第31話
路地の向こうで、深紅の巨体が首を上げる。
さっき見たアッシュタイガと同じ『虎の形』でも、その存在は全くの別物だった。その証拠でもないが、周囲を巡回していたアッシュタイガの群れは怯えたように散開し、どこかに消えていった。
グリムリーガルタイガの口へ煙が一気に吸い込まれていく。この空間の大気がごっそりと持っていかれる。
熱が来る――そのとき、腕を掴まれて大きく引かれた。熱線の危険から外してくれる助け。
「……やっと見つけた。そこは攻撃の通り道になるよ」
フードの女――カスミの声だった。
落ち着いているのに温度がない。焦らないんじゃなく、焦る前にやるべきことを行う声だ。
僕とエルシアはそのまま石と鉄が重なる狭い一角に押し込まれる。
「カスミ……? どうして」
「出口で待ってた。けれどいつまで経っても出て来ないから探した。……で、最悪な事態」
言い切る前に、カスミは路地へ出た。
正面からグリムリーガルタイガを見る。といっても、手が届くような距離じゃない。
だが、カスミにとって止めるには充分な距離だった。
その間に、もう一人が屋根の端に降り立つ。
白に近い金髪、同色の両眼。体を纏う紫の電気の膜が、肩から腕、胸、背へと輪郭に沿って走った。帯電している乾いた音がこちらにまで届く。皮膚の表面だけを撫でるように、紫の電が途切れず動いている。
空気が薄く痺れ、産毛が一斉に立った。
彼は動かずにグリムリーガルタイガを見下ろして言う。
「なんか普通の個体よりでかくない?」
軽い声。けれど視線は逸らさない。
シヴァは巨体が息を大きく吸い始めるのを見て、口元だけで笑った。
「放っておくと、街が燃えそうだ」
グリムリーガルタイガの吐く熱息の溜めが見える。動くときの圧だけで路地の石壁が軋んだ。
その瞬間、カスミが手を上げて言った。
「シヴァ、綴じる。漏らさないでね」
命令でも頼みでもない。
上空は雲のように煙が覆い、そのせいで日光が少ないが、カスミの周りの影だけがどんどん濃くなる。
黒く、重く、光を押し返すみたいに暗闇が広がっていく。
まるで意思をもっているかのように、その影は地面を這い、壁を走り、巨体の足元へと潜り込んだ。
一本――いや、十本――さらに、どんどん増えていく。
黒糸のような影が、四方から束になって獣の体へ結びつき、巨体の体躯に絡む。
後脚、足首、胴体、首元、尾の付け根——逃げ道になりそうな関節から先に縛る。
「《影綴》」
カスミが息を落として言う。
黒い影糸は締まるのではなく、地面と巨体を凄まじい速度で縫い合わせる。巨体の輪郭ごと、無理やりその空間に縛られていく。
「グルゴォォォォォオオオオオオオオオ――――ッ!!」
巨体が吼えた。地の果てまで届きそうなくらいの圧力。
吼え声の風圧で煙と空気が大きくぶれる。近隣の建物の壁がびりびりと音を立てて埃を落とす。けれど、カスミの《影綴》からは出られない。
尾が大きく振れ、いくつかの影糸は簡単に弾け飛んだ。
しかし、切れた糸はそのまま闇に溶けるように消えると、また別の糸が伸びてきて弾かれたところを塞いでいく。それも、相手の動きにあわせて百本、二百本と、細い影が追加されていく。最初から逃がさない形に縫い綴じていく。
ズドォォオオオオン――……
グリムリーガルタイガは前足を振り上げて抵抗しようとしたが、そのまま路地の石畳へ倒れ込んだ。
衝撃が腹の底まで届く。
カスミの肩が少しだけ沈んだ。押さえ込むというより、影の縫い目が裂けないように、力を流し続けている。
「もっと暴れられたら、縫い目が裂けるかも。一回でお願い」
「了解。単騎集中でやるよ」
剣は抜かない。詠唱もしない。
けれど、空気だけが一段と震え、ここにいても肌が細かく痺れてくる。
煙が白く裂け、空が見える。
紫の輪が一つ、シヴァのはるか上空に浮かぶ。
もう一つ、高さを変えて大小異なる輪が重なる。さらにもう一つ、どんどん輪が増えるほど大気を震わせる雷輪が展開されていく。
眩しさじゃない。重さだった。
見ているだけでその圧に、体が勝手に震えそうになる。
その輪の数が十を超えたあたりで、体が頭より先に「ここから逃げろ」と警笛を鳴らした。
シヴァが指を折った。
何重にも折り重なった雷輪が左右に回り始める。
輪の中央に紫電の柱が立ち上がり、その中心へ力が集まっていく。
空間そのものが一本の巨大な雷へ変わっていく。
そして、その巨大な雷柱が空から一直線に降り注ぐ。
「≪紫電・一極≫」
雷が全てを押し潰した。
雷の柱が一筋――《影綴》の中心へ落ち、巨体の背を突き刺した。
あまりの衝撃で、路地の石畳が大きく沈み、壁の木材が一斉に鳴り響いたときには、周辺の粉塵が噴き荒れていた。
巨体の前足が跳ね、その上がったまま硬直した体が堕ちる。
その拍子に爪が路地を裂いたが、そのまま固まり踏み込めない。
グリムリーガルタイガの内側を帯電していた電流が外側の毛皮へ伝わり、獣が焼ける異臭がここまで届く。
「グラァァォォォ――……ォォ――……」
巨体の吼え声が、途中で潰れた。
喉が鳴るだけで声にならない。肺が押し潰されて息を吐けない。
グリムリーガルタイガの体内から出ていった眩い白光の電撃が消えていく。
数十秒後、路地の真ん中に残ったのは、黒い焼け跡と薄い灰だった。さっきまでいたはずの超大型の魔物が、嘘みたいに消滅した。血も肉も、形を残さず焼き消えた。
その地面に残されたのは、人の頭ほどある大きな朱色の魔核。その表面には金色の紋章が煌めいていた。
空間がゆっくりと元に還り、煙は空を薄く覆い、街の音が戻ってきた。
シヴァが肩を回し、屋根の端で周囲を見渡す。次の危険を探す目だ。カスミが言う。
「依頼されていた魔物というより、そのボスは討伐した。でも終わってない。盤を動かしている者がまだいる。そっちは依頼受けてないから貴方に任せるけど、行ける?」
僕は朧差の柄を握り直した。避難所のリナをはじめとした避難民の人たちが浮かぶ。
まだ終わっていない。
「行く……虎爪のレン」
エルシアが頷く。
「はい。あの人を止めないと、また同じことが起きます」
シヴァが屋根の上で笑った。
「他の雑魚は僕らで片付けるよ」
「……わかりました。お願いします」
エルシアがそう返すと、シヴァとカスミは煙の中に静かに消えていった。




