第1章 古着の温度差と、50/50の刻印
僕が働いているこの古本屋『道楽書店』は、一見するとどこにでもある雑多な三層構造の店舗だ。一階には新刊混じりの文庫や雑誌、二階には専門書やコミック、そして僕が主戦場としている三階には、少しマニアックなサブカル本や古い写真集が詰まっている。
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だが、この店に一歩足を踏み入れた者が感じるのは、神保町や街の古本屋特有の「紙の匂いと窮屈さ」とはまるで違う、どこか狂気すら孕んだ居心地の良さだ。
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売上ノルマもなければ、株主の顔色を伺う必要すらない——個人オーナーの文字通りの「道楽」で経営されているこの店には、40億とも50億とも囁かれる規格外の資本が、惜しげもなく注ぎ込まれていた。
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だが、それは煌びやかな装飾や掃除に困るような高級絨毯に費やされているわけではない。使い勝手のいい無垢材のフローリングに、何時間座っていても疲れない絶妙な角度のラウンジチェア。吹き抜けから入る自然光と見事に調和する柔らかな間接照明、そして本特有の埃っぽさを一切感じさせない完璧な空調設備——。
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すべては「いつまでもここに居たい」と人々に思わせるためだけに、綿密に計算された空間作りへと投じられていた。
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利益を一切追求しないからこそ実現しているこの「過剰なまでに快適な空間」と「のんびりとした空気」が、ここで働く僕たちの感覚を少しずつ麻痺させていることに、この時の僕はまだ気づいていなかった。
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僕、山田一郎(25歳)には、人に言わせれば少し変わったこだわりがある。
古着だ。
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ファストファッションの無難な服にはない、時代を経た生地の質感や、絶妙に枯れた色味。休日のたびに高円寺や下北沢の古着屋を巡っては、自分なりのコーディネートを組むのが密かな生きがいだった。
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「山田さん、おはようございます。これ、今朝届いた三階の補充分の伝票です」
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二階のカウンター前で入荷品を仕分けしていた遠山遥ちゃんが、
可憐な笑みを向けながら伝票を差し出してくれた。
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遥ちゃんは僕より二歳下で、小さめの鼻立ちと柔らかい雰囲気が印象的な女の子だ。
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彼女も時折、センスの良い服を着て出勤してくる。
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「あ、ありがとう遥ちゃん。……あ、それ。もしかして前に話してた、高円寺のショップで見つけたっていうワークジャケット?」
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僕が彼女の羽織っている薄手のカーキ色のジャケットに目を留めると、遥ちゃんは「あ」と少し驚いたように胸元に手を当て、控えめに微笑んだ。
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「あ、はい……! よく分かりましたね。山田さんに教えてもらった通り、裏地のステッチがすごく可愛くて、思わず買っちゃったんです」
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「やっぱり! いやあ、すごく似合ってるよ。丈感もバッチリだし、そのくたっとした衿の落ち感がさ、遥ちゃんの雰囲気にぴったりだと思ってたんだよね」
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「本当ですか? 嬉しいです。私、全然そういうの詳しくないから……山田さんに褒めてもらえると安心します」
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「いやいや、遥ちゃんは筋が良いんだよ。最近の若い子ってさ、ブランドのロゴだけで服を選びがちじゃない? でも生地の風合いとか、作られた時代の背景まで含めて愛せる人って、なかなかいないからね」
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「ふふ、そうなんですかね。山田さん、本当に古着のことになると楽しそうに話しますよね」
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遥ちゃんはクスクスと嬉しそうに喉を鳴らした。
僕は鼻の下が伸びそうになるのを必死で抑えながら、自信に満ちた先輩としての笑みを返した。
僕と遥ちゃんは「古着好き」という共通の趣味、価値観で固く結ばれている――少なくとも僕はそう確信していた。
僕のような「本物の良さが分かる男」だからこそ、彼女はこうして心を開いて笑顔を向けてくれているのだと。
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「あ、でも……古着って、やっぱり生地とか縫い目が弱くなってたりするから、たまにヒヤヒヤしますよね」
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「うっ……もう、あの話は勘弁してよ遥ちゃん……」
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僕は大袈裟に胸を押さえて苦笑してみせた。
忘れもしない、今週の火曜日だ。
三階の棚下段に文庫本を補充しようと深くしゃがみ込んだ瞬間――バリッという悲痛な音が店内に響き渡った。
僕がお気に入りで穿いていたヴィンテージのチノパンのお尻の縫い目が、股から臀部にかけて豪快に割れたのだ。
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「あはは、ごめんなさい! 別にからかってるわけじゃないんです。ただ、山田さんでもそういう失敗するんだなって思ったら、親近感が湧いちゃって」
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「まあね……あのヴィンテージ、1960年代の米軍モデルだったから、糸が経年劣化で弱ってたんだよ。あの後、自分で補強縫いしたんだけどさ」
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「えっ、ご自分で縫い直したんですか!? すごい……手先器用なんですね」
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「まあ、古着と付き合うならそれくらい日常茶飯事だからね。今度もし遥ちゃんの服の縫い目が怪しくなったら、僕が直してあげてもいいよ?」
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「えー、本当ですか? じゃあ困ったら山田さんにお願いしちゃおうかな」
照れくさそうに首をかしげる遥ちゃん。
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(あの事故は恥ずかしかったけれど……でも、こうして二人だけの『秘密の思い出』みたいに笑い合えるネタになったんだから、結果オーライだ。遥ちゃんも、僕のこういうちょっと抜けたところも含めて、親しみを感じて頼りにしてくれているに違いない)
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そんな風に自分の過去の醜態すら都合よくロマンチックに脳内変換していると、一階の買取カウンターの方から、軽薄で聞き捨てならない大声が聞こえてきた。
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「遥ちゃーん! 二階のコミックの補充、俺が手伝ってあげるッスよー!」
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ドタバタと騒々しい足音とともに階段を上がってきたのは、先月入ってきたばかりの新人・新田仁太だ。
要領よく黒髪に整え、耳の穴も綺麗に塞がっているが、僕は一目でこいつの本性を見抜いていた。
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「あ、新田くん。大丈夫だよ、コミックはもう七海先輩と分け終わったから」
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「え〜? いいじゃん、俺ヒマなんッスよ。一階のおばちゃん、客と韓ドラの話で盛り上がっちゃって全然指示出してくんねーし。俺が遥ちゃんのお手伝いしてあげるッス!」
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新田はヘラヘラと馴々しい態度で遥ちゃんの隣に滑り込むと、棚卸しの伝票を覗き込んできた。
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その瞬間、新田が棚にかけたエプロンの袖口から、チラリと覗く左手の甲。 そこに刻まれた『50/50』という歪なタトゥー。
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(……間違いない。こいつだ。)
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忘れもしない。半年前、僕が自慢の古着コーデで駅前を歩いていた時、ティッシュ配りをしていた金髪&ジャラジャラピアスのガキ――それが新田だった。
すれ違いざま、こいつは僕の服を見て小さく「ダサっ」と吐き捨てたのだ。
小心者の僕はその場では何も言い返せず、俯いて通り過ぎるしかなかった。
だが、あの屈辱と左手の『50/50』の刻印だけは、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。
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「ねえ遥ちゃん、今日のそのジャケットも可愛いけどさ、中の服も見せてよ。もっと薄着にならないの〜?」
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「え……あ、ううん、今日はこれでちょうどいいから……」
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急激に距離を詰めてくる新田に、遥ちゃんは少し困惑したように身を引いた。
新田は僕を「ダサい古着の男」と笑ったことすら覚えていない。
その無自覚さが、僕の腹の底にあるドロドロとした怨念をさらに燃え上がらせていた。
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(新田みたいなチャラチャラした害虫に、遥ちゃんを触らせてたまるか。一階の仕事もまともにできない奴が、僕と遥ちゃんの特別な時間に割り込んでくるな……)
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僕は持っていた文庫本の束をぎゅっと握りしめた。
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(店の一番奥、スタッフ以外立ち入り禁止の扉の先にある従業員用スペース__僕らはそこを『バックルーム』と呼んでいるんだが、なんと新田はアルバイトの初日に紙類が山積みされた禁煙のバックルームで平然とタバコを吸ったという、とんでもない非常識な男だった。)
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(しかし、店長は厳重注意しただけだった。なんでだよ!そんな奴普通即クビだろ?なんで採用するんだよ)
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(頼りにならない長山店長にかわって、僕が絶対に彼女を守る『ヒーロー』になってやるんだ。新田のセクハラから彼女を完璧にガードしてあげれば……遥ちゃんもきっと、僕がどれだけ特別で頼れる男か、改めて気づいてくれるはずだ)
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湧き上がる下心と優越感を「彼女を守る正義感」という綺麗な包装紙で包み込みながら、僕は二階で遥ちゃんに不躾な視線を向ける新田を、三階の手すり越しに鋭く睨みつけていた。
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第2章へ続く
本作(全10章)はすでに完結済みです。
毎日不定期に投稿していきますので、最終話までお楽しみいただければ幸いです!
この他にも様々な作品を公開していますので、ぜひ作者ページから覗いてみてください。
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