王女ユースティアからの婚約命令①
春の暖かい風が、まとめても結ってもいないアリスの銀朱の長い髪を揺らしていた。
彼女の灰紫色の瞳に映っているのは、晴れた水色の空と春の微風、そして、白いりんごの花。
アリスの父、第三代イース伯爵の城館の東の庭に植えられているりんごの木は、清楚な白い花を今を盛りと咲かせていた。
『お母様、見てー! アリス、一人で登ったのー!』
『お母様、見て! 私、ここよ!』
庭のりんごの木が花を咲かせる時季になると、アリスは幼い頃の自分の声を思い出す。
たった三歳。実際に痛みが感じられるほど深い悲しみが世界にあることもまだ知らなかった頃。活発すぎるほど活発な少女だったアリスは、このりんごの木に登り、館の母の部屋の窓に向かって、幾度も声を張り上げた。
『お母様、私を見て!』
アリスは、自分が特に承認欲求の強い子どもだったとは思っていなかった。
俗に言う“見て見て期”の子どもが抱く、それはごくありふれた望みだったはず。
もし母が窓辺に姿を見せ「見ているわ」と言ってくれたなら、それだけで喜び満足した。
もし母に「今は忙しいから、あとでね」と言われたなら、大人しく我慢もできた。
けれど、自室にいるはずの母は、その窓辺に影の一かけらすら見せてくれなかったのだ。
東の庭の木は、りんごの花が好きだという妻エルフィフのために、アリスの父イース伯爵ユーグが移植したものだった。
わざわざ遠方の領地から運んできたりんごの木は、妻の私室から木の全体が見えるよう、方角と距離を考えて植えられた。妻の私室の窓とりんごの木の間にあった低木の垣や東屋は、すべて取り払われた。
そこまでしたイース伯爵が妻から感謝の言葉をもらえたのかどうかを、アリスは知らない。
「アリス。まさか、登ろうとしているのではないだろうな」
低い声に問われたアリスが、ゆっくりと後ろを振り向く。
そこに、アリスより頭一つ分、背の高い黒髪の青年が立っていた。
「アンジェイ」
切れ長の目に濃紺の瞳。墨で染めたような漆黒の髪。
イース伯爵家の一人娘アリスタクセンシア・ドゥ・イース専従の侍衛アンジェイ・ピャストは、『神が定規を使って作った顔の持ち主』と評されるほど整った容姿の持ち主だった。
彼の主人であるアリスはむしろ、「神は、アンジェイを作ってから、定規を作ることを思いついたのだ」と思っていたが。
面立ちが整いすぎているため、その表情が僅かでも歪むと、誰の心臓も跳ねあがる。
生まれた時からずっと一緒で、アンジェイの顔を見慣れているアリスでさえ、それは例外ではなかった。
ちなみに、彼が長めの黒髪を極細のツイストチェーンで一つにまとめているのは、色の重さに反して髪質が軽いからで、彼が銀鼠色や藍鼠色の上着を着ていることが多いのは、
「アンジェイが黒を着たら、冥界の王と見紛うわ。髪や瞳の色とのバランスを考えて、暗くなりすぎないよう明るめの色にして」
というアリスの希望による。
「私個人のバランスより――」
「私たちのバランスは、私のドレスの色で調整するから」
とアリスに食い下がられたアンジェイは、
「アリスの望む通りに」
と折れるしかなかったのだ。
そのアンジェイが、いつのまにかそこに来ていた。
振り向いたアリスの視界に伯爵夫人の私室の窓が入らない絶妙な位置と距離。
彼の無言の気遣いに気付いて、アリスは僅かに瞼を伏せた。濃紅色の、くるぶしまで隠れるロング丈のサーキュラースカートの裾を示して、苦笑する。
「この長いスカートには、歩くだけの作業にすら苦労させられてるの。木登りなんて、さすがに無理よ」
それでもクリノリンやバッスルで膨らませたスカートよりは動きやすいので、アリスは何とか長いスカートに耐えることができていた。
「ならいいが」
「りんごの木って、主幹の低いところから太い横枝が伸びるから、子どもが木登りするためにあるような木だと思っていただけ」
「その危険性に気付いた旦那様が、低いところにある横枝を切って、高い枝にブランコを作ってくださったことがあったな」
「そうだったわね……」
あの時も、アリスは母を求めた。
『お母様、見てー! お父様がブランコを作ってくださったのー!』
母はやはり、アリスを見てはくれなかったが。
「お父様はいつも私を見ていてくださったわ」
アリスが俯くように頷き、呟く。
「ごめんなさい。りんごの花が咲くとどうしても……。でも、アンジェイとお父様がいてくれるから、私は大丈夫」
そう告げて、アリスは春の暖かい水色の空に顔を向けた。
形の良い眉と、きつく結ばれた唇。美しいと感じる前に、見る者に緊張を強いる表情。
アリスは、フランコルム王国で最も気の強い貴族令嬢と噂される、いつもの彼女に戻っていた。
「で、何かあったの?」
アンジェイは、りんごの花が咲く時季に、アリスが感傷の病を発症することを心得ている。いつもなら、そっとしておいてくれるアンジェイが、ここまでやってきたということは。
「旦那様がお呼びだ」
「急いでるの?」
「微妙……かな。急ぐ用ではないが、放置もできない程度の緊急性」
「つまり」
「縁談だ」
「ああ……」
つい、肩と声から力が抜ける。
自分が十八歳になった伯爵家の一人娘で、跡継者問題が避けては通れぬ懸案事項だということは、アリスも承知している。承知してはいるのだが。
「今度はどこの命知らずがそんな申し出を?」
「今回は、縁談の相手より、話を持ち込んできた人物が怖い物知らずだと言うべきだろう」
「誰」
「ユースティア王女殿下」
「あー……」
今度こそ完全に気が抜ける。
ユースティア王女は、アリスからアンジェイを奪う機会を虎視眈々と狙っている、フランコルム王国の第一王女だった。




