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約束のキス

「今日は髪型が違うんだね」

「あ、……はい。みっともないかと思ったんですけど、いつもより癖がおとなしかったから、おろしてみたくて……」

「とてもかわいいよ」

「も、もさもさなのに?」

「もさもさでかわいい」

 ロッテは赤くなりながら頬をふくらませた。

「それ、褒めてないです。女の子にもさもさだなんて」

「褒めてるよ」

 エルヴィンは穏やかな微笑を絶やさない。

 ティーテーブルに向き合って座っているから、そんなふうに見つめられると視線も顔色もごまかせなくて、ロッテは困る。

(この話題は……避けたいわ)

 顔が燃えそうだから。

 ゲスティングラスの居間には、華やかな紅茶の香りが漂っている。

 エルヴィンに逢うのは、彼が店に来てから二度目のこと。

 あの日、幸福のアーモンドを引き当てた彼に「また逢いたい」と言われて、断れなかった。

 アーモンドのせいにしたけれど、本当はそうじゃないとわかっていた。ロッテも逢いたかったのだ。

 彼はまた逢いにきてくれた。とてもうれしかった。そんなふうになるのはだめだと思っても、その気持ちには逆らえなかった。

 エルヴィンに誘われて、ロッテは伯爵家の馬車に乗った。彼の手を取って。どうなるのかも、どうしたいのかも決めかねているまま――。

 そして三週間ぶりにゲスティングラスを訪れたのである。今度は客人として。

「もっとにぎやかになってるかと思ったのに、エルヴィンさまの従僕の方以外は誰もいないんですね」

「祖母が雇った通いのメイドだけで充分だよ。ここを使うのはきみに逢うときだけにしようと思ってるし」

「そ、そうなんですか……?」

「もちろん伯爵邸のほうにも遊びに来てもらいたいけど。向こうには祖母がいるから、きみが気兼ねすると思って。ここなら人目を気にせず話せるし……」

 何を返せばいいかわからなくて、ロッテは結んだ唇を波打たせた。カップの持ち手にかけたままの指先まで赤くなってしまう。

 その手を、エルヴィンの手がやわらかく包みこんだ。

「ロッテ。ぼくのことを貴族じゃなく、ただのエルヴィンとして見ることはできない……?」

「……わかりません」

「わからない? 本当に?」

 本当に? 自分で自分の心に尋ねる。本当にわからないんだろうか?

 胸が、こんなに期待ではずんでいるのに。こんなに甘酸っぱく、せつなく、彼の言葉によろこんで、ときめいているのに。

「外では……わかりません。でも、たぶん……ここでなら……できるかもしれない」

 ふたりきりでなら……。

「じゃあ、ここから始めよう。少しずつ外に出て行けるようになればいい」

エルヴィンが微笑む。ロッテは顔に血がのぼるのを感じる。

「父から聞いたんだけど、ジークフリート王子の恋人は庶民の女性なんだって。彼の大叔父のゲアハルト大公の妻と同じようにね。ゲアハルト大公は貴賎結婚のために王位継承権を捨てたけど、ジークフリート王子のフィアンセは未来の王妃になるはずだよ。それが時代の流れだから」

 ゲアハルト大公のことは、ロッテもよく知っている。乙女が夢見る恋物語のヒーローだから。

 屋敷に引きこもっていたエルヴィンには初耳だったようだが、ジークフリート王子の身分違いの恋の件も、連日のように新聞を騒がせている。こちらも庶民の注目の的だ。

 エルヴィンの親指の腹が、ロッテの手の甲をそっと撫ではじめた。

 その触れ方が妙にこそばゆくて、固くなったロッテの体をかすかに震わせる。

「王子に許されることが、ぼくに許されないとは思えない。きみが勇気を持ってくれさえすれば、ふたりでどんな未来だって描けるはずだよ」

 未来、という言葉をどう受け取っていいかわからぬままに、ロッテの意識はよろめいた。

 乙女を惑わす口説き文句を吐いた自覚があるのかないのか、彼はさらりと話題を変える。

「昨日、母から手紙が来たんだ」

「……あ、よかったですね。お元気そうですか?」

「うん。きみのことを書いたら、ぜひ逢ってみたいって。きみの都合がよければ、雪がとけたころに一緒に行かないか? とても景色がいいところみたいだよ」

「そ、そう……ですね……」

「母にはもう何年も逢っていなくて……正直なところ、顔を合わせるのに勇気が要りそうなんだ。きみが一緒に来てくれれば心強いと思う。きみのことをきちんと紹介したいしね」

「紹介……」

「気が進まない?」

「……っていうか、自信がなくて……」

「自信?」

 ロッテはうつむいて肩を落とした。

「だって……、大事なひとり息子の恋人がわたしじゃ、エルヴィンさまのご両親にはがっかりされそうで……」

「じゃあ、恋人やめる?」

「え……っ。もうやめたくなったんですね、エルヴィンさまは……」

「そうじゃないよ。恋人じゃなく婚約者として逢えば、少しは自信がつくかと思って」

「なななななな何言ってるんですかっ」

 動揺のあまり紅茶カップを投げつけそうになった。

(落ち着いて、ロッテ!)

 これはきっと、言葉の綾とか、冗談とか、前倒しのエイプリルフールとか、そういう類の発言なのだだ。……冗談でそんなことを言うような人じゃない、とは思うけれど。

「そ、そんなことより……早く服を脱いでください。せっかくここまで来たのに、しないで帰るわけにいきませんから、わたし……」

 耳元の髪を耳にかけて、ロッテは物憂げに言った。長い毛先をいじりながら伏目がちに頬を染める。

 口元にカップを運びかけていたエルヴィンが、動きを止めて目を見ひらいた。

「……本気?」

 ロッテは恥ずかしそうにうなずいた。

 お互いの喉が、こくん、と鳴った。



「男なんだからシャツくらい気前よく脱いでくださいよ!」

「き、きみは知らないだろうけど、男だって恥ずかしいんだよ……」

「どこが恥ずかしいんです? エルヴィンさまの胸なんかぺったんこじゃないですか」

「……理不尽だ……」

「あっ、今、『ロッテの胸だってぺったんこのくせに』って思いましたね!?」

「お、思ってないよっ」

「否定するところが怪しいっ!」

 最近、わかったことがある。口数が増えるときのロッテは照れているのだ。

 それがわかっても、その唇から繰り出される言葉のつぶてには圧倒されてしまうのだけど。

 素肌の胸元が心許ない。ボタンの開いたシャツを持て余しながら、エルヴィンは最後の抵抗を試みた。

「も、もういいよ、そこまでで。あとは自分でするから……」

「何言ってるんですか。まだ腕を上げたり体をひねったりすると痛いんでしょ。食事はともかく入浴が大変でおざなりになってるって言ってたじゃないですか。冬だからってあんまり洗わないと痒くなっちゃうんだから!」

「……はい」

 盥の湯気がロッテの剣幕で散らされていく。湯で湿らせた布を振り回す彼女は、まるで生贄の子豚をつかまえようとしている悪い魔女だ。

 ……半裸の状態で長椅子に座らされ、体を拭かせろと迫られているにすぎないのだが。

 そんなのは従僕にやってもらうからきみが手を貸す必要はない、と断ればいいのに、正直に言えずにいる。

 大胆すぎる展開に怖気づいている反面、まんざらでもないと思っているから。

 照れているのをごまかそうとしている顔がとてもかわいくて、もっと見ていたいから。

 そのまま包帯を巻いた真っ平らの胸を凝視されていると思ったら、ロッテの表情は一気に曇ってしまった。

 澄んだ瞳がみるみる涙に濡れていく。

「ロッテ――」

「もう心配させないでください」

「……させないよ」

 落ち着かせるように、その細い手首をそっとつかんで、泣き顔を覗き込む。

 その顔に吸い寄せられながら、ゆっくり瞼が落ちていく。

 とん、と軽く唇を合わせると、ロッテは目をみはって固まった。

「あ……」

「ご、ごめん、つい……」

「つい?」

「キスしたくなって……」

「……つい、とか、いやです」

「ごめん!」

「つい、じゃなくて……、ちゃ、ちゃんと……してください」

 はにかんだような上目遣いで言われて、理性が飛びかけた。けれど同時に胸の奥がせつなく鳴って、それが見えない手錠みたいに体内の獣を制御する。

 シャツを脱ぎかけた姿でキスするなんて、紳士のすることじゃない。でも、この場所での女王さまは彼女で、彼女が法律で、自分は彼女の決めたことならなんでも従う愚かな民だ。

 頬に手を添え、伏せていく睫毛に誘われるように顔を寄せる。

 みずみずしい果肉を思わせる唇をゆっくりついばんでから、薔薇色に染まった顔に、耳に、軽いキスを繰り返す。悪魔のキスは情交のプレリュードだったが、今は違う。ただ愛おしくて、口づけにはいられない。

 長々としたキスの雨の途中で、ふいにロッテが体を引いた。

「待って……。そ、その格好じゃ寒いでしょう? すぐ済ませますから……」

 当初の目的を果たさなくてはと思ったのか、ロッテの手が――正確には布が――肩のうしろを撫ではじめた。

 エルヴィンは腰の底が熱くなっていくのを感じて、少しうろたえた。

「ロ、ロッテ……、まずい、よ……」

「なに、が……?」

「ン……、ぼくが……」

「これは、まずくないですか……? こうするのは……?」

「う……ん、気持ちいい……」

「あ、エルヴィンさま、動いちゃだめ……っ」

「ごめ……ん、体が勝手に、動いて……」

「じっとしてて……ちゃんとできないから……」

「ロッテ……」

「や……っ、そんな耳のそばでしゃべったら……」

「えっ、な、何?」

「く……くすぐったいです……」

「そ、そっか、ごめん」

「あっ、離れないで……手が届かなくなっちゃうから」

「む、難しい……よ。こんなに近づいてるのに、そばでしゃべらないなんて……」

「わかってる……けど……」

「……」

「……」

 ロッテは体を拭こうとするが、恥ずかしそうにうつむいているせいで、ほとんどまともに動けていない。

 そんなことはもういいから別の部屋に行かないか、と言いたくなってしまう。もっとやわらかくて、くつろげる暗がりに……。

 いっそ抱き上げて行ってしまおうか? 彼女もそれを望んでいるのでは?

 ……思うだけで、口にはしないが。まだ怪我人でもあることだし。

(でも、もう少しだけなら……)

 熟した林檎みたいな耳元に、エルヴィンは唇を寄せてみた。

「ロッテ……きみにもっと触れたい」

 内緒話のようにささやけば、ロッテは背筋をなぞられたみたいにびくっと肩を縮める。

「えっ、だ、だめです」

「そ、か……」

「だめ」

「わ、わかった、触らないから」

「違うのっ」

「何が違う……?」

「だめっていうのは、いやなんじゃなくて、その、は、恥じらいっていうか……」

「う……ん……?」

「だから、いやなんじゃなくて……いやなんじゃないの」

「――ロッテ……こっちに来て」

 エルヴィンはロッテの腰を抱き寄せて、自分の膝に横抱きに乗せた。やわらかい臀部の肉が、張りつめた腿の上でわずかに押しつぶされる。

 それ以上近づかれたらまずいが、これ以上遠ざけておきたくない。

「こうすれば寒くないから」

「……わたしは熱いです」

 言い訳にもなっていない理由づけに、ロッテは真っ赤になってつぶやいた。同感だ。

 唇を見つめれば、ロッテは瞼を閉じてくれる。

 重ねた唇の下で舌先が出合った。甘く濡れていて、溶けてしまいそうにやわらかくて、気が遠くなる。

 腰に添えていた手で、ピンクのドレスの脇腹を撫でた。その手を胸のふくらみの始点に添えると、ロッテは少し震えたけれど、いやがらなかった。

 簡単には触れたくないと思う一方で、ケーキにフォークを入れるように壊してしまいたくなる。そうして丸ごと食べてしまいたくなる。

 でも、何ごとにも紳士のマナーというものがある。無造作に飲み込んでしまったら、幸福のアーモンドは永遠に見つけられない。

(ぼくのかわいい人)

 彼女がケーキで、彼女の心が幸福の種。それなら味わい方はおのずと決まる。

 壊さないよう、大切に。

「あっ……」

「えっ、痛かった?」

「ううん……」

「このくらい……? このくらいなら痛くない?」

「痛く、ないけど、変な……感じ……」

「え、や、やめる?」

「や」

「……」

「や、ん、くすぐったい。や、きゃあっ、ああ、ン、やんン……っ」

「い、いやなのか?」

「ううんっ」

「ぼくの手、止めてるから……」

「と、止めちゃうの、勝手に」

「……じゃあ触ってもいい?」

「う、うん……」

「触るだけ……だから」

 無数のキスの合間に、無数の鼓動が胸を叩く。

 初めての恋人の肌は、どこに口づけても砂糖のように甘くて、真冬の暖炉のようにあたたかい。

 愛撫の刺激に震えていたロッテが、少しずつ控えめにキスを返してくれる。口に、髪に、うなじに。

感嘆の吐息がエルヴィンの唇をこぼれ落ちた。

 胸の中の獣は甘美な気だるさに恍惚としている。それは百の戒律よりも、千のいましめよりも甘い枷。

(ずっとこうしていたい)

 こんなに離れがたいのに、今夜もひとりで眠るなんて信じられない。

 やがて呼吸と体温の限界に達して、エルヴィンは長椅子の背もたれに倒れ込んだ。同じようにぐったりしたロッテの体が胸にしなだれかかってくる。乱れた呼吸を整えるように深く吐息しながら、小さな肩がふるりと震えた。

 手放せない、甘い恋人。その髪を撫でて、エルヴィンはささやく。

「ロッテ……結婚しよう」

「――そんな……急に……」

「きみと毎日こうしたい」

「そ、それが理由?」

「理由のすべてじゃないよ。でも、取るに足らない一部でもない。きみのすべてと愛し合いたいから。一日の終わりと、一日の始まりにきみに逢いたい。昼も夜も一緒にいたい」

 洗いざらい告白してしまうと、胸の上でロッテがあえぎはじめた。

「待って……ください、息ができない……」

「えっ、大丈夫!?」

「そんなにいっぱい言っちゃ、だめ……。胸がつまっちゃうから……」

「じゃあ、今日はこのくらいで。つづきは明日だね」

 エルヴィンは笑みを浮かべて、息も絶え絶えの恋人の額に約束のキスを落とした。


<了>


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