第9話 回想:孤独の少女
紫苑一希が胡蝶蘭結羽に出会ったのは三年前、中学校の入学式の時だ。
校長の長い話にあくびをしていると、ふとある少女が目に入った。ウェーブのかかった栗色の髪の少女だ。
おとなしそうな普通の子に見えるが、何故か気になった。
その子とは同じクラスになり、名前が分かった。胡蝶蘭結羽という名前だそうだ。
彼女は他の女子に声をかけられ、楽しそうに話をしているように見える。だが、彼女の背中からは恐怖心がひしひしと伝わってきていた。
何にそこまで怯えているのかは、まだ分からなかった。
それから三か月が経過した。彼女は、休み時間のほとんどを一人で過ごすようになっていた。
机に座り、図書室で借りてきた本を読んでいるのが常だ。
誰も彼女に声をかけないし、誰も彼女の悪口や陰口を言わない。
いわば、彼女は空気のような存在なのだろう。
だが、三か月前も彼女から漂っていた恐怖心は何故か薄れている。
人付き合いが苦手なのだろうか。それとも、他に人と関わりたくない理由があるのか。
それが気になり、彼女に声をかけた。
「なあ。お前、どうしていつも一人でいるんだ?」
その言葉に驚いたのか、声をかけられたことに驚いたのか、彼女は背中をびくっと震わせた。一瞬ちらりとこちらを見た後、彼女はすぐに目を逸らして、立ち上がる。
読みかけの本を閉じて、そのまま教室から足早に出て行ってしまった。
彼女が出て行った後、反省した。
あんな言い方をして、言葉を返してくれるわけがない。
しばらくの間、彼女が出て行った教室の扉を見つめていた。
それからも毎日、休み時間に彼女に声をかけ続けた。
おはよう、とか。何の本を読んでいるの、とか。他愛の無いことだ。
最初の数日はこちらを無視したり、すぐに教室から出て行ったりしていたが、一週間経って、彼女はようやく口を開いてくれた。
「……どうして、私なんかに話しかけてくるの?」
小さな声だったが、嬉しかった。
「いつも一人でいるから気になって……」
「……私は好きで一人でいるの。私のことなんて放っておいてよ」
そう言った彼女の語尾が微かに震えているのに気づいた。
怖がっている。ここにはないものを。自分でもよく分からないが、そう感じた。
そして、そんな彼女との関係を大きく変える事件が起こった。
彼女が初めて話してくれた日から二週間後のことだ。
相変わらず、彼女に声をかけるのは自分だけだったが、彼女の自分に対する態度は多少、軟化しているように感じた。
学校の授業が終わった放課後、自分や彼女も含めた生徒全員が、下校していた。
数日前から学校の近くで、刃物を持った人物に襲われるという事件が起こっていて、全ての部活動を休止しているのだ。
まだ日が高い中、大勢の生徒が下校していく。自分と彼女は途中まで同じ道を通るので、自分は彼女が一人で帰る後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。
彼女が道路の曲がり角を進んで十秒ほど経った時、生徒たちの大きな悲鳴が曲がり角の向こうから聞こえてきた。
誰もがその場で足を止める中、自分は曲がり角に近づいて、角の向こうの様子をそっと伺った。
上下とも黒い服装の男がいて、生徒たちを包丁で襲っていた。生徒たちの多くは逃げ惑い、自分の見える範囲では軽傷の生徒だけのように見えた。
だが、男から逃げる一人の女子生徒が転倒してしまう。それを見た男が女子生徒に向かって駆け出し、包丁を振り上げる。
女子生徒の悲鳴が聞こえた直後、自分の目に信じられない光景が映った。彼女が女子生徒を庇い、そのまま倒れ込む。彼女は左腕を押さえていて、そこから血が流れていた。
その光景を見た瞬間、自分は我を忘れて男に向かって駆け出し、持っていた通学カバンを男の体に力任せにぶち当てる。
男は予想だにしない攻撃に躱すことも出来ずに、通学カバンがぶつかった勢いで包丁を手から落とし、地面に倒れる。倒れた時に頭を打ったのか、男はそのまま気絶した。
それを見て肺が空になる程息を吐きだした時、パトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。やがて男は警察に連れて行かれ、彼女は救急隊員に手当てをしてもらっていた。
「……大丈夫?」
「……うん。少し痛いけど」
包丁で切られた彼女の腕には、包帯が巻かれている。あんなに大人しそうな彼女が、他の人を庇ったなんて、未だに信じられない。そして、自分があんな行動を取ったことは、それ以上に信じられなかった。
「……ねぇ、紫苑君」
そう呼ばれたのは初めてだった。
「なに?」
「……なんで、助けに来てくれたの? あんな危ないところに」
至極当然な質問だった。いつもだったら恥ずかしくて口に出せないようなことだが、今なら言える。
「お前を助けたかったから、だよ」
我ながら、随分とかっこつけた言葉だ。さすがに冷ややかな態度をされるかと思った。
だが、自分の言葉を聞いた彼女の顔は、仄かに赤くなっていた。
「……ありがとう、紫苑君」
彼女は花のように微笑んだ。年相応の表情をしてくれたのが、嬉しかった。そして、その笑顔がとても可愛くて、今まで感じたことのない感情が湧き上がってくる。
それを誤魔化すように彼女に言う。
「あ、あのさ」
「なに?」
不思議そうに首を傾げる彼女の表情にドキドキしてしょうがない。そんな気持ちを悟られないように出来るだけ落ち着いた口調を心掛ける。
「名字じゃなくて名前で呼べよ。俺もお前の事を名前で呼ぶからさ」
「……うん!」
それが、二人が仲良くなった日だった。
あの事件から、結羽と、結羽の周囲は一変した。
結羽はクラスメイトと会話をするようになり、クラスメイトも結羽と話すようになり、仲良くなっていった。もう彼女に、何かに怯えていた頃の面影はない。
あの事件から一か月が経ったある日の放課後。教室には、結羽と一希の二人だけがいた。結羽は窓から夕陽を眺めながら、一希に言った。
「一希、ありがとう」
「ん? 何が?」
一希は結羽を見るが、結羽の顔は影になっていて表情が見えない。
「一希のおかげで、また心から笑えるようになったの。本当にありがとう」
一希は躊躇いがちに尋ねた。
「……やっぱり、前に何かあったのか?」
少し間があってから、言葉が返ってきた。
「……小学生の時ね、友達が亡くなったの」
「え……?」
思いもよらない言葉に、一希はそれ以上言葉が出ない。
「突然だったから、すごく悲しくて。 ……だから、もうそんな悲しい思いをしたくないから、最初から友達なんて作らない方がいいのかもって思ったの」
一希は無言で聞き続ける。
「それで、気持ちを隠して一人でいたんだけど……やっぱり寂しかったし辛かった。そんな自分じゃどうしようもない闇の中から出してくれたのが、一希だったの」
結羽が一希の方に振り向く。泣いているかと思ったが、笑顔だった。
「一希。こんな私だけど、これからもよろしくね!」
「ああ!」
結羽の笑顔に、一希も笑顔で返した。
その一週間後、一希は突然引っ越した。
父親の出張が理由らしいが、引っ越し先の住所も教えてくれず、電話も繋がらない。
一希の消息が途絶えた。
次話は10月5日に投稿予定です。




