を貸してくれても良い」


大きい声で叫ばれるかと思い、携帯を耳から離す。

予想外に落ち着いた低い声が聞こえた。


「面白すぎるじゃん」


ワンテンポ遅れて、

「武者震いがしてきた!今から行くわ!!!」という馬鹿でかい声がした。


「ばか、お前、仕事はちゃんと終えてから来」

言い終わる前に、通話終了の虚しい音が聞こえてきた。


そうか、こーゆうやつだった…。


せめて仕事を終えても良い時間にかけるべきだった…と後悔先に立たずだ。


部屋に戻ろうとしたところ、姉から着信があり、反射的にとった。


「その人ってブラ何カップ?」


「そ、そんなの知るか!会ったばかりだぞ!!!」


「あんたは修行が足りないわ、そんな子に育てた覚えはない」


ーー本格的に頭が痛くなってきた。


「役に立たないから彼女に代わって」


もうどうにでもなれーー

返事すらせずに彼女に携帯を渡した。


3


担ぎ込まれた荷物の山にギョッとする。


目を白黒させているのは彼女も同じだ。


おいおい、国外逃亡でもさせるつもりか?


「こっちが適当に見繕った服、あたしので良かったら使ってね。こっちが新品の下着、タオル類。それでこれが化粧品一式。そんでもってこっちは、シャンプー、リンスと……」


まだまだ終わりそうにない説明をつい遮ってしまう。

「こんなに必要か…?」


「あんた、女をなめてるわね。今に痛い目を見るわよ」


意味不明だ。


白い目でこちらを見た、と思ったら素早く営業用スマイルに切り替えて彼女に手を差し出す。


「初めまして、愚弟・涼真の姉の夕貴です。どうぞ、よろしくね」


彼女は、というと恐縮の固まりみたいになっているものの、ぎこちなく握手し返す。


「は、初めまして…えっと……」

名前すら思い出せないんだから、その先が続く筈もない。


「そっか…名前がないのは不便ね。仮の名前が必要だわ。何にします?」


唐突な問いかけに、返答できずにいる彼女が困ったように涼真を見た。

ーーそんな顔をされてもーー。


不敵な笑みを浮かべた夕貴が言う。

「あんたが決めて良いってよ」


「はぁ?無理だよ、そんなん。俺ネーミングセンスとか皆無だし…」


「じゃあ名無しの権兵衛さん、とかになっちゃうわょ?その方がかわいそーでしょうが」


それに対し彼女も何故か、「何でも構いませんので…」なんて言い出す始末だ。


彼女にではなく、夕貴に「文句言うなよ」と一言述べ、睨む。


「…じゃあ今が夏なんで……夏さん、はどうですか?」

大して考えなかった。呼びやすく、簡単なもの。涼真の名前に対する意識は所詮その程度だ。

ところが予想に反して彼女は嬉しそうな顔をした。

「良いですね、ありがとうございます」

ニコニコしたかと思ったら、急に彼女の瞳に涙が溜まり動揺した。


「す、すみません…こんな迷惑を…」

あ、ヤバイ。こんなにして貰えるなんて思ってもいなかった。

急に溢れ出した感情に彼女は慌てた。


涼真と呼ばれた彼に心配かけないようにしなければ、と思うけれども、視界が涙で滲んでしまう。

意識したと同時にすごく心細かったことに気づく。


「良いのょ。記憶が戻った時に倍返ししてくれれば」優雅な笑顔で夕貴が返す。


何を言い出すのかと涼真はギョッとする。


「あ、こ、これはこの人の悪い冗談だから!」

あはははは、と涼真の乾いた笑いが狭い室内に充満する。


気まづくなったところで、

ー彼女が笑った。


「それはもう!恩返しさせていただきます、ありがとうございます!」


目に涙をたくさん溜めてるにも関わらず、精一杯元気よく言って笑った顔は、花のようだった。


「合格だわ」

夕貴がポツリと言った。


ツッコミどころがあり過ぎるので、涼真は無視することにした。


4


夕貴がいなくなり、台風が去ったかのような静寂に包まれた。


「……なんか、すみません。あの人、根掘り葉掘りあなたに質問したりして…」

記憶がない相手に何の躊躇いもなく質問を投げかける姉にげんなりした。


「い、いえ!却ってなんだか清々しかったです。あ、こんな表現、変ですょね。…なんて言えば良いのか……あの、あんまり深刻にならなくて良いんだ、という気になれました」


そんな効果があるとは……。


「それなら良いんですが」


涼真は時計を見る。


「そろそろ、俺、友達のとこ行ってきます。そいつのバイトが終わる時間なんで」


「あっ、は…はい」


カバンを持って出ようとしたところ、シャツを引っ張られ、予想外のことに少しよろめく。


「わっ!すみません!!!」彼女が慌てながら謝る。


……?


振り向くと、彼女は不安そうな顔をしていた。


涼真は少し考えて、思いついたことを言ってみる。


「すみません、気づかなかったな。この家電話ないですもんね。携帯…置いておきます。俺のダチの電話番号教えるんで、何かあればかけてきて下さい」


話しかけるも俯いて反応はない。

が、彼女の手はシャツから離れようとしない。


「あの…?」


……何か喋った…けど声が小さくて聞こえなかった。


「…すみません、もう一度?」


「あの、自分でも可笑しいと…分かってるのですが…」語尾が小さくなっていく。


「はい?」


「今日はここに居ていただけませんか?」

かろうじて聞こえる声だった。


「あの、分かってるんです、そういう意味じゃないんです」


言われた涼真以上に彼女はパニクってる。

突然早口になったことでそれが知れる。


「今日1人になったら、いろいろ考えてしまいそうで、怖いんです。お姉さんに頼めば良かったのかも知れないのですが、1人になるのがダメって今、気づいたんです。あなたがいなくなって1人になることを想像したら居ても立ってもいられなくなっちゃって…」


涼真には記憶喪失になった経験がない。

だから、そんなものなのかと思い測るしかない。


「この部屋は広くありません」


「はい…」彼女が小さくなる。


「俺は男で、あなたは女です」


「…はい…」更に小さくなる。

泣くのを必死で堪えているような顔だった。


沈黙が2人の間に落ちる。


先に口を開いたのは涼真だった。


「…とは言え、今回は特殊なケースですし、あなたが不安なのも分かる気はします。安心して下さい。俺は床で寝ますから」


彼女は目を見開いて、パッと顔をあげた。

「ありがとうございます!」

泣くのを堪えていたせいか、頰に赤みが差していて、それがまた彼女を可愛く見せる。


困ったな……。

会ったばかりの男に絶大な信頼を寄せられても…。


インプリティングか…?


まだ、夜は始まったばかりである。



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