第1話
冷たい湿り気が背中に張りついて、目が覚めた。
体がじっとりしている。
指を動かすと、小枝と砂利が刺さった。
――ここは……外?
肺に入ってきた空気は森の匂いを孕み、腐葉土の生臭さが鼻の奥に残る。
息を吸っただけで、身体の芯がずしりと沈んだ。
空は木々の隙間から、ほんの少しだけ見える。
薄暗い森の葉影が光を細く刻んで、周囲の輪郭だけをぼかしていた。
――どこなんだ……。
声にしようとして喉が痛む。
ひりひりとした渇き。浅い呼吸。胸の上に重りが載ったみたいな気持ち悪さ。
起き上がろうと腕に力を入れた、そのとき――視界の端が黒く滲んだ。
『……聴こ⋯⋯るか』
外からじゃない。頭の内側――いや、胸の奥のもっと深いところから響いてくる。
身体の骨の内側を撫でるような冷たい声。
「……誰……?」
小さく震えた声が、自分の耳に返った。
怖いというより、この状況に頭が追いつかない。
その瞬間、視界が一瞬だけ反転した。
森の緑が退色し、輪郭だけが黒い線になる。
突然すぎる周囲の変化に、世界が息を止めたかのような錯覚を起こした。
音が薄い膜の向こうへ押しやられ、ここには静寂だけが訪れた。
気づけば目の前に『影』が立っていた。
人の形に近い。だが、顔は曖昧で輪郭が揺れている。黒い霧を薄くまとったような存在。
そこにいるのに、いない。
そういった矛盾が目の前に平然と成立していて、背筋が冷えた。
『……見える……か?』
声は確かに内側から響いているのに、目の前の影の口からも同時に重なって聞こえる気がした。
「あなたは……?」
『名は……まだだ』
頭に激痛が走った。割れそうなくらい痛い。
その痛みのせいで現実感が増すのが、余計に気持ち悪かった。
これは夢じゃない。そして、幻覚でもない。
「僕は何なんだ……?」
『器』『転生』『神』『紋章』『黒』『狩り』『色彩』『死』『逃げ』
一気に断片的な単語が、釘みたいに連続で頭に打ち込まれる。意味が追いつく前に、記憶だけが引きずり出された。
――横断歩道。迫るライト。耳を裂くクラクション。衝撃。痛み。焦げたゴムの匂い。次に、冷たい闇。そして今――。
息を吸う。心臓がバクバクと跳ね、肺も痛い。
空気が薄いわけじゃないのに、呼吸だけが現実から浮いているような感覚がする。
「僕は……死んだのか⋯⋯」
『そ……よう……だな』
慰めも嘘もない。事実だけが突きつけられる。
『無色……』『繋がっ……た』
繋がった? まさか僕は――?
恐る恐る、ゆっくりと身体を動かしてみる。
恐れていた最悪の状況。
乗っ取られているわけではなくて息をほっと吐く。
それだけで少し呼吸ができた。
落ち着け。まず確認だ。
自分を見ると、着ている服は粗い布のチュニック。見たことのない縫い目。周囲は外で、土と木と汗が混じった、嗅いだことのない匂いもしてくる。
現実感が薄れていくのに、地面に触れる指先の感触だけがやけに生々しい。胸の中心に、指に引っかかるような違和感がある。
『生き……延……ろ』『……紋章……狩……』
「……紋章?」
意味は掴めないのに、言葉だけが妙に滑らかに頭へ入ってくる。まるで、最初から知っていた情報みたいに。
聞き返した瞬間、遠く方で木の枝が折れる音がした。それも一回じゃない。複数回。
同じ速度で二つの音が迫ってくる。
動物の足音ではないことがわかった瞬間、背中にぞわりと冷たいものが走った。
『来た……』
その声に押されるように、僕は木陰へ身を滑り込ませた。必死に口を閉じ、震える身体を抑える。
呼吸を細く、小さく、ゆっくりと……。
足音がすぐ近くまで来た。枝葉を踏む音が、はっきりとした形となって耳に入ってくる。
「隠れても無駄だ。俺は鼻がきくんでな」
乾いた音が一つ『チリッ』と鳴った。黒いハットの男が、何か小さな金具を指先で弾いたのが見えた。
「いたぞ!」
「動くなよ。……黒髪に黒眼? 珍しいガキだな」
そこには男が二人立っていた。
二人とも汚れた革の上着で、腰には剣を差している。
僕は隠れていたはずだが、向こうの視線がこちらにまっすぐ向いていた。
一人は腕の太い大男。
もう一人は黒いハットを被った長髪の男。
僕は反射的にその場から後ずさってしまった。
それにより、足元の土が滑って音が鳴る。
「……逃げようとしても無駄だ」
大男が笑った。腰の後ろに、黄毛の尻尾が揺れている。
人間じゃ……ない……?
ハットの男が指を軽く鳴らした。
次の瞬間、冷たい金属が飛び掛かってきた。細い鎖が蛇みたいに滑って、僕の足首に巻きつき、皮膚を噛む。
「っ……!」
痛みで声が漏れた。絡みついた鎖に両足を引かれ、地面に倒れる。そのまま引きずられる。
内側の声が何かを告げてくるが、痛みで言葉が割れて聞こえない。頭の奥がぎしぎしと軋む。
「こいつ、何の紋章だ?」
「見えないな」
鎖を操る男が胸元を乱暴にめくり、目を細めた。
「……何だこの紋章。所々が途切れて黒く潰されてるぞ?」
その瞬間、その胸の奥が熱くなった。
内側から黒い何かが滲み出すような感覚。
喉が詰まり、視界が薄くなる。森の新緑が雑に塗られた絵の具みたいな色に見えてくる。
『抑え⋯⋯』『まだ……』
内側の声が短く言う。
僕の足首の鎖の一部が一瞬だけ鈍り、古い灰のような色に沈んだが、すぐに元に戻った。
だが、それだけで男たちの空気が変わった。
「……今、見たか? おまえの鎖が――」
大男の言葉を、鎖男がかぶせる。
「気のせいではなさそうだな」
鎖男の目は僕から離れない。怖がっているんじゃなく、値踏みしている。僕を商品として見る目だ。
「よし、一応連れていくか。次の狩りの前に仕分けるぞ」
男の指の動きに合わせて、鎖がさらに締まった。そのせいで、足首の皮膚が裂ける。
「う……っ」
「鳴くな。うるせえッ!!」
大男の蹴りが背中に叩き込まれた。
衝撃に息が止まり、そのまま顔面から地面に崩れ落ちた。土と血が混じった味が口に広がってくる。
悔しい。情けない。訳が分からない。
それでも身体だけは痛みに正直で、理不尽な現状に怒りが滲んでくる
途切れ途切れの声が、胸の奥から聴こえてくる。
僕は歯を噛みしめ、震える手を地面に押しつけた。
――生きたい。
元の世界では突然死に、この世界で目覚めさせられたと思ったら、またすぐ死ぬ。
そんな理不尽な仕打ちがあるのか。
木々の隙間の空がさっきより遠く感じる。光が細く切れて、意識のように薄くなっていく。
今、どうするのが最良だ。早く考えるんだ。
足首の鎖がぎしりと鳴る。
その音の向こうで、もっと上の気配が近づいていた。
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