第30話
「こっちです」
エルシアが耳を頼りに先へと進む。
大通りを抜け、崩れた壁の陰を選びながら、空いている路地を縫う。
煙の濃い場所は避けない。むしろ、煙に紛れたほうが見つかりにくいからだ。
背中にリナがいないと体が軽い。
それは当たり前なことなのに、避難所にいるリナを思い出すと何だか胸の奥が重かった。熱と震える息だけが、まだ肩に残っている。
路地を抜けた先で、さっきまで厚かった煙がいきなり薄くなった。
ここだけ炉の息が弱く、風が道の奥まで抜けている。その切れ目に、人影が立っていた。
細い笛を口元に当て、こちらを見ている。
目だけが妙に静かだ。
見つかったことに焦りもない。最初から「ここで終わる」とすでに覚悟を決めている人間の目だ。
エルシアが一歩前へ出る。
何をしでかすかわからない危なげな男を、刺激しないよう、弓を構えずにいる。
僕も男の正面ではなく、逃げ道を塞ぐ位置で止まった。近づきすぎると、男が不意に攻撃に転じたときに対応できない。
「笛を下ろしてください。下ろせば――」
「今下ろしても、俺は死ぬ」
男が被せて笑った。乾いた声だった。喉が掠れ、笑い声の途中で、咳き込みそうなほどの儚さがある。
「レンは……失敗を許さない。だから俺は、先に自分の手で役目を終わらせる」
言葉の意味を遅れて理解した。
捕まえられたら、価値がある駒じゃなくなる。リンドリウムを攻めた計画の証拠にもなり得る。
つまり、僕らと相対した時点で味方から『回収』じゃなく、『処理』の対象。だから、この男には帰る道も場所もないのだ。
僕は距離を詰めかけて、止まった。
笛を折れば終わる。そう思っていたのに、男の顔は「助け」を求める顔ではなかった。
むしろ、僕らを見て少し安心したように見える。
――最初から僕たちを待っていた?
男は笛から口を離し、腰の小袋へ手を突っ込んだ。手の動きが荒くなく、落ち着いている。
出てきたのは、小さな灰の塊だった。
黒く固まった炭のような鉱石。中心部だけが鈍く赤い。炎になる直前で冷え固まったような色で、表面が乾き切っている。
ただの鉱石ではないことは見ただけでわかった。
その石は何か強い威圧感を感じるほど、異質なものに見えた
「……それは何だ」
僕が聞くと、男は肩をすくめるだけ。笑い声は軽いのに、目は笑っていない。
「命をかけるときだ。やつを引っ張る」
その言い方と覚悟の目にぞっとした。
引っ張る、という言葉が「呼ぶ」よりずっと嫌な音として頭に響く。無理やり引きずってくる感じだ。
男の視線が一瞬だけ逸れた。逃げ道じゃない。屋根の線だ。上から見ている誰かを意識している。
おそらくこの盤上を見ているレンだろう。
エルシアが声を落とす。
「……あなたは、最初から戻る気がないのですね」
「ああ、戻れねえ。だったら、でかい花火で終わらせてやる。この街ごとな」
「――やめろ!」
僕が踏み込む。最短最速の居合い斬り。
だが、ほんの一瞬男のほうが早かった。
灰の塊を石畳へ叩きつけられ、乾いた音が一つ鳴った。
粉々になって広がるのに、その灰は風に乗らない。散るどころか、地面に吸い付いて泥のように広がる。
地面に黒い膜が張られたように、集まって固まっていく。
突然、周りの煙が吹き荒れた。路地の空間がびりびりと振動してくる。
何かが来る――?
喉の奥が乾き、呼吸が浅くなる。胸の奥が圧迫され、息が吸いにくい。
男が笛を口元に戻した。
「――来い。俺を喰え。《生贄召喚》」
吹いたのは短い合図じゃない。長い息を引きずる、不協和音だった。
笛の音が伸びるほど、男の輪郭が薄く、崩れていく。体がじわじわと灰へ変わっていく。
指先から先に力が抜け、腕全体が震え、それでも男は笛を離さない。笛を噛みしめて吹き続ける。
喉が震え、最後の息が漏れた。
「……これで……足り……」
男の声が途中で終わった。
倒れたわけじゃない。人ひとり分の灰が、その場に残った。血は出ない。骨も残らない。ただ、灰だけが残る。代わりに周囲の空気、プレッシャーが一気に重くなった。
エルシアが唇を噛む。
「……呼び終わりました。もう止められません……」
言い切った直後、地面が大きく震えた。
ドォォオオオオオオン――。
石畳が沈む、重い一歩が聞こえた。
ドゴォォォォオオオオオオオオオオン――。
次の一歩は、さらに近い。群れじゃない。単体の圧だ。
近づくほど街の音が薄くなる。叫び声も瓦の落ちる音も、全部が遠ざかっていく。
辺りの煙が割れ、頭部が見えた。
建物の二階の窓の高さを超えている。首が動くだけで、家並みの影が大きく揺れる。
肩が動くだけで壁が擦れ、石が砕け散る。前脚を置いただけで地面が沈み、路地の形が歪んだ。
その全貌を見た瞬間、背筋が凍った。
勝てる、負けるという以前の問題だ。これは戦いじゃない、災いだ。
「B……ランク……」
エルシアの声が震えた。梟紋の耳が拾っているのは足音だけじゃない。骨の軋み、皮膚の擦れ、呼吸の重さ――その全部が「ここにいてはいけない」と警告を鳴らしている。
「――グリム・リーガルタイガ」
溶岩を流し込んだような深紅の毛並みが、ゆっくりとうねった。
路地の向こう、崩れた石畳の中央に、巨大な虎が腹を低く落としている。あの体の下に影ができるだけで、周囲の空気が暗くなる。
目が合った、と思った。
違う。見られた。僕という存在が、ただの道端の石ころとして視界に入っただけなのに、心臓が勝手に縮む。
グリム・リーガルタイガの胸が一度、大きく膨らむ。
息を吸うだけで、路地の煤が吸い寄せられ、煙が一本の筋にされる。吸われるのは煙だけじゃない。熱も匂いも、息も、意識も持っていかれそうになる。
次の瞬間、吐き出された熱息がこの空間全域を走った。
直線の熱が、街に滞っていた煙を一方向へ引き裂く。灰が巻き上がり、瓦礫の軽い破片が地面を滑って転がる。
火の粉が飛び散り、石壁の表面が赤く光って溶けた。あっという間に路地の木が真っ黒に焦げ、直撃を受けた建物が音もなく崩れ始める。
僕たちはとっさに隠れた。
遮蔽物の後ろにいても、ここまで熱が届いてくる。
僕は反射的に朧差を握り直したが、何が変わるわけでもなかった。ただ、手を離したら心が折れてしまう気がした。
――逃げるか、守るか。この魔獣から守る力があるのか?
考える猶予はもう残っていない。
ここで一歩でも遅れたら、避難所のほうまで熱が伸びる。リナがいる場所まで、路地が繋がっている。
そのとき、空気が薄く痺れた。
金属が焦げる匂いが落ちてくると同時に雷鳴が轟く。
皮膚の上に見えない針が立つみたいに、全身がざわつく。
――来る。
僕が顔を上げた瞬間、煙の空が白く裂けた。
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