第33話
踏み込んだ瞬間、足元の感触が変わった。
体が引き裂かれ、血溜まりで足を取られそうになる。
それでも僕は体の向きを小さく変え、朧差を前へ出した。
刃の上を走った『黒』が、連続して向かってくる裂け目を消し飛ばす。
全部は無理だが、それでも爪撃に合わせて振り続けることで、命を繋ぐ。
次の攻撃が来る。
右手首が悲鳴を上げ、指先の感覚がさらに薄くなる。
握り直せない。
だから動く方の左手で柄頭を押し込み、刃先の向きだけを相手に合わせる。
そのタイミングでもう一度、小太刀に『黒』を込めた。
レンはそれを見て、狙いを決めた目になる。
そのとき、エルシアが何とか体を起こし、弓に手を伸ばすが、手が自分の血で滑って掴めなかった。
「片手で引けるのか、梟」
鎖の端が跳ねて、エルシアが伸ばした指先を攫った。血が弾け、弓がまた転がっていった。
しかし、エルシアは息だけ吐いて、動きを変えた。
僕はエルシアの前に出ると、弓を持てるまで時間を稼ぐ。跳んでくる斬撃のうち、エルシアに当たりそうになるものだけをどんどん撃ち落とす。
エルシアは落ちた弓まで体を回転させながら向かい、腰の鞄から包帯を引きちぎった。
まず裂けた右手首をきつく縛り、その上からさらに布を巻いて、引くときに力が逃げないよう締め固める。
弓は左手で支える。
だが、右手の指はもう使えない。
エルシアは別の布を弦へ絡めると、右手首に引っかけるようにして位置を作った。左手と足で矢を番え、布の端を口で噛む。
顎を引き、歯で布を噛みしめたまま体で引いていく。
弓が軋む
肩が震える。
呼吸が短くなる。
矢の羽根が頬をかすめる距離まで引き絞った。
その間にも、レンが迫ってきている。
半獣の重さがさらに増し、空気が押されて息が詰まる。その直前、レンの呼吸が一瞬だけ止まった。
「俺が全てを防げば、お前たちは俺のもんだ! ≪虎相・全獣≫――!」
全獣へ切り替える前の途切れ――息が消える刹那。
エルシアがそこへ渾身の技を突き刺す。
「――今。≪断響瞬矢≫――!」
噛んでいた布を離した瞬間、弦が大きく跳ね、無音の矢が一瞬で飛んでいく。
その矢がレンの胸元の紋章の上に鋭く突き刺さった。刹那、音が切断された。
吼え声も、鎖の鳴りも、燃える音も、一息だけ消える。
静かになったからじゃない。矢のあまりの速度に、巻き込まれた周囲の空気が薄くなり、鼓膜が麻痺した結果だ。
その音速を超えた速度に、レンの踏み込みが一瞬揺れた。
前へ流れるはずの力が噛み合わず、肩の動きが遅れ、爪の軌道がずれた。
それでも簡単には止まらない。乱れたままの距離を潰してくる。
獣の本能だけで前へ来る。
「まだだぁぁああアアア――ッ!」
僕は朧差を持ち直そうとして、すでに右手が言うことをきかないことに気づく。
握れない。
力が入らない。
右手首の中心が焼けるように熱い。
同時に、胸の黒紋も熱を持っていた。
紋章の線が脈打つような感覚。それも一カ所じゃない。
左手一本で持つ朧差の纏う空気が変わった。
――辺りの煙が朧差しの刀身の周囲だけを避けている?
いや、避けるんじゃない。引き千切られている。
粉塵が細かく震え、刃のまわりで薄い輪を作って浮いた。
それが『色』だけ落として黒点になっていく。
痺れが腕から指先へ走った。
骨の内側に針を押し込まれるみたいに、漆黒の電流が何本も走り、刃の中心へと集まっていく。
朧差の刃の上を黒雷が走っている。
一本の線じゃない。
刃の縁に沿って、何本もの細く黒い稲妻が走り、刃先へ向かっては周りに帯電している。
その雷光は光らない。
光の代わりに、周囲の色を退色させている。
建物が燃える赤。周囲を渦巻く白煙。石畳の灰色。朧差の周りだけが色がなくなり、闇に包まれていく。
音が遠のいた。
燃える音も、瓦礫の落ちる音も、ロンネスの荒い呼吸も、一枚向こうへ押し出される。
代わりに聞こえるのは、刃の微かな鳴りだけだ。
雷が落ちる直前の、空気が鳴く音。
「ウウォォォオオオオゴオオオオ―――ッ!!」
獣となったレンが吼えた。
全獣の圧が大気を震わせる。
肩が盛り上がり、腕が太くなる。指が伸び、爪が刃物みたいに長くなる。
背骨の線が変わり、腰の落ち方が人ではなくなった。
「≪虎爪・破神≫――!」
全獣のまま、体ごと突っ込んできた。技じゃない。質量で潰す突進だ。
空気が押し潰れ、肺が縮む。
僕は前へ出る。二人を守る位置だ。
その瞬間、エルシアがもう一度動いた。
左手で弓を支えたまま膝を立て、矢筒から抜いた二本目を腿で受ける。弓を身体の内側へ押し込み、足先で位置を合わせながら、どうにか弦へ矢を乗せた。
弦を引く布を噛み直し、歯を食いしばって背中で引く。さっきより短い引きだ。
限界が近い。肩が震え、口元から血が滲む。
それでも、引く。
「……もう……一度……!」
まっすぐに突き出したその声に、レンの呼吸がまた一瞬だけ止まった。
エルシアは布を放す。
限界まで身体へ溜めた力が、一気に抜けた。
二本目の矢が飛ぶのと同時に、エルシアの弓が悲鳴を上げた。上木が裂け、握りの近くで木が割れ、弦が切れて暴れた。
留めていた包帯が切れ、反動でエルシアの体も横へ投げ出される。
弓が目の前で砕け散った。
それでも、矢だけは真っすぐにレンに向かって飛んだ。
二射目の≪断響瞬矢≫が、一射目の少し上に突き刺さる。
音の抜けが太くなり、全獣の出力の向きが——前へ突き進む力が行き場を失い、踏み込みが一瞬止まった。
その瞬間が、エルシアの渾身の技によって作られた。
僕は息を大きく吸う。
刃の周囲の黒雷を、一斉に刃先へと集束させる。
左腕から肩、体を全部使って、自分の体ごと小太刀を支える。
次はもうない。
――全てを賭ける。
先ほど目の前で見た最強の技を思い出せ。
グリムアッシュタイガを一瞬で殲滅した一本の神雷を。
「≪黒雷・一槍≫――――ッ!!」
巨大な漆黒の雷槍がレンに向けて横殴りに走った。
二本の断響矢が突き立てられた『間』へ導かれるようにまれるように、一直線に突き進む。
「グゥゥウオアオオオアアアウオオアアアア――……ッ……――ッ!!!」
レンはそれでも突き進もうとした。
だが、黒雷がその巨体を正面から貫き、前へ出る力ごと押し潰す。
暗い閃光に遅れて、雷鳴と衝撃が一気に来た。
煙が吹き飛び、粉塵が跳ね、周囲の空気がごっそりと引き込まれる。
返ってきた音が耳を殴り、頭の芯まで痺れが走る。
全獣の体は、その場で時を奪われたみたいに止まっていた。
技を受け止めた姿勢のまま、前へ進めていない。
爪が空を掻き、石畳を削るのに距離が縮まらない。
レンの喉が鳴り、言葉にならない唸りが漏れたが、その場で崩れ落ちた。
胸の紋章から細かな光粒が舞う。
煙でも灰でもない、肌に触れると冷たい粉のような欠片。
――紋滓。
鈍い金色が漂い、僕ら三人の傍へ揺れて寄ってくる。
僕の胸の近くで、瞬間的に色が剥げる――金が灰に沈み、灰が闇へ落ちる。黒く変色した紋滓が渦を巻き、僕の胸へ吸い込まれた。
胸の奥が、一つ噛み合うような感覚がした。
次の瞬間、黒紋の中心が脈打つように感じられ、いくつかの細い線が皮膚の下を新たに走る。
一本が二本になり、今ある黒紋の周りに枝分かれした線が少し増えた。
紋章が――変わった?
だが、体が治るわけではなかった。
肺は煤で固められたみたいに息が吸えない。右手首は痺れを通り越して感覚が薄く、肩と背中には激痛が走っている。
さっきの一撃は、何度も頼れる技じゃない。
反動が重すぎる。撃った直後は体の中がほとんど空になり、立つことすら難しくなる技だ。
膝の力が抜けたかけたとき、ロンネスが僕の腕を掴んだ。
力は弱いが、指先にかかる意志だけは強かった。
「……まだ、倒れるな⋯⋯。だが、よくやった……!」
視線を動かすと、エルシアはすでに路地に倒れていた。口元から血が出ているのが見えた。
壊れた弓の木片が散り、矢筒だけが転がっている。
自分を誇りを捨てて、限界まで僕のことを助けてくれた。
ぎりぎりで勝てたのは彼女のおかげだ。
あとは、二人を避難所まで帰す。
それがここでの最後の僕の使命だ。




