大詰め
金色に瞬く部屋の中で、頸を失った木山の胴体はやや不安定な体勢で立ち上がると、頸が落ちている場所を目指して歩き出した。その様子を眺めていた佳矢子は、冷静さを取り戻すよう努めながら、声を張り上げる。
「ば、馬鹿な。あんた、頸を切り落としたのに、如何して生きてんだよッ」
佳矢子の質問をよそに、木山の胴体はしゃがみ込み、床に転がったままの頸を拾い上げる。左右の手で頸を押さえて持ち上げる際、彼の両手は意図的に顔が佳矢子達に向くようにする。頸無し男の手中にある頸を見て、佳矢子と道雄は思わず目を瞠った。血走っていた眼はすっかり元の生気を取り戻し、生き生きとした表情を浮かべていたのだ。頸だけの彼は、口角を不敵に歪めつつも唇を動かす。
「何故か。其れは、僕自身がそういう身体だからさ」
木山は言いながら、自身の頸を身体の一番高く、元在った場所へと持って行く。胴と頸が接そうとする瞬間、傷口から一層強い黄金色の光が漏れる。佳矢子達の眼前で、木山の血肉と骨が元通りに接し、彼の頸は胴体に張り付いた。彼の頸筋に、佳矢子に斬られた時の傷跡は全く無く、唯一乾いた血の跡だけが生々しく残っていた。呆気に取られた佳矢子を前に、木山は淡々と述べる。
「僕は此れまでに、三回死んだ事が有る。だが、それでも生き返り、たった今四回目の蘇生を果たした。貴様等を殺す事の出来る、此の異能のお陰だ」
木山は、佳矢子の前で右手を翳す。その瞬間、彼の手に金色の光が宿った。それを眺めていた佳矢子をよそに、彼の足は薄茶色の塊へと向けられる。木山の右手が、空を縦一文字に切り裂いた瞬間、人蟷螂の卵鞘もまた縦一文字に裂けた。卵鞘の裂け目から、大量の粘液を纏った白い蟷螂の幼虫が次々に現れる。
春を待たないまま外の冷たい空気を浴び、苦悶の声を上げる自分の子を前に、佳矢子は持仏堂に響く程の金切り声を上げる。道雄は、蟷螂の幼虫を前にしても真顔のまま動じない木山の姿を無言で注視していた。卵鞘から現れた百匹にも及ぶ幼虫は、苦し気な声を上げながらも、木山と道雄の元へ這い寄る。二対の小さな鎌を構えるその姿を前に、道雄は彼等が本能的に獲物を探しているのだと悟った。そんな二人を尻目に、木山は唇を一度ぺろりと舐める。僅かに残った己の血の味を感じ取りながら、彼は白い虫の群れを前に目を細めた。
「生まれながらにして人の血肉を求めるか。醜い虫けらがッ」
木山は蟷螂の幼虫達の前で、光を纏った右腕を左から右へ、半円状に薙ぎ払うように動かす。すると、眼前に居た白い幼虫は皆、跡形も無く蒸発し、後には虫が這い出た薄茶色の抜け殻だけが残された。道雄が呆気に取られるのをよそに、佳矢子は身を小さく震わせる。彼女の両鎌は、何度もぶつかっては鈍い音を立てた。
「おのれ、よくもあたしの可愛い子供達をッ。死ねえッ」
そして、佳矢子は木山の前に躍り出た。蟷螂の形に戻った彼女を前に、木山は真顔のまま向き直る。そのまま、迫り来る佳矢子の前へ右手を振り翳し、思い切り空を払った。その瞬間、佳矢子の右腕は黄金の光に包まれ、赤黒い血を噴き出しながら蒸発した。苦悶の声を上げながらも、佳矢子は木山へ駆けるのを止めないまま、今度は左腕の鎌を振るう。
「舐めるな、子供殺しの気違いがぁッ」
若竹色の鎌が振り下ろされるのも構わず、木山は逃げる素振りも無く、黙って右手を眼前に移動させた。彼の身に鋭い鎌が接さんとする瞬間、佳矢子の左腕もまた忽ち金色の光に消えた。鋭い金切り声を上げ、彼女はその場に蹲る。大量の鮮血を床へ零しながら、荒い息を上げる人蟷螂を前に、木山は低い声で口走る。
「僕が気違いなら、貴様は何だ。人をただの餌としか思わない、阿婆擦れ蟷螂だろうが。笑わせるな」
木山はそう言って、佳矢子の下顎を掴む。その瞬間、佳矢子は徐に顔を上げ、木山の顔目掛けて噛みつこうと半身を伸ばした。だが、彼の手が金色の光を宿すと共に、人蟷螂の下顎はいとも簡単に握り潰される。佳矢子の声にならない絶叫が響く中、木山の顔に細かな血肉が大量に付着する。不快感を示しながらも、彼は反対の手でそれを退けた。
木山は、持仏堂の脇で小さく震えている道雄の姿を一瞥する。碌に身動きも取れないまま、彼は恐怖に満ちた表情で木山と佳矢子を凝視していた。そんな道雄に向けて、木山は笑顔を作ってみせた。そのまま、彼は道雄へと歩を進める。道雄が短い悲鳴を上げ、身を捩じらせるのも構わず、木山は彼の口に巻かれた猿轡を外す。更に手足を縛っていた紐を手早く解きながら、穏やかな口調で語り掛ける。
「もう大丈夫ですよ、人蟷螂はご覧の通り無力化しました。今のうちに、此処から逃げて下さい」
木山はそう言って道雄を立たせると、彼を持仏堂の出入口へと導く。そんな二人の目線は、終始その場で呻き声を上げる怪異に注がれていた。やがて、道雄を障子の所まで連れ出した木山は、早く行って下さい、と一言だけ口走ると、再び佳矢子の元へと歩き出した。何時の間にか、佳矢子の姿は最初に彼が目にした生娘の姿に変わっていた。だが、失われた両腕と下顎からは大量の血が流れ出し、息も絶え絶えになっている。木山は、顔を顰めながら仰向けになった彼女の姿を見下ろす。
「ふん、この期に及んで人間の姿を取るのか。命乞いでもしているつもりか」
佳矢子は涙を流しながら、何度も小さく頷く。鎌と顎を失った蟷螂など、木山にとって最早恐るるに足らない。だが、彼にはまだやる事が有る。怪異に同情などしない。木山は佳矢子の側にしゃがみ込むと、彼女の胸の上で馬乗りになった。両足で佳矢子の左肩と脇腹とを固定した後、彼は淡々とした口調で告げた。
「見逃す訳無いだろう。この際だから教えてやるが、僕は、村人が次々に失踪していると言う情報を聞いて、村へやって来たんだ。そしたらどうだ、血生臭い女が堂々と村の中を歩いているじゃないか。それがお前だよ。最初に会った時に始末してやっても良かったが、この時期なら卵を産んでいた可能性も在ったからな。だから敢えて泳がせておいて、此処へ案内させたんだよ。易々と殺されてやったのもその為だ」
佳矢子は、木山の言葉を否定するように幾度も頭を振る。だが、木山の茶色い瞳は真っ直ぐに人蟷螂の顔を覗き込んでいた。やがて、彼は金色に輝く右手を佳矢子の顔の上に持って来ると、五本の指先で小さな五角形を作り出した。そのまま、彼は佳矢子の顔から右手を離す。
「僕達人間に害を為す怪異は、必ず殺す。勿論お前もだ。だがその前に、お前の異能の力、全て頂く」
言うが早いか、木山は自らの右手を勢いよく振り下ろし、佳矢子の左眼に沈めた。その瞬間、佳矢子の絶叫が辺りに響いた。木山は構う事無く、粘膜に包まれた眼球を指先で掴む。そして、幾筋もの細かな血管を破りながら、力任せに左の目玉を抉り取った。佳矢子の視界が、右と左とで歪に狂う。冷たい外気に当てられ、少しずつ乾き始めた左眼は、黒い外套を纏った若い男の顔を見つめたままだ。
左右に忙しなく動く漆黒の瞳を前に、木山は小さく嗤うと、口を大きく開いた。佳矢子の眼球を完全に口内に含むと、己の歯で頭に繋がった血管を噛み千切る。激しい痛みと共に、再び悲鳴を上げた佳矢子の視界は、左半分が完全に失われた。彼女の右眼が捉えた男は、自分の左眼を幾度も口内で噛み、頬を上下に動かしていた。やがて、木山は口に含んだ物を躊躇う事無く嚥下する。そんな木山の口の周りには、佳矢子の鮮血と体液が大量に付着していた。
自分に馬乗りに跨る木山の姿を前に、佳矢子は残った右眼と、左眼が有った場所から血の涙を流した。どうしてあたしが、此れほど非道い思いをしなければならないのか。普通に毎日食事をして、生きようとしただけなのに、突然現れた男に全て壊された。自分の子供を。自分の身体を。生命を。こんな事が有って良いのか。佳矢子が恐怖と理不尽に身を震わせる中、木山は更に言葉を重ねた。
「これで終わりだと思うなよ。次は右眼だ」
そう言って、木山は再び右手の指で五角形を作った。先程より妖しく、それでいて美しく輝く金色の閃光を前に、佳矢子は弱々しく声を上げる。だが、それもまた右眼を襲った激痛により呆気なく阻まれた。赤く血走った眼球を前にしても、木山は一切眉を動かす事無く、再びそれを口に含む。そして、鈍い音が響いたかと思うと、佳矢子の視界は完全な闇に包まれた。鋭い痛みを感じながら、彼女の耳は木山が自分の眼を食べる音に集中していた。細かい血管を食い千切る音、血や粘液を啜る音。聞くに堪えない音を聞きながら、佳矢子は何時終わるとも知れない痛みに身を委ねた。それでも、彼女は未だ死ぬ事の叶わない恐怖に絶望する。やがて、木山は右眼を食べ終わったのか、小さく溜息を吐く。佳矢子もまた、激しい痛みに襲われなくなった事に少なからず安堵の気持ちを覚えた。彼女が青年の舌打ちを聞いたのは、その矢先の出来事であった。
「未だ死なないのか、こいつは。人の形を取る特異な怪異だから、仕方ないのも有るが」
すると、木山は徐に佳矢子の着ていた衣の前を開けさせると、胸に自身の右手を当てた。そのまま、彼の爪は佳矢子の柔らかい肌と肉を毟り取る。全身を駆け巡る痛みに身悶えていると、木山の大きな手が人蟷螂の心臓を捉えた。微かに脈打つそれを見下ろしながら、木山は自身の手に金色の光を宿す。
「これで終わりだ、畜生が。死ね」
そう言うと、木山は赤黒い心臓を目いっぱい強く握った。時に捻り、時に爪を喰い込ませる。それに合わせて、佳矢子もまた鋭い金切り声を上げた。血に塗れた長い舌が、真っ直ぐ空に突き出される。人蟷螂の華奢な身体が、激しい痛みを前に強く暴れ出すが、木山は構わず心の臓を拳の内に収め、そして力を込めて潰す。斯くして、血の海に横たわる佳矢子の身体はとうとう動かなくなり、断末魔の悲鳴も収まった。
―――――
事切れた佳矢子の屍が、金色の光に包まれ消えていく。その様子を黙って見詰めながら、木山は何度も息を吸っては、荒々しく吐き出した。そして、彼は自分の頸筋に手を当てる。またしても、名も無き異能が己の生命を繋いだ。頸を斬り落とされるのは初めての事だったが、それでも死ぬ事は許されないのか。そう考える木山が、ふと持仏堂の出入口に目を向けると、そこには拘束を解かれた道雄が力無く座り込んでいた。見開かれた両目は、木山の姿に注がれている。どうやらまだこの場に留まっていたらしい。木山は、口元に付着した佳矢子の血を手で拭うと、目の前の男へ笑顔を作ってみせた。
「心配有りませんよ、怪異はもう始末しました。これで、貴方や残った村の方達も大丈夫ですよ」
黒い外套を纏った青年を前に、壮年の男は、金魚のように口をぱくぱくと動かしていた。木山が一歩踏み出すのを前に、彼は着ていた袴の中心をしとどに濡らす。笑顔を崩さないまま、少しずつ近寄って来る青年を避けるように、道雄は身体を捻る。だが、思うように手足が動かない。
「あ、ああッ。ああ、アアアッ」
道雄が顔を向けると、木山との距離は既にあと数米突という所まで縮まっていた。だが、そこまで来た所で木山の足が止まる。床に溢れた道雄の尿に気付いたのだ。木山が自分の足元を静観している隙をつき、道雄は持仏堂の障子を勢い良く開くと、その場から駆け出した。既に理性を失い、狂乱した道雄は、小便を漏らした事など当に忘れていた。ただ、迫り来る恐怖から逃げる。その一心で、彼は野犬のごとき雄叫びを上げて、夜の帳へと消えて行った。
その様子を黙って見ていた木山は、踵を返すと、持仏堂の中を歩き出す。夥しい血と、無数の人骨が散乱する部屋を横切り、彼は壁に掛けられた黒いシルクハットを手に取った。それを目深に被ると、木山は独り持仏堂の中を歩き、障子に手を掛ける。
そして、木山もまた、暗い竹林の中を静かに歩き出す。茶色い革靴が乾いた腐葉土を踏む音を聞きながら、彼は吹き付ける凍て風に身を震わせた。