3.桜明寺家正門
裏口に待機していた一樹に、稀代子は声をかける。
「一樹」
「稀代子様、今のところ人通りはほぼありません」
稀代子が笑顔で頷くと、先に一樹が裏口から出た。彼女は、辺りを見回して、人が居ないことを確認して稀代子に頷く。
「さ、行きましょうか。白雪さん」
「はい」
少しおどおどしながら、白雪は稀代子の後ろに続いて裏口を出た。稀代子を先頭に歩き始めたので、白雪は一樹と並ぶことになる。
「白雪さん、背筋を伸ばして」
「ひゃ!はい!」
背後のやり取りに小さく笑いながら、稀代子は正門が面する大通りに出た。
忙しなく行き交う人々を気にも止めず、背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向いて歩く。稀代子の堂々とした身のこなしは、貴族の令嬢であると一目瞭然だった。
「ただいま、マツ」
正門で掃き掃除をしていた中年の女中に、稀代子は声をかける。マツは顔を上げて、朗らかに笑った。
「お帰りなさいませ、稀代子お嬢様」
頭を下げるマツに、稀代子は小さく口元に笑みを浮かべて訊ねる。
「お母様は?」
稀代子の問いに、頭を上げたマツは少し困った顔をして答えた。
「誉子《たかこ》様は、先程お眠りになりました」
お母様は錯乱して暴れ、鎮静剤を打たれたのだろうと稀代子は推測する。鎮静剤は依存性があると京之允伯父様から聞いていたので、あまり使ってほしくなかったわと、心の中で溜め息を吐いた。
「そう。ありがとう」
稀代子がマツに労いの言葉をかけると、彼女は小さく頷く。
そして、背後の白雪に気付いた。
「稀代子お嬢様、そちら……の、方……」
白雪の顔を見て、言葉を失い、目を丸くするマツに、稀代子はにっこりと笑う。
「彼女は吉野 白雪さん」
名前を呼ばれた白雪は頭を下げた。マツの顔が青くなるが、稀代子は知らぬふりをして話を続ける。
「道に迷っているのかと思って声をかけたら、お母様を亡くして働き先を探しているんですって。だから、連れて帰ってきたの」
無邪気に稀代子は声を弾ませて言った。実際、白雪は路頭に迷っていたから嘘ではないわと、稀代子はマツを見る。
「さ、左様でございますか」
少し引き攣った笑顔をマツは浮かべた。
稀代子の父は、さとを襲い、誉子の心を壊した事について、使用人たちに箝口令を敷いた。
あの獣の所業を稀代子に話す者はいない。
もし、あの所業をどこかで話したと主人に知らられば、タダでは済まされないからだ。
実際、何人かの使用人が消えていた。
しかし、誉子に付いてきた使用人は、さとだけではなかった。
あの日、誉子付きの女中はさと以外不在だったが、獅子森家の息のかかった使用人が紛れていることを微塵も疑わないなんて、滑稽だわと稀代子は腹の中で笑う。
「えぇ。可愛い子だから、私付きの女中にしたいと思ってるの」
「お、お嬢様!」
マツが思わず声を上げた。稀代子は全く驚いていないが、キョトンとマツを見る。
「その、旦那様が……どこの馬の骨とも分からぬ娘を雇うことをお許しになるか……」
白雪に聞こえないように、小声で歯切れ悪く言葉を紡ぐマツ。
稀代子は、獣の所業の末に産まれた子である白雪を、父か母に会わせたくないのか、はたまた、彼女をこの家に関わらせたくない良心からそう言ったのか、どちらかしらと頬に手を当てて口を開いた。
「あら、そうね。一樹、白雪さんの身元を調べておいてくれる?」
あっさりと一樹に白雪の身辺調査を依頼した稀代子に、マツの顔色は更に悪くなる。
「はい。かしこまりました」
一樹がさらりと返事をすると、キョトンと白雪は彼女を見上げた。稀代子は、私と違って白雪は本心から分からないって顔をしているわ。可愛いわねと、呑気に二人を眺める。
マツが途方に暮れている姿を横目に、どう声をかけようかと稀代子が悩んでいると、二花がこちらに走ってきた。
「稀代子様〜!」
二花は、稀代子たちの元に着くと、はぁはぁと息を切らせながら、出迎えの挨拶を口にする。
「お、お帰りなさいませ!」
「ただいま、二花。どうしたの?」
ふうふうと息を吐く二花の肩に優しく触れながら、稀代子は首を傾げた。
こんなに急いで走ってくるなんて、屋敷内で何か事故があったか、客人が来たのかだろうと予測する。
二花は何とか息を整えて話し始めた。
「有明様が……いらっしゃってます」
「あら、急な訪問ね。直ぐに向かうわ。白雪さんもついてきて」
顔色の悪いマツを残して、稀代子は白雪たちを連れて屋敷の中に入る。
白雪は初めて入る貴族の屋敷に圧倒されている様子だった。目をシパシパと瞬かせて、ほうと小さく簡単にため息を漏らす。
幼子のようで可愛らしいと、稀代子は考えながら、応接室へ向かった。
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