第3話
新しい家で、初めての朝を迎えた。
まだどこか慣れない。嗅ぎ慣れない匂いや見慣れない部屋の景色。
それでも悪い気はしなかった。
ドーレマンが言っていた通り、この家は広くはないが、個室が三つもある。
それに加えて、机と椅子を置ける大広間、古い型ながら湯を出せる魔道具付きの水場、魔道コンロのある小さな台所まであった。
僕たちには十分すぎる拠点だろう。
外は日が昇り始めたばかりだというのに、北門側の工房区画ではもう鍛冶場に火が入っているらしく、金具を打つ乾いた音が微かに聴こえてくる。
ルルレーダンの迷宮へ入るための先行権。
競り場の連中に先を越されているとすれば、急ぐ必要がある。だが、最初の一歩を雑に踏むことはできない。
「持っていくのはこれくらいでいいと思う」
大広間の机の上には、昨夜のうちに揃えた物資が並んでいた。それを見回してリナが言う。
「水と食料、携帯型の魔灯、壁や地面に印をつける白石。今日はちゃんと戻る方が優先」
「そうだな。初日だからまずは浅いところを見て戻ろう」
「先に入った勢力の痕跡が、少しでも追えるといいんですが……」
イスカはもう外套を留め終え、細剣の位置を一度だけ確かめていた。
昨夜、位階が上がったばかりのリナは、吹っ切れたような顔をしている。
腰の鎖を整えたあと、外套の下に装備したレッグガードに触れていた。
「それで、体はどうだ?」
僕が聞くと、リナはその場で軽く全身を動かす。
「⋯⋯大丈夫。早く動いてみたいくらい。体力も少し上がってる気がする」
「よかった。じゃあ行くか」
―――――
ヴァレスタの北門を抜け、ルルレーダンの遺跡が見え始めた頃には、僕たちの会話は自然と減っていた。
副支部長ドーレマンとその部下であったサムと一緒に、ここへ来たことを思い出す。
あのとき、リナの《解読》のおかげで別の場所に本当の入口があることがわかった。
今日はその先へ潜る。
「ここまでは前と同じ」
リナが低く言って歩き出す。
真っすぐには進まない。
欠けた石を一つ避けながら右へ寄り、草の丈が低いところを踏まない。
その足運びを、僕とイスカがそのままたどる。
そのとき、景色が一瞬ずれる。
鳴石が遠くで鳴り響いた。
目の前には二本の石柱とぽっかり空いた階段口が現れた。
以前も見たルルレーダンの迷宮の『真の入口』だ。
二本の石柱の手前で、突然リナがしゃがみ込んだ。
「……やっぱり、足跡」
足元の石の継ぎ目に、乾いた泥が薄く残っている。
僕が見ても分かるくらい新しい擦れ跡だった。
「こっちにもあります。紐を掛けた跡です」
イスカが石柱の左側を指した。角に擦れた筋が残っている。
細い紐を渡して、戻る時の目印にした跡だと分かった。
「……もう来てる」
リナがその跡に指先で触れる。
「偶然見つけたって感じじゃないね」
「気をつけて入ろう。周りをよく見て」
僕が言うと、二人も頷いた。
僕たちは石柱の間を抜け、階段を下っていく。
下るにつれて、空気が少しずつ冷たくなっていった。湿っているわけではないが、石の匂いの奥に薄く水気だけが残っているような感じがする。
階段の先は、広い石畳の広間だった。
外縁のような崩れた石壁や地面ではなく、太い石柱が何本も立ち、まだ元の形をかなり残している。
天井は高い。
奥は影に沈み、どこまで続いているのかは見えなかった。
足音も声も、一度壁で反射してから戻ってくる。
「……静かですね」
イスカの声が小さく響く。
僕たちは周りを調べながら、この大広間を少しずつ進んでいく。
真っすぐ進んでいてもずれていくようだと危ないため、白石で印をつけながら歩く。
その静けさを破ったのは、石柱の影から滑り出た灰色の影だった。
一頭、二頭、三頭。
狼みたいな毛並みと胴に、砂のような毛色。口先は細く、横から鋭い牙が覗く。
Fランクの魔物――レトルファング。
レトルファングは今まで何度か狩ってきた魔物だが、目の前の個体はそれより一回り大きく見えた。
三頭とも最初から正面へ来ない。一度横へ開き、僕たちの脚へ噛みつける角度を探っている。
その奥からもう一体、低く重い影が石床を押し鳴らした。
分厚い首、短く太い牙と角を持つ巨体の獣。
猪型のEランク魔物――ドレッドボア。
そして、さらにその背後の壁がぬるりと剥がれた。
最初は崩れた石の色と見分けがつかなかった。
黒茶色の甲殻が壁を擦り、腹の裏に並んだ細い脚が一斉に石を掻く。
背に並んだ細かな棘も気持ち悪いが、それより嫌なのは口だ。黒い歯が忙しなく開閉し、長い触角が床も壁も確かめるみたいに揺れている。
そいつは壁際に落ちていた石の欠片を口へ入れると、ばりばりと噛み砕いた。
そのまま、何事もなかったみたいに這ってくる。
「え、……なに、あれ⋯⋯」
リナは声は引きつっていた。あまりの気色悪さに、体は硬直しているのがわかる。それに対して、イスカが短く答えた。
「あれは⋯⋯Dランク魔物のスパインローチです。戦ったことはないのですが⋯⋯有名です。甲殻がかなり硬く、動く速度も速いです」
そいつは真っすぐ来ない。
ときに壁際を這い、柱を縫い、こちらが前へ出る場所そのものを削り取るみたいに迫ってくる。
「まずは前のレトルファングからだ!」
僕が言い放つと、リナの鎖が大きく鳴った。
石柱へ一度引っかけ、その返りで右へ展開していたレトルファングの前脚を取る。
噛みつく角度を崩された一頭が地面へ腹を擦った。
僕はそこへ踏み込む。
「先にこっちだ。《瞬纏》」
斬るその瞬間だけ、朧差へ『黒』を乗せる。
刃は毛皮と肉をまとめて裂き、跳びかかる直前だったレトルファングの首を斬り飛ばした。
左へ散った二頭目には、イスカが先に滑り込んでいた。
細剣でレトルファングの肩口を斬り裂き、そのまま噛みつく向きを外へ向ける。牙は空を噛んだが、その進路へかぶさるように三頭目が入ってきた。
リナが踏み込んだ。
外套の下、足首を覆うレッグガードがわずかに熱を持つ。
地面を蹴った瞬間、体が思ったより先へ出た。
速いというより、足がちょうどいい場所へ吸い込まれたように――。
二頭目の前脚へ巻きつけた鎖を、リナはそのまま強く引いた。重心を崩されたレトルファングの体が横へ流れ、次の瞬間には石床へ叩きつける。
「《錨鎖》――!」
地面に激突して骨が潰れる音が響いた。
その直後、三頭目がリナに跳びかかる。
たが、させない。
イスカが《閃駆》で踏み込むと同時に、細剣の斬撃で斬り伏せた。
その隙を見たのか、ドレッドボアが来る。
小細工はない。
ただ速く、重い。質量そのもので押し潰すための突進だった。石床が鳴るたび、足裏まで震えが伝わってくる。
僕はドレッドボアへ黒鉄の小手を向け――撃つ。
「《連牙》――!」
二発の『黒』が小手の指先あたりから同時に放たれた。
ドレッドボアの鼻先と前脚を撃ち抜く。
だが、力を込める時間がなかったため、その巨体に対しては穿つ範囲が小さすぎた。
ドレッドボアの顔の位置が少し落ちたが、突進そのものは止まらない。
僕はそのまま横へ跳び、その太い首筋へ朧差を振り抜く。
分厚い首の皮を裂く手応えはあったが――それでも浅い。
やはり少々ダメージを与えたくらいでは止まらない。
そのとき、背後の隙を狙っていたかのようにスパインローチが抜けてきた。
人間の体ほどもある、大きな昆虫型魔物。
そのたくさんの節足により、動きは素早く、獣とは違う異質な動きをする。
スパインローチは聞いたことがないような耳につんざく音を鳴らしながら、通路の端を舐めるように走る。
正面から斬るには甲殻が厚い。脇へ回るには柱が邪魔だった。
僕は体を引いた――だが、その正面へ今度はドレッドボアが戻ってきていた。
――まずい。
瞬間、真横から鋭い衝撃が叩き込まれた。
ドレッドボアはその巨体が浮き上がるほど大きく吹き飛ばされ、石壁へぶつかっても止まらず、そのまま穴を空けて沈んだ。
その男の拳には――鋼鉄の拳具が鈍く輝いていた。
「初日くらいは⋯⋯と思って見に来たが、正解だったようだな」
「ドーレマン!」
リナが叫ぶ。
「まだ終わっていないぞ。全部は手伝わん。強くなりたいのだろう?」
僕たちはお互いを見て頷き合うと、すぐに戦闘へ意識を戻した。
■レトルファング:Fランク
狼のような体と長い牙を持つ魔物。単体ならまだ対処しやすいが、数が揃うと横へ散って足を噛みに来る。
■ドレッドボア:Eランク
分厚い皮と重い牙を持つ猪系の魔物。正面からぶつかられると受け切れず、そのまま体勢を崩されやすい。
■スパインローチ:Dランク
鈍い色の甲殻と背中の棘が目立つ大型虫型の魔物。壁や天井などを這って、不意打ちを狙ってくる。一体見つけたときはそこには最低でも百体は隠れていると言われている。倒れた先に群がり、生きたまま対象を貪り喰う。
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■ 魔物ランク(再掲)
Gランク:単体は害獣(野生の獣)寄り。武器を持った大人なら対処できるが、子どもや非戦闘員には致命的。集団になると、畑・街道などが荒らされ、生活が崩れる。
Fランク:単体でも未覚醒の子どもなどは簡単に死ぬ。集団になると街道・集落外れが危険地帯になる(行商が途絶えるレベル)
Eランク:単体で訓練された数人(小隊規模)を崩せる。集団なら小さな集落が機能停止する。
Dランク:単体で集落全体を守る戦力を潰せる。集団なら村は簡単に壊滅する。
Cランク:単体でも十分脅威。並の戦力では返り討ちに合う。集団になると大きめの村や街が壊滅しうる(今回のアッシュタイガ)
Bランク:単体で大きい街が簡単に壊滅する(今回のグリムリーガルタイガ)
Aランク:被害が国レベルに及ぶ。討伐は国家・大ギルド案件になる。
Sランク:国・軍隊レベルに被害。正面から止めるには戦争レベルの戦力が要る。
SSランク:国が亡ぶ。対処できなければ歴史が変わるほどの災害。
SSSランク:伝説。存在そのものが大災厄として語られる。




