第19話
言われていた通り、帰り道は別ルートで帰った。
ようやく慣れた匂いが濃くなってくる。煤と油の匂い、熱い炉の残り香――それだけで、炉の街リンドリウムの街中に戻れたことがわかった。
見覚えのある低い建物が立ち並ぶ区画まで戻る。あの一画の路地裏の奥にあるのが、薬師ロンネスの店だ。
僕はロンネスの店の板戸の前で、短く息を吐いた。
手が震えているのは寒さのせいにしたかったが、たぶん違う。
ここまで帰ってこれて、ようやく――生き残った実感が湧いてきたのだ。
最後、あの雷光に包まれた余韻が、まだ意識の底に混じっている。死ぬかも知れないという恐怖。
板戸を押すと、油と薬草、煤の匂いが一気に濃くなる。鍋の煮える小さな音まで、やけにはっきり耳に戻ってきた。
「……やっと帰ったか」
ロンネスは奥の台で、何かを煮詰めていた。火は小さく、鍋の縁だけが赤い。こんな時間まで待っていてくれたのだろう。
僕の姿と顔を見るなり、鼻で笑う。
「――雷か?」
「うん、……死にかけた」
「まぁ、こうして生きて帰れてよかったじゃねえか」
ロンネスの言い方は淡々としていて心配の形はしていない。だが、鍋を火から外す動きだけが妙に早い。
棚から布を出してお湯に浸してから、投げてよこす。
「体についた血と煤、落とせよ。家が汚れる」
僕は黙って頷き、体を拭いた。視線が自然と奥の寝台――リナの方へ向く。
毛布に包まれて、横向きに寝ている。血の気はまだ薄いが、呼吸は一定で、熱に浮かされるような荒さはない。明らかに回復してきている。
僕が見ているのに気づいたのか、ロンネスは肩をすくめる。
「まだ完全じゃねえが、もう大丈夫だろう」
「……行く前より、落ち着いてる」
「落ち着くのと治るのは別物だ。火が消えたあとも、まだ熱い灰が残ってることもあるからな」
妙に格好つけた、的確な言い方だった。
「それで、ギルド側の用は終わったのか」
「ロンネスから預かった袋は渡した。……カスミって人に」
「あぁ……あいつか。まともに顔を見たやつがほとんどいねえっていう」
カスミのことを知っているようだ。
僕の場合も、顔が見えたというより、輪郭を少し拾えた程度だった。あのときの印象では、人間ではなく――いわゆるエルフと呼ばれる存在のように思えた。
ロンネスは水差しを手に取り、僕へ投げるように渡した。
「飲め。喉が渇いてるだろ」
「⋯⋯ありがとう。それで、ロンネスはあの雷――シヴァって人のことを知ってる?」
僕は水で喉を潤しながら尋ねる。
「……お前が知らんことが驚きだ。この辺であいつを知らんやつはいない。とんでもなく強い――雷紋のシヴァっていうAランク冒険者だぞ」
ロンネスが呆れたように言う。
「あいつが動けば、街の連中が変化に気づく。お前らみたいな逃亡者が一番嫌うやつだぜ」
カスミの言ったことと繋がる。僕は水差しを置き、息を整えた。
――運よく見逃されたんじゃない。
こちらから価値を示して、雑に扱うほうが損だと思わせた。
――そういう関係を、とりあえず築けたということだ。
少なくとも当面は、それが僕を守る盾になる。
「安心しろ。あいつに会って生きて帰ったなら、当面はギルドの線は大丈夫ってことだ。だが、同時に、虎の追手には気づかれただろうな」
言い終えると、ロンネスは窓の方を親指で差す。
「――見たか?」
「何かあったの?」
僕はそっと窓を開け、隙間から街を覗いた。夜の灯りは多い。炉の火が、あちこちで生きている。
だが――以前より情報が増えていた。路地の角、壁、鍛冶場の柱。
もともと粗い木札は貼られていた。逃亡者二人、という文言も見覚えがある。
ただ、他にも新しい札が増えている。
「……虎が動いた?」
僕の声が低くなる。
「そうみたいだな。雷のほうは、視察の依頼だっただろう。だが、虎のほうの目的は、回収・狩りだ。――追い方が全然違う」
おそらく、この街にいることがバレたのだろう。あるいは、追手の目がここまで入ったのは間違いない。
「お前がここにいる痕跡をなるべく消すしかない。嬢ちゃんのもだ。朝になれば、もっと嗅ぎ回るやつが来るだろう」
僕は黙って頷いた。
仮に純粋に薬師の店を訪ねる客だったとしても、違和感が重なれば、それが情報と結びつくだろう。
「……放っておくと街に面倒が増える。対処しないとな」
ロンネスは手を止めずに続ける。
「この街で直接的に紋狩りが始まってみろ。街はめちゃくちゃだ。それは街側もギルド放ってはおかないだろう」
寝台の方で、リナが小さく息を吸い直した。ロンネスがすぐに様子を見に行き、額に触れる。
「……これならもう大丈夫だ」
その言葉だけで、僕の胸の奥が少し暖かくなった。
今日は本当に疲れた。このまま僕も休ませてもらおう。
そう思っていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。




