第32話
エルシアと一緒に、人影の少ない裏通りへ回った後、角をいくつか曲がったところで足を止める。
目の前の壁に、爪痕がつけられていた。
「虎の爪痕……誘導ですね」
エルシアが短く言う。
「辿れってことか」
通路の壁には爪痕が等間隔で続いていた。角を曲がっても、煤に埋もれた柱の影にでも、必ず白い線が残っている。
逆に、他の道は死んでいた。
板が倒れて塞がれ、濡れた布が垂れ下がり、崩れた瓦礫が胸の高さまで積もっている。通れそうに見えても、奥から熱い煙が押し返してきて息が続かない。
選べない。選ばせないために、街の形ごと削られている。
誘導と分かっても、僕らは乗るしかない。
止める相手が、その先にいるからだ。周辺の異質な静寂のせいで、自分たちの足音がやけに大きく感じた。
エルシアは前を見ながら、何度か耳を傾けている。
聞いているのは敵の声じゃない。人の気配が戻る方向だ。
僕らが戻る場所がまだ生きているかを確かめている。
この誘導の裏で、避難所などの別の場所を潰しに向かう可能性を調べている。
角を一つ、もう一つと曲がる。
火の匂いが薄くなり、代わりに油と鉄の匂いが混ざった鍛冶場の匂いが濃くなる。
ただ、いつもなら聞こえるはずの槌の音が一切ない。
「……静かすぎます」
エルシアが足を止めた。路地の先が少しだけ開けている。広場というほど立派じゃない。荷車が出入りするための空き地だ。
倒れた木枠、崩れた屋根材、煤で黒くなった積み荷が転がり、中央だけが不自然に空いている。
広場の縁の壁にも、爪で削ったような傷があった。
そのとき、金属が擦れる音が一つ鳴った。
煙が揺れて、音の主が浮かび上がる。
最初に見えたのは肩でも顔でもない。腰の落ち方だった。跳ぶ前の獣みたいに、静かに重心が沈んでいる。
黄に寄った髪が煤に濡れ、後ろ髪の束だけが鈍く光る。結び目が低いせいで首筋が露わになり、首から肩へ落ちる線が余計に鋭く見えた。
右目の周りには黒い線が三本、まぶたの外側から頬へ向かって走っている。爪痕みたいに細く、笑っていないのに嗤って見える。
リンドリウムに攻め入った虎紋派閥のリーダー。
――虎爪のレン。
黒い小手の上から巻かれている鎖が、見覚えのある色を放っていた。ただの金属じゃない。輪の節に乾いた黒ずみが残り、所々で輪が継ぎ足されている。長年使い倒した武器だが、今は持ち主が替わったばかりの新しさがある。
森で足首に噛みついた感触。
帳簿庫で隙間から忍び込んできた冷たい動き。
鎖の本当の持ち主はもういない。その事実が、胸の奥を嫌な温度で撫でた。
「……その鎖」
僕が言いかけたところで、レンは答えないまま鎖を床へ落とした。
じゃらん、と澄んだ音が広場の静けさに刺さる。
「屋根の上で、お前らを逃がした鎖がいただろ」
レンが口角だけで笑った。
「帳簿も取り返せずに戻ってきて、言い訳だけ並べやがった。そんなやつは要らねえ」
鎖を指先で鳴らす。輪の擦れる音が、一つ増えたように響く。
「鎖だけは残してやった。いつでも最後に役に立つのは武器だ」
仲間の紋章と遺物を奪ったということだ。
レンが片手を上げる。鎖が大きく鳴った。
この広場の空気がレンに握られたような感覚になる。
引きずられて出てきたのは、細身の男だった。
煤避けの布が口に食い込み、頬が裂けている。手首は後ろで縛られ、無理な角度に捻られていた。
「――ロンネス……!?」
薬師の体が鎖で引かれ、布越しに息が詰まる音がこちらまで届く。薬草の匂いと炉の熱が、一瞬で脳裏に刺さった。
リナの息を整えていた手。
朧差を鍛え直してくれた指先。
『家には戻るな』と忠告してくれた声。
レンは僕の目の動きを見て、鎖をわざとゆっくり引いた。ロンネスの体が石畳を擦り、血が黒い筋になって伸びる。
「やめろ――!」
自分でも驚くほど、声が低かった。
「やめろ? はは。街は燃え、人は死んでる。今さら何をやめてぇんだ?」
レンは爪先でロンネスの背を小突いた。ロンネスが声を押し殺して呻く。息がひゅうと漏れた。
「くそ、帳簿はギルドに取られ、俺には残ってるもんはもう何もねえ。たが、お前と娘の力を『上』に示せば⋯⋯何か変わるかもしれねえ」
レンの視線が僕の胸へ移る。
「見せてみろ。お前に捕まえるほどの価値があるか、俺が直接確かめてやる」
罪悪感と苛立ちが同時にせり上がってくる。
僕が逃げ続けたせいで、この街は狩り場にされたのか。
建物は壊れ、誰かが死に、誰かが泣いている。
全部、僕に繋がっている。
エルシアの声が落ちた。
「……アーテル君。あなたのせいではありません。私は鎖を狙います。相手から目を離さないでください」
エルシアが弓を引き絞る。矢先はレンではなく、鎖の一点へ向いている。
「《梟紋・返し矢》!」
「――邪魔するな、梟。弓が引けなきゃ、お前はただの鳥だ」
その言葉の直後、レンの鎖がロンネスを地面に放り、方向を変えて跳ねた。
「《虎鎖・絡め牙》」
空気を裂くように伸び、エルシアの弓を持つ腕へ蛇のように噛みつく。
金属が皮を裂く音がして、エルシアの身体が大きく後ろに弾かれた。
「――っ……!」
背中が石壁に当たる鈍い音。
持っていた弓が転がり、矢筒が軋む。指の付け根から血が流れ、握る手が震えている。
レンは笑いながら鎖を戻し、今度はロンネスを引き寄せて引きずった。見せ物みたいに、僕の視界の真ん中で。
ロンネスの体がまた石畳を引き摺られる。
「ほら、どうする? 薬師か梟か。どっちが先だ」
視線が揺れる。
揺れた瞬間に、レンの爪が光った。右腕がしなり、鋭い爪先が一本の刃みたいに立つ。
「いくぞ、《虎爪・裂空》――!」
振り抜いた爪先から、空気そのものが薄く裂けて飛んだ。
遅れて石畳が斜めに抉れ、粉塵が舞い上がる。
僕は半歩遅れて飛び退いた。あれを喰らえば小太刀の強さは関係ない。体ごと持っていかれる。
「――⋯⋯上!」
倒れたままのこちらに向けたエルシアの声。
だが、速すぎて視線を向ける前に、僕の右肩を風が抜いた。
「おらおらおらぁぁァァ! ≪虎歩・跳爪≫!」
レンが跳ぶ。距離の詰め方が獣のそれだ。
煙の合間から虎の爪が突き出てくる。
咄嗟に、僕は朧差で受けた。金属が鳴り、小太刀が大きく震える。手首が痺れ、防いだはずの衝撃が骨まで届いた。
「⋯⋯そんなもんなかのか? まだ握りが甘い」
レンが爪を引く。次の瞬間、動きが変わった。
腕と脚の筋肉が盛り上がり、指が長く見える。
瞬時に体毛が伸び、体が一回り大きくなった。
「≪虎相・半獣≫――!」
跳躍が速い。さっきの比じゃない。
もちろん防御が間に合わず、体が弾かれ、吹き飛んだ。壁に激突して、ようやく止まってくれる。
「がっ――……!」
右腕と頭から血が流れる。
視界が一瞬だけ白くなる。レンは余裕の声で言った。
「おいおい、早くしねえと薬師はもたねえぞ!」
レンがロンネスを蹴り上げる。
体が跳ね、血が混じった胃液が飛び散る。
それでも、首を僅かに振った。俺を見るなという振り方だ。
レンがそれを見て笑い、今度は狙いを変えた。
紋章ではない。僕の腕だ。朧差を握る指へ爪を振るう。
反射的に体が動くが、受けきれない。
痛みが走った。金属が鳴るより先に手から血が噴き出る。小太刀を持つ手がずれ、指が開きかける。
「ぐ――っ!」
手首が捻られたみたいに熱い。握り直そうとしても指が言うことをきかない。
「握れなくなったら、どうする?」
エルシアが折れた腕を押さえながら、地面に落ちていた弓へと這っていく。
伸ばした指に弓の端が当たるが、うまく掴めない。
それでも届かせようとしている。役目を奪われても、敵を倒す目的を諦めていない。
僕はどうだ?
今何をしているんだ。
僕は息を強く吐いた。右手が握れないなら、持ち方を変えろ。
朧差を腕で抱え、軸を左に寄せてから、小太刀へ限界まで『黒』を纏わせる。
点じゃない、刃に沿った直線――刀身全体が揺れるほどの黒靄に包まれていく。
レンの目が嬉しそうに細くなった。
「そうだ、黒。それだよ。その力、確かめさせろォォおお!! それがあれば俺はまだ⋯⋯まだお前を献上できる――ッ!」
レンが大きく息を吸う。
刹那だけ呼吸が消える――切り替え。
僕は朧差を振らないで前へ通す。
「《黒穿》――ッ!!」
刃上の黒が、一振りの直線になって飛んだ。
大気を切り裂いてレンの放った爪撃とぶつかった。
互いの軌道が僅かにずれたが、レンの攻撃は止まらない。笑ったまま、爪の裂け目を束ねてさらに飛ばしてくる。
「≪虎爪・連裂≫――!」
幾重にも重なって降ってきた。
見えない線が束になって辺りを削り、石畳や建物の壁の表面が剥がされる。
粉塵が舞い、煙が大きく散った。
何度も飛んでくる爪撃に、受けている右手が開きそうになる。握り直そうとしても、指が言うことをきかない。
それでも離さない。
離した瞬間に、守るべきものが一気に崩される。
左手で柄頭を押さえ、刃先の向きだけを真っ直ぐに保った。
「結局お前のその力はそんなものなのか。これで終わるなら無価値だ」
エルシアが起き上がろうとしている。
血で濡れた右手が震え、指が攣って弓を掴めていない。だから左で弓を寄せる。無理な角度で弦を引こうとして、肩が歪んだ。
レンの鎖が跳ねる。
金属が石を叩き、跳ね返った端がエルシアの指先を掠めた。血が弾け、エルシアが弓を落とした。
「っ……!」
叫ばない。
叫べば僕の目が逸れると分かっている声だ。
「ほら。どうする。仲間が壊れるぞ」
爪が引かれる。
再度、裂け目が束になって降ってくる。
レンは笑いながら息を吸い――刹那だけ呼吸が消えた。
その瞬間が視えた。
獣と人の境目。命令が切り替わる短い癖。
もう一度、僕は朧差の刀身へ力を集めていく。
刃の上を走る、煙のように流れて揺れる黒。
僕は一度だけ息を吐いた。腹の奥で決める。
――ここであいつを止める。この結末はレンには渡さない。
逃げるためじゃない。守るために前へ出る。
レンの口元がさらに歪んだ。
「いいぞ、来い!! 見せてみろ、黒ぉぉぉォォオオオ!!」
連続で爪の裂け目が降り注いだ。
レンが全てを打ち終わったときに、体が引き裂かれながらも前に踏み込んだ。




