昼下がりの戦争(前編)
※若干の暴力表現があります。ぬるーいですが、あしからず。
変質者という存在は、何故かなかなか撲滅しない。困ったものだと思う。
痴漢に覗きに盗撮、露出狂。ああ、小さい頃には近所で痴女が出たってんで騒ぎがあったな。いたいけな少年を家に連れ込んで悪戯する変態のおばさんが、何件かやらかしたらしい。俺はもちろん、大丈夫だったけど。
女子と違って、男ってのはあんまりそういう被害には遭わない。だから、実際に変質者がどういうものなのか、それがどのくらい怖いのか、ということが実感できる機会は非常に少ない。
しかし、俺――三条和之は、実際に何か被害に遭ったわけではないが、何度か変質者というものと遭遇したことがある。何せ、恋人である木崎明奈が超可愛い子なもんで。
ただ、毎回ろくなことにならないので、須らく世の変質者どもは更生するか、さもなくば滅失すべしだと思っている。
俺が初めて変質者と遭遇したのは――あれは忘れもしない、小学四年生のときのことだ。
季節は、ちょうど秋の暮れ。だんだんと日が短くなってきていた時期だった。
いつも通り、俺は明奈と一緒に木崎家宅へと帰っていた。その日は父さんが仕事で遅くなるとかで、俺は明奈の家で夕飯をごちそうになる予定だったのだ。
夕暮れの田んぼのあぜ道を、明奈と二人、とりとめのない話をしながら歩いていた。
そうしたら、正面から男の人がやって来たのだ。顔はぼんやりとしか覚えていないが、多分四十代くらいのおっさんだった。
ダークグレーのなかなか渋いコートを着て、俯きがちに俺たちの方にやって来たおっさんは、俺と明奈の行く手を遮るようにして立ち止まった。
何だ? この人。
そう思って立ち止まった俺と明奈に、おっさんはにやにやした笑みを浮かべて、コートの正面を大きく開いた。
……うん。いわゆる『露出狂』とかいう類の人間だったんだよな、あのおっさん。
コートの中は全裸で、ちょっとたるんだ腹だとか、ごわごわした胸毛だとか、てめぇんな汚ねぇもん見せてんじゃねぇよっつー気色悪いもんまで、全部丸見え状態。
俺は呆気にとられてぽかんとしてしまった。「うわ、変態だ!」とは思ったものの、驚きすぎて咄嗟に反応することができなかったのだ。情けないことに。
後から振り返ってみたら、あの露出狂のおっさんは明奈を狙っていたんだろう。今もそうだが、当時の明奈はとても可愛い美少女だったから。
ふわふわの茶色い髪と色白できめ細かな滑らかな肌、長い睫に縁取られた大きな目。唇なんて何も塗ってないのに綺麗なピンク色で、華奢な少女の身体なのに姿勢がいいせいかスタイルがよく見えて……って、それはどうでもいい。
とにかく、そのおっさんは美少女の驚いた顔や悲鳴が聞きたかったのだろう。自分の全裸を見ず知らずのいたいけな少女に見せて「きゃー!」とか「いやー!」とか言われることの何が楽しいのか、俺には全く理解できないが。
ああ、変質者の考えることなんぞ俺には理解できない。だが、とりあえずそいつらが人に迷惑かけるのが大好き人間だっつーことは理解できる。
ただの露出狂のおっさんだとて、単に裸を見せるだけでも、小さな女の子にとっては怖いし気持ち悪いことだろう。身体に危害を加えられなくても、精神的に酷い傷を負うかもしれない。
自分より弱い相手にそういう変態行為をする奴は、本当に最低だと思う。
今の俺なら、変質者がいたらまず警察を、と思う。
当時の俺は、とりあえずここから逃げないと、と思った。
場所は人通りの少ない夕暮れのあぜ道で、ちょうど民家がまばらなところだったから、大声をあげても誰も来てくれそうになかった。それにおっさんの方が俺よりも身体がでかかったから、下手なことして明奈が殴られでもしたら危ないと、そう思ったのだ。
とりあえず一番近い家に駆け込んで、その家の人に助けてもらおう。すぐに警察に連絡してくれるはずだ。――おっさんがコートの中身を曝け出してからほんの数瞬の間だったが、そういうことを考えたのだ。
結果的に、下卑た顔でにやつきながら俺たちの反応を待っていた露出狂のおっさんは、警察のご厄介になることはなかった。
「へへ、へへ……っ?!」
――バゴッ!!
何やら気味の悪い笑い声をあげていたおっさんの顔に、鈍い音と共に真っ赤なランドセルが命中したのが始まりの合図だった。
何の始まりかって、そりゃもちろん――ブチ切れた明奈の「お仕置き」だ。
「…………ふふっ」
可憐な唇から漏れる、鈴を転がすような可愛らしい笑い声。
にっこり笑った明奈の横顔を見て、声にならない悲鳴をあげたのを覚えている。
自分の顔が青ざめていることを自覚しつつも思わず一歩下がった俺の前で、明奈は顔を両手で押さえて地面に這いつくばり、くぐもった呻き声をあげているおっさんに近づいていった。
おっさんの顔面に命中した明奈のランドセルは、無事に中身をばらまくことなく地面に転がっていた。
それを横目で見た俺は、ランドセルの表面が何やら濡れていることに気がついたのだが、そのときはそれが何かわからなかった。後でそれがおっさんの鼻血だったことが分かるのだが、まぁどうでもいいことだ。
おっさんは逃げなかった。突然の攻撃に、逃げたり怯えたりという以前にただただ驚いていたのだろう。教科書やノートがぎっちり詰まったランドセルを、鼻血が出るくらいの勢いで顔面にぶつけられたのだから、そのショックもあったのかもしれない。
変態行為をしておきながら相手に反撃されることを予想していないなんてアホだなぁと思うが、小学生相手に変態行為に走る馬鹿だからなぁ。自分は絶対に大丈夫だとでも思っていたのか、さっさと逃げるべきなのに、う~う~呻いているだけだった。
そのせいでおっさんは明奈の接近を許してしまい、
「なぁ、お前」
俯けていた頭をガシッと掴まれて、明奈の顔と同じくらいの高さにまで持ち上げられ、
「汚物の分際で、どうして生き物の声をあげているの?」
柔らかな笑顔を浮かべた明奈の、白くてほっそりとした膝による攻撃を数発、思いっきり顔面に食らった。
掴んだ頭を叩きつけるようにして、勢いよく上げた右膝をおっさんの顔面に激突させながら、明奈は清純な天使のような笑顔を浮かべていた。自分の膝がおっさんの鼻血で真っ赤になろうがお構いなしだった。
ほっそい膝なのにどうしてあんなに凄い音がするんだろうか。「ひぃっ!」という悲鳴を飲み込みつつ、俺は更に一歩後ろに下がった。
「あがっ!」だの「びぶっ!」だの、日常生活においてはおよそ聞くことのない悲鳴を一通りあげたおっさんは、最後に横っ面に右ストレートを喰らって吹っ飛び、二メートルほど離れた場所に立っていた電柱にぶつかって沈黙した。合掌。
しかし、それで終わりではなかった。明奈は再度おっさんに詰め寄って、鼻血や涙や涎などでぐしゃぐしゃに汚れながら腫れ上がっているおっさんの頬に平手打ちを食らわせ、無理矢理意識を戻した挙句、
「ねぇ、お前は汚物のくせに痛みを感じるの? 何様のつもり? お前のような存在が呼吸をすること自体、地球にとって償えないほどの罪悪だとは思わないの? そのヘドロが詰まった頭で考えてみなよ、すぐに分かることだろう?」
それはそれは優しい声で、雑草でも踏みつけるがごとくおっさんの頭をぐりぐりと踏みにじりながら、情け容赦のない言葉責めを開始した。
氏名・年齢・住所・電話番号・家族構成・勤め先から始まって、おっさんの身元を確認できるような情報を聞き出しつつ、明奈は色々な言葉を使っておっさんを苛めていた。
その様子を青ざめながら見ていた俺は、明奈の真っ赤に濡れた膝が気になったのと、おっさん死ぬんじゃないかと心配になったために、そろそろと明奈に近寄っていったのだが、
「君たち、何してるの?」
『腰砕けになる美声』とはまさしくこの声だろう――そう思わせる艶やかな低音を聞いて、「天の助け!」とばかりに後ろを振り向いた。
「やあ、和之君。久しぶり。あれ、前に会ったときよりもまた少し背が伸びたね」
黒いスーツを着た、男の俺でも思わず見蕩れてしまうほどの美男――明奈の父親である要さんがいた。
「か、要さん! お久しぶりです……じゃなくって、あれ、あそこの! 変質者が!」
「うん?」
にこにこしたまま俺の頭を撫でる要さんに、まごつきつつも明奈と帰っていたら変質者が現れたことを説明した。あと、明奈がなんか大暴走! ……とも。
「ふうん。露出魔か。それは災難だったね」
まるで慌てることなく俺の説明を聞き終えた要さんは、自分の存在に気がついているだろうに、敢えて無視を貫いている明奈の方へと歩み寄り、
「明奈。お父さんに挨拶は?」
「ぐえっ」
綺麗に磨かれた革靴で、明奈によって土下座の状態で頭を踏みにじられていたおっさんの背中を容赦なく踏みつけた。大したダメージはなさそうに見えたが、おっさんが蛙のようなくぐもった鳴き声をあげたことから、かなり苦しかったんじゃないかなぁと思う。
「チッ……。もう帰ってきたのか」
明奈、実の父親に舌打ちってどうなの。
「はは、かれこれ三週間ぶりに会ったお父さんに対してそういう口の利き方はないんじゃないかなぁ。本当に礼儀知らずな子だよね。可愛くないなぁ」
要さん、実の娘相手にどうしてそんなドスの利いた声で話すんですか。
「バカに礼儀を説かれる筋合いはないなぁ。それより足をどけなよ、この汚物はわたしがお仕置きしてるんだから」
「汚物ねぇ。てっきり動く廃棄物かと思ったよ」
どっちも違う、そいつはただの露出狂の中年親父だ。この似た者父娘め。
そう思いながらもツッコミを入れることができなかったチキンな俺は、要さんに何やら小声で言い含められた明奈と共に、「私のような雑草以下の汚物が生きててすみません……貴重な酸素を消費してしまってごめんなさい……」とくぐもった声で涙交じりに呻き続けるおっさんを要さんに任せ、手を繋いで木崎家宅へと向かった。
おっさん、まともに喋れる状態じゃなかっただろうに、途中で少しでも噛んだら明奈が「汚物の分際で口を利いておきながら途中で噛むなんて、許されると思ってるの?」と笑顔で脅してきたため、必死になって口を動かしていたが……。
後で聞いたところ、要さんはおっさんを警察に突き出さない代わりに、もう二度と変態行為は行ないませんと誓わせたそうだ。
おっさんは一応定職に就いてて家庭があったのと、明奈が過剰防衛のレベルを超えた、ほぼ調教と言っていいレベルにまでおっさんを肉体的・精神的に追い詰めていたかららしい。まぁ、確かにやりすぎだよな。うん。
「和之くん、怒った?」
「怒ってないよ。でも、あんまり人のことを殴っちゃ駄目だよ。明奈ちゃんの足とか手とかが汚れちゃうから」
家に着く前に、おっさんの鼻血などで汚れていた明奈の膝や手をハンカチで拭いてやりながら、何もせずに事態を傍観していただけの俺は偉そうにそんなことを言った。
「うん、わかった。でも、あの汚物、和之くんに汚らしいものを見せたから……」
心底俺を思いやる明奈に、内心で盛大にずっこけながら苦笑した。
「俺は男だから平気だよ。でも、その……、明奈ちゃんの方が、気持ち悪かったでしょ?」
「ううん。わたしは平気」
にっこり笑った明奈の顔は、夕日に照らされていっそう鮮やかだった。
「だって、和之くんがいるんだもん。和之くんがいたら、気持ち悪いことも怖いことも、全部なくなるよ」
おっさんを踏みにじって罵っていたとき以上の輝くような可愛い笑顔で、明奈は力強く言いきった。
そんな彼女に俺が思わず見蕩れてしまったのは――――まぁ、仕方ないだろう。
多少暴力的でも、明奈が最高に可愛い女の子であることは、違えようのない真実なのだから。
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――――懐かしい記憶を思い起こしながら、俺は両腕を捻り上げたおっさんを駅員に引き渡した。
小学生の頃ならいざ知らず、身長が無駄に伸び、それに伴ってそこそこの筋肉もついた高校生の俺は、たまたま同じ電車に乗っていた同級生を痴漢していた変態男を発見し、特に問題なく捕まえることができた。
今日は何かイベントがあるとかで、休日だというのに電車はすし詰め状態だった。日を改めて出かけりゃ良かったか、と後悔したのも束の間。人ごみの向こう側で、見覚えのある女子が顔を真っ青にして歪めていた。
あれっ、あいつ吉川じゃね? なんだ、具合でも悪いのか?
この人ごみに電車の揺れが加われば、そりゃ気分が悪くもなるだろう。
その女子は同じクラスの吉川なんとか(下の名前は知らん)で、確か図書委員をしている。俺はまだまとも話したことはないが、繊細そうな雰囲気をした大人しめの子で、凛とした綺麗な顔をしている……と思う。いや、俺なんかが評価するようなことじゃないが。クラスの男連中には割と人気なんだよな。儚げで『守ってあげたい系』の子らしい。
実際、吉川は身体があまり丈夫じゃないらしく、よく体育を見学している。身体の線も細いし、そういう意味では確かに『守ってあげたい系』かな。
そういうわけで、吉川が身体が弱いこと知っていた俺は、倒れたりしないだろうかと少し心配になり、チラチラと吉川の様子を眺めていた。
そうしたら、不意に顔をあげた吉川と目が合って、その瞬間に彼女の両目からボロッと大粒の涙がこぼれ落ちた。
当然、俺は「はっ?! 何?! 俺、なんかまずい顔したか?!」とパニックになったものの、吉川の唇が何かを訴えるように動き――それが「た・す・け・て」という言葉だと理解した瞬間に電車が大きく揺れ、さざ波のように動いた人の隙間から、吉川の着ている服の上から彼女の胸をわし掴んでいる変態の手が見えた。
で、慌てて人ごみを押しのけながら(その過程で見ず知らずのたくさんの人に物凄く睨まれて悪態吐かれた。ちょっと傷ついた……)吉川の元に急ぎ、何やら顔を赤らめて荒い息を吐いて興奮していた変態をとっ捕まえたわけなんだが。
「あー、吉川? 大丈夫……じゃ、ないよな。うん。ごめん。はは、は……」
「……ふぇっ、……ぅくっ」
痴漢をとっ捕まえたらそれでハイお終い――ということにはならないらしい。速攻でトンズラしようとしたら、駅員さんに捕獲されてしまった。
それで現在、警察に事情を話さなくちゃいけないとかで、駅にある待合室……のような所に連れて来られた俺と吉川は、駅員さんによって出されたお茶を飲みつつまったりしていたわけなんだが。
吉川、泣き止まないんですけど。
いや、誰か助けて! 俺は無理! 泣いてる女子を慰めるのとか、ほんと無理だから!
細い肩を震わせて、顔を両手で覆って泣いている吉川は――これがまた、声を必死で押し殺して静かに泣いているから妙に痛々しくて――物凄くかわいそうなんだけど、こういう場合どういう風に声をかけたらいいのか全然わからない。
俺、今まで明奈狙いの変質者に遭遇したことは何度もあるけど、どれも変質者の方が恐怖に慄き苦痛に喘ぎ、血と涎と鼻水垂らしながら泣いてたから。こういう場面、初めて! 駄目だ、居た堪れない!
あーもう、駅員さん、誰か来いよ!! 空気読んで! 俺たち新しいクラスになってまだ二ヶ月くらいしか経ってない上、まともに話したことありません!!
そんなことを思いながら、どうにか泣いている吉川を慰めなくてはと思っていた矢先、
「はい、待たせてごめんねー。君、ええと、女の子の方。警察の方が来てくれたからね、もう大丈夫だよ。お話できるかなぁ?」
軽快なノックと共に、人の良さそうな五十代くらいの駅員さんが入ってきた。あー、助かった……。
吉川は顔を俯けたままだったけど、小さな声で駅員さんと何か話をして、それから彼に連れられて部屋から出て行った。去り際まで、俺の方は一度も見ずに。
……。まぁ、いいけどさ。ショックだったんだろうし。
その後、吉川を呼びに来た駅員さんはすぐに俺の方へ来て、開口一番、
「彼氏君、だめじゃないか。こういうときこそ、ちゃんと彼女を慰めてあげないと」
物凄い誤解発言しやがった。
「違います! 彼女はただの同級生で、偶々見かけて助けただけです!」
「え、そうなの? 君、勇気あるねぇ」
感心感心と頷かれて、一気に肩の力が抜けた。何なんだ、一体。
「じゃあ、これを機に仲良くなれるといいね」
「仲良くならなくていいですよ! 大体、痴漢に遭ったことなんて、あまり言いふらさない方がいいでしょう」
あれだけ泣いていたんだから、吉川は今日の記憶をさっさと忘れてしまいたいだろう。それに、変な風に歪曲されて噂にでもなったらかわいそうだ。
「ん、そうだね。警察には聞かれたことを話したらいいけど、彼女のためを思うんなら黙っていた方がいいね」
「はぁ……」
「じゃ、君もこっち来てね。捕まえたときのこととか、聞かれたことにちゃんと答えてくれたらいいから」
そうして、俺は駅員さんに連れられて警察の方とご対面したわけなんだが。
この翌日、学校にて、俺が吉川なんとか(名前わからん)から謎の宣戦布告を受ける羽目になろうとは――まるで予想だにしていなかった。……ま、当たり前だな。……はぁ。