第2話
静かな森の中だった。
つながれた鎖を少し動かされただけで、足首に激痛が走る。
肌に巻きつく鎖はひどく冷たくて、その冷たさは骨まで染みるようか気がした。
その一方で、胸の黒い痕はじわじわと熱を持ってくる。
視界はまた狭くなり、色も薄れていった。
森の景色は、雑に色を塗った絵みたいに見える。
葉の緑も、土の茶も、男たちの服の色も、全部が塗り潰したようだった。
だが、その輪郭だけは、はっきり見えていた。
視界が狭まると同時に、頭がふらつき、意識が遠のきそうになる。僕は無理やり深呼吸をする。
呼吸と一緒に、視界の輪郭が少し元に戻る。
『鎖……落と……せ』
落とせ? 戦えということか。
頭の中で発した自分の声が、やけに遠くに感じる。
『⋯⋯一点』
先ほど鎖の一部が、一瞬だけ色を変えた。あれは無意識だった。それを自分の意思でやる――もちろん、やり方の説明なんてない。
内側の声の『一点』だけ。そこだけを潰すという意味なのだろうか。
「おい⋯⋯こいつ、何か隠してるぞ」
大男が前に出て、腰の剣に手を伸ばす。表情は笑っているのに、眼光だけが冷たく鋭い。
「面倒になる前に――」
「――ちょっと待て」
鎖男が制した。大男よりやや立場が上なのかもしれない。鎖男の目は情けも優しさも何もない。
ただ損得と値札だけで世界を見ている。
僕の命の価値を測っているところなんだろう。
「こいつは『紋崩れ』の未覚醒だ。未覚醒を殺るとかなり面倒なことになるのは知ってるだろ」
鎖男が吐き捨てるように言う。
「崩れていても普通ならだいたい分かる。だが、こいつの紋章はそれ自体、俺は見たことがない。不明紋だとしたら、不吉の象徴だ」
「ふん……じゃあどうする?」
大男は答えを待たず、こちらへ向き直ると全身に力を入れた。その途端、大男の背中がぞわりと逆立ち、二回り以上膨れ上がったように見える。
恐怖でしゃがみ込みそうになった、そのとき――。
森の奥から、別の足音が近づいてきた。
目の前の二人の荒っぽい足取りとは違う。音は少ないのに、空気の重苦しさがこちらまで押し寄せる。まだ遠いはずだが、言い表せない圧だけが先に届いていた。
『……逃……ろ……!』
電光のように鳴り響いた内側の声は、さっきより低い。その低さが、別種の危険を主張してくる。
数秒後、木々の隙間から現れたのは、人じゃなかった。
いや、人の形はしている。
だが、背中から肩にかけたラインが獣を思わせるほど力強い。肩口には薄い黄毛のような揺らぎが見える。
目の奥には金色の光が灯っていた。
右目の外側から頬骨へかけて、爪の跡のような黒い線が三本走っている。その線のせいで、無表情でも口元が少しだけ吊り上がって見える。髪は短めで、黄に寄った黒――濡れた毛皮みたいな色。
革の上衣は体に沿っていて、肩だけは別の革でさらに固めてある。
両手には黒鉄の籠手がはめられている。
武器というより、獣の牙を外へ出したみたいな装備だ。
大男が急に姿勢を正した。鎖男も口元を引き締めて直立する。
二人とも、さっきまでの粗雑さが消えていた。獲物を見る目から主人を見る目へ――従順さと恐怖が混じった目に変わる。
獣そのものの威圧感を纏うその存在は、僕の胸の紋章を一瞥して言った。
「ふん、『紋崩れ』か。……だが、何だお前は……?」
空気そのものが震えた。
男はただ立っているだけなのに、それだけで呼吸が止まりそうになる。野生の狂獣と相対したときの恐怖が、理屈抜きで胸を押し潰してきた。
「俺は虎紋が一人、レンだ」
名乗りは短いのに、場の空気一帯がレンのものになったかのようだった。
「未覚醒の『紋崩れ』……おまえら、こんな餌を拾って喜んでいたのか?」
レンが二人の男を見下ろす。鎖男は即座に頷きかけ、慌てて言葉を探した。
「いえ、俺の鎖を……一瞬だけ鈍らせました。まだ覚醒すらしてないガキですが――」
「――黙れ」
短く、鋭い声。
鎖男が言葉を飲み込み、大男も笑みを消した。
「次の計画まで遊んでいる暇はない。必要なのはすぐに使える強者のみ。そう言ったよな――?」
金色の瞳が、男たちを真正面から捉える。
「こんなガキを一人狩っても何の意味もねえ。ガキは育てた後、使うか殺すか――だ」
レンの目が金色に光る。
「いや、もう一つあったな。――今すぐ遊ぶか」
一気に死の恐怖が襲い、吐き気がこみ上げた。
「い、いやだ……」
声が掠れる。
「や、や、やめろぉおおお……!!」
大男が腹を抱えて笑った。
「はーはっはっ!! やめろぉーだってよぉー!」
鎖男が鎖を大きく引く。足首が引きちぎれそうになる。
痛みで涙が滲みそうなのに、泣いたらもっと笑われる気がして歯を食いしばった。
怖い。身体が震える。情けない。悔しい。
それでも息を吸った。肺が悲鳴を上げる。吸わなきゃ、次の一歩が出ない。
視界の端から全体が一気に薄くなる。
森の色が塗られたものとして見える。
鎖の銀色も、男たちの赤茶も、レンの金色の目さえ、ただの塗料みたいに感じた。
『鎖』『一点』『黒』『足』『紋』
『――潰せ』
途切れ途切れの指示。
――何なんだ、これは。いったい、何でこんなことになってる。
僕は混乱の中で、生きるために足首の鎖へ意識を向ける。これさえなくなれば、逃げられるかもしれない。
鎖の一番邪魔な一点を探す。欲張るな。全部を消そうとするな。ここを外せば、逃げられる。
その一点のみ。
胸の黒痕が強く滲む。指先が冷たくなる。体温が奪われていくみたいに。凝縮された黒点を、落とす。
黒がじわりとそこだけを塗り潰した。
狙った鎖の要の部分は色を失い、黒く沈んで最初から無いみたいに、バキッと砕け散った。
「――っ!?」
鎖男が目を見開く。足首を拘束していた感覚が消え、一気に解放される。だが、同時に痛みが押し寄せた。脚に力を入れると血が噴き出す。
それでも、僕は走った。
膝が崩れそうになる。視界が揺れる。だが、逃げるためには走るしかない。
「……おもしれぇ。おい、あのガキを捕まえた方には褒美をやる。――早く行け」
森が揺れる。背後で枝が無造作に折れる音が連続で追ってくる。
『左……斜面』
内側の声は冷静すぎるほどに指示を飛ばしてくる。
僕は言われるがまま木々の間を縫って走った。呼吸が持たない。喉が焼ける。
足首の激痛で頭が狂いそうになる。
背後で、風を裂く音。
鎖だ。別の鎖が空気ごと裂く刃みたいに鋭い一閃で飛んできた。
向かいの大木の幹が縦に削られ、樹皮と枝葉が爆散する。破片が頬を掠めた。
痛みより先に、恐怖が来る。あれに当たれば――終わる。
『連……ぞく、続け……るな』
それは僕自身も分かっていた。あれを使うと、一気に意識が遠のく。
今の僕には、まともに扱える力ではないのだろう。
だが――背後の殺気が近い。
地面の泥に滑り、前方へ転びかけた。視界が白くなる。次の瞬間、背筋がぞわっと寒くなった。
――来る。
反射的に防御姿勢をとる。何かが、ものすごい衝撃で両腕にぶつかった。
あの大男の腕。振り向くと、やつは笑っていた。勝ち誇った顔で。
「捕まえ――」
言い切らせなかった。
僕は掴まれた大男の腕の色を見る。そこだけ。一点だけ。欲張るな。
黒を一滴だけ――落とす。
「…………………………は?」
次の瞬間、大男の前腕のど真ん中が――最初からこの世界に存在しなかったみたいに消滅した。
血が遅れて噴水みたいに吹き出し、悲鳴が森を裂いた。
「ギ、ギャァァぁぁああああッッ――――!!!」
その怯んだ一瞬が、命を繋ぐ。
無我夢中で走った。走って、走って、走って――。
足が限界を迎えたところで、視界が暗転した。
暗闇の底で、何か声が聞こえた気がした。
それが現実なのか、錯覚なのか――僕には分からなかった。




