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第20話

  

 目を覚ましたとき、最初に耳へ入ってきたのは鍋の中で薬湯が小さく鳴る音だった。


 コトコトと、木の柄が鍋の縁に当たる。

 火の爆ぜる気配。薬草の青い匂い。煤と油の匂い。焦げた鉄の匂い。


 それらが混ざり合って、まだ眠っている頭をゆっくり現実へ引き戻してくる。


 煤けた窓から差す朝の光は明るいのに白くない。

 炉の街の朝は光の中に薄い灰が混じるせいで、世界の輪郭が少しくすんで見える。


 それがなぜか落ち着く。


 ――ロンネスの家。


 思い出した途端、喉の奥がひりついた。

 昨日、焼けた空気を吸い込みすぎたせいだ。


 肩と脇腹の痛みが、遅れてじわりと広がる。

 息を吸うだけで、体の内側がまだ生きていることを教えてくるみたいだった。


 上体を起こしかけて、僕は止まった。

 先に確かめたいものがあった。


 寝台の方へ目を向けようとした瞬間、声が飛んでくる。


「起きた? ……顔、まだつらそうだけど。戻ってこれて良かった」


 リナはもう起きていた。


 寝台の端に腰かけ、髪を一つにまとめ、袖をまくって薬草をより分けている。

 頬の赤みは少しだけ残っているが、目に芯があった。昨日までの熱に曇っていた目とは別物だ。


 その隣でロンネスが鍋をかき混ぜていた。

 リナが揃えた束を受け取り、迷いなく鍋へ落とす。


 二人の動きがうまく噛み合っている。

 息が合っているというより、薬草を選び、渡し、煮るまでの流れが最初から出来上がっているみたいだった。


 僕は一瞬だけ、状況が飲み込めなかった。

 リナは薬草の束を置き、僕の方へ寄ってくる。


「リナ……大丈夫なのか?」


「少しなら大丈夫って、ロンネスに言われた。ほんとはもっと動けるって言ったんだけど、そこは止められた」


「もっと動けるって言うやつほど、すぐ倒れるんだ。座ってやれ」


 ロンネスが鍋から目を離さないまま言う。

 ぶっきらぼうだが、言い方に迷いがない。


 リナは僕の横に座ろうとして、薬草の束を一つ落としてしまった。

 慌てて拾い直す指先が、まだ少し震えている。


 それを見る限り、無理をしてでも動こうとしているのは明らかだった。


「また熱が上がったら面倒だ」


「面倒って言い方……」


「本音だ。心配って言い換えてもいいけど」


 リナはほんの少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「少しうれしい。昨日までは笑う余裕すらなかったから」


 そう言ってから、リナは唇を引き結んだ。


 こんな風にしっかりとリナと会話したのは、もしかすると出会ってから初めてかもしれない。


「お前はよく戻った。あの状態からここまで起きられるなら、運も根性もある」


 ロンネスはリナの方を向いて言い切る。

 褒め言葉の形をしているのに、甘やかしの響きはない。


「根性だけは村にいたころから鍛えてる」


 リナはそう言って笑うと、薬草を束ねてロンネスへ渡した。

 一連の手つきが、思ったより慣れている。


「それ、どこで覚えたんだ?」


 僕が尋ねると、リナは当たり前みたいに首を傾げた。


「ローイン村で。村の女の人たちの手伝いをしてたから。干すのとか、選ぶのとか、買い出しとか。……あと、煮るときの火加減を見るのが好きだった」


 買い出しの帰りに攫われたと言っていた。


 その後、競り場での父の死。

 母親の話は出ない。


 もしかすると――。


 ローイン村という言葉が出た瞬間、リナの目がほんの少し遠くなった。

 だが、すぐに戻ってくる。


 その速さが逆に胸へ刺さった。


 考え事から戻るのが早いのは慣れているからだ。

 痛いものを長く見つめると、自分が崩れることを知っているからだ。


 僕は何も言えなかった。


 代わりに、起き上がって桶の水を替え、椀を洗い、床の灰を払う。

 ただの生活の動きをできる限り丁寧にやる。


 そういう小さなことが自分たちがまだ生きているのだと実感させてくれた。


「水、飲む? さっきから声、少し変」


 リナが木椀を持ってきて、僕へ差し出した。

 自分の分ではなく、僕の分だ。


「リナこそ飲んでるか? 自分を優先してくれ」


「私はあとでいい。アーテル、起きてからずっと顔色悪いから。さっきも桶の水を替えてるとき、ふらついてた」


「……見てたのか」


「分かるよ、そのくらい。ロンネスから少し聞いた。昨日無茶してた人が、朝からいきなり元気なわけない」


 見透かされて、僕は黙って木椀を受け取った。


 一口飲む。

 水が冷たい。

 喉の違和感が少しだけ引いた。


 リナはその様子を確認してから、今度は自分の木椀へ水を少しだけ注ぐ。

 リナも喉を落ち着かせるように、ゆっくり飲んでいた。


 その横でロンネスが小さく言う。


「起きて動くなら、薬は後だ。まず水からだ。胃が起きてねえうちに入れると、余計にむかつくからな」


 リナが僕を見る。

 まるで「ほらね」と言いたげな目だった。


「正直言うとリナは前にいた弟子より手際がいい。段取りが見えてる」


「それって褒めてるの?」


 リナがきょとんとした顔で問う。


「半分はな。残り半分は調子に乗るなって意味だ」


「……弟子、いたんだな」


 僕が思わずそこに引っかかると、リナがまた少し笑った。


 体だけじゃない。

 心も昨日より明らかに戻ってきている。


 それにしてもロンネスに弟子がいたというのは意外だった。

 見た目の印象にはまったく合わない。


____


 昼前になるころには手伝いも一段落した。


 リナは寝台の端から床へ降り、足先で冷たさを確かめるみたいに慎重に立つ。

 ふらついてはいないが、まだ万全じゃない。


 それでもしっかり立とうとする意地が、顔に出ていた。


 リナがわずかにむっとして、僕を見る。


「アーテル、言って。大丈夫だって。そういう顔してるとこっちまで不安になる」


「……はぁ。立つのは大丈夫だろう。でも、歩き回るのはまだ早いんじゃないか?」


 リナは少し離れたところで残りの作業をしていたロンネスを見た。


「……また半分だけ正解って顔してる」


 ロンネスは聞こえていたのか、椀を差し出した。

 当然のように苦い薬が入っている。


「飲め。今日はこれ1回でいい。その代わり、とびっきり苦いぞ」


 リナが露骨に顔をしかめる。


「……うわ。匂いでもう分かる。これ、今まで飲んだ中でも一番だめなやつ」


「だめじゃねえ。良薬は口に苦しって言い伝えがあってな。お前が欲しいのは味じゃなくて回復だろ」


「それはそうだけど……せめて、もうちょっと人が飲むものっぽい味にできないの?」


「できるぞ。材料を変えればな。ただ、高いぞ」


 ロンネスに言われて、リナは一瞬だけ唇を尖らせた。

 たが、結局椀を受け取って飲み切る。


 苦い顔で鼻にしわを寄せて、それでも最後まで。


 戦う強さとは違うのかもしれない。

 でもリナは、痛くても、怖くても、自分の足と意思で動こうとする。


 たぶんそれはローイン村で身につけた生き方だ。


 飲み終えたリナが目だけでこちらを見て小さく言った。


「……どう。ちゃんと全部飲んだ」


「えらい。文句を言いながら最後まで飲めるんだな」


「文句は言うよ。だって、すごいまずい。アーテルも飲む?」


「遠慮する」


 リナは少しだけ得意そうに頷いた。


 こういうやり取りができること自体が、今までの僕たちの境遇を考えると少し不思議だった。


 ギルド側は少なくとも当面は敵ではないはずだ。

 あとは、競り場勢力と虎紋の派閥がどう動くか。


 まだ何も終わっていない。


 それでもこの部屋には小さな息継ぎみたいな時間があった。


―――――


 夕方近くになってロンネスが僕を呼んだ。


「アーテル、裏にちょっと来い。少し見ておく」


「……見ておくって何を?」


「いいから来い」


 家の裏手。

 煤けた壁に沿ってロンネスについて行くと、背は低いが奥行きのある建物があった。


 中へ入った瞬間、空気が変わった。


 薬草の匂いは薄い。

 代わりに、鉄と油と炭の匂いが濃い。


 壁には火箸、槌、小さな金敷き、整った工具。

 奥には小炉があり、灰が積もっているのに、道具はどれも手入れされていた。


 倉庫ではない。

 今も使っている場所だ。


 ロンネスは作業台の前に立つと、顎でだけ合図した。


「小太刀を出せ。鞘ごとだ」


 鞘を握った瞬間、あの夜に走ったひびの感触が指先の奥で嫌なほどはっきり蘇った。




読んでいただき、ありがとうございます。

ブックマーク等いただけると、大変励みになります。

今後ともよろしくお願いいたします。

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