きしめんとアリア
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おかしな出会いから一か月。私は大学内の購買で、パンを買っていた。購買から出て、青々した芝生に配されたベンチへと向かう。持参した自家製コーヒーを片手に、音楽雑誌をめくった。とある記事に手を止める。
「〇〇コンクール優勝、才川環、N響コンマスに……」
あの若さでコンマス。すごい。私が記事に見入っていたら、ふっ、と影が落ちた。顔をあげると、美しい顔がこちらを見下ろしている。雑誌を見ても同じ顔。
「環さん!?」
私が声をあげたら、環が耳をふさいだ。
「その声は高すぎる」
「あ、すいません……なぜここに?」
「呼ばれたから」
彼はそう言って、私のとなりに腰掛けた。呼ばれたって誰にだろう。とりあえず、賛辞を送る。
「すごいですね、コンマスだなんて」
「すごい? なにが」
「実力がないとできないし」
「実力のないバイオリニストはプロにはなれない」
「そ、それはそうかもしれませんが」
会話しづらい。というか、多分会話する気がないのだ。天才って、みんなこんな感じなのだろうか。
「君は? 実力があるのか?」
「え?」
「聞いてみたい」
「いま、ですか?」
「バイオリンがあるんだから弾けるだろう」
私はバイオリンをケースから出し、構えた。環はじっとこちらをみている。私は気まずさを覚えながら、演奏を始めた。バッハ作曲、G線上のアリアだ。弓を下ろし、環の反応を伺う。彼は腕を組み、寝息を……。寝息?
「ねてる!?」
私が肩を揺さぶると、環がうっすら目を開けた。彼はんー、と伸びをし、眠そうに目をこすった。
「入眠にはうってつけの演奏だ」
「そ、それほどつまらなかったですか……」
「耳触りでないだけいい」
毒にも薬にもならない、というやつか。当たり前だ。世界でも実力を認められるようなバイオリニストからしたら、私の演奏など取るに足りないだろう。
「技術的な面を二つ忠言する」
環はベンチから立ち上がり、私の背後に立った。彼の長い指が肘に触れる。心臓がとくん、と音を立てた。
「肘が上がりすぎだ。癖か?」
「はい、緊張すると……」
「緊張? なぜ」
「そりゃあ、雑誌に載るような人に演奏を聞かれたら、緊張します」
「理解できない」
「羨ましいです」
才川環、才豊かにして人の心を知らず……。勝手に句を作ってしみじみしていたら、環の指が私の唇に触れた。
「何か付いてる」
「多分クリームです。さっき、クリームパンを食べたから……」
そう言っている最中に、環の髪が額に触れた。ぺろ。唇の端に、湿った感触。私は目の前にある綺麗な顔を凝視する。それからパクパクと口を動かした。
「な、舐め……」
「甘い」
環が唇をなめあげる。環が唇をなめあげる。私は環から後ずさった。
「こないだもキスしましたよね、いくらなんでも、し、失礼だと思います!」
「あれは礼だ」
「なぜキスがお礼になるんですか」
「知らないが、周りの女がよくキスしろと言ってくる。言われた通り、キスすると喜ばれる」
あまりにも自信過剰な物言いだが、環の顔に誇張の色はない。事実にしても、私には理解不能な価値観だ。彼の形のいい唇が目に入ると、かあっと顔が熱くなった。
「私は、喜びません」
「そうか。何なら喜ぶ?」
私は、自分のバイオリンを差し出した。
「演奏を、聞きたいです」
「わかった」
環は私のバイオリンを受け取り、肩に乗せた。G線上のアリア。同じ曲だから、残酷なまでに差が出てしまう。自分の実力を見せつけられるのは、辛いものがあった。それでも、私はその演奏に聞き惚れてしまった。嫉妬するのを忘れるほど、環の演奏は素晴らしかったのだ。
いつの間にか、ギャラリーが集まってきていた。まるで、ハーメルンの音楽隊のようだ。環は一人だけど。周りから、ひそひそ囁く囁く声が聞こえてくる。
「あれ、才川環じゃない?」
「やだ、写真よりイケメン〜」
「なにしてんだ?」
「ほら、N響のコンマスになったから、帰国したんじゃない?」
演奏が終わると、わっ、と歓声があがる。
「才川さん!」
事務長が、慌てた様子でこちらに駆けてきた。学生を掻き分けるようにして近づいてくる。
「こちらにいらしたんですか。学長がお呼びです」
環は私にバイオリンを返し、事務長と一緒に歩き出した。
「サインもらえばよかった〜」
「学長、何の用だろ」
私は、バイオリンを見下ろした。この子が、あんなに美しい音を出せるなんて知らなかった。なんだか申し訳なくなり、表面を撫でてごめんね、と呟いた。
★
後日、環が特別講師として採用された旨が掲示板に張り出された。
「これから毎日、環さまの姿が拝めるのね〜」
「いや、毎日来るわけねーだろ。週一コマくらいじゃん?」
特別講師……。こう言ってはなんだが、環が他人に教えることなんてできるのだろうか。私が心配することではないだろうけれど。講義室へ向かおうと踵を返したら、誰かにぶつかった。
「あ、ごめんなさい……」
見上げたら、環が立っていた。彼はむすりとした顔をしている。どうかしたのかと尋ねたら、彼は無愛想に答えた。
「きしめんがない」
「はい?」
「学食だ。なぜきしめんがない?」
「あれは、名古屋の食べ物ですから」
「名古屋にあるものがなぜ東京にないんだ」
特産物って、そういうものだけれど。
「きしめん、気に入ったんですね」
地元民としては少し嬉しい。
「どこかに売っていないのか?」
「スーパーとかなら、多分あると思いますが」
「ではスーパーに行こう」
「いや、今から講義が、ちょっ」
環は私を引きずるようにして、連れて行った。学外に出て学外に出てタクシーに乗り込んだ環は、運転手に告げた。
「スーパーに行ってくれ」
「スーパー? ニコニコスーパーでいいですか?」
「ああ」
運転手は鏡ごしに環を見る。
「あれ。 お兄さん、見たことあるね」
それから声を明るくした。
「あ、雑誌だ。うちの子ピアノやっててね、バイオリンの……」
「黙ってくれ」
環が冷たく言った。
「あなたの声は耳触りだ」
運転手さんの、驚いたような表情がミラーに映った。それから、困ったように笑う。
「いやあ、すまないね。ちょっと病気したもんで……声が枯れてるんだ」
私はハッとして、環を睨みつけた。
「謝ってください」
「なぜ」
「いいから謝って!」
環は面食らったように私を見た。意外にも、運転手さんに向かって素直に頭をさげる。
「……申し訳ない」
「すいません、悪気はないんです」
私は、環と一緒に頭を下げた。運転手さんは明るく笑う。
「あはは、奥さん大変だねえ」
「お、奥さんじゃないです」
タクシーがスーパーの前に止まる。
「ついたよ。お幸せにね」
「だから奥さんではな……」
私の脇から、環がぬっ、と紙幣を差し出した。
「釣りはいらない」
「おおっ、お兄さん太っ腹だね!」
私と環はタクシーから降りる。環は私をちらりと見て、
「喜ばれた」
まるで、暴言が帳消しになったかのような物言いだ。
「だからって、ああいうこと言ったらダメです」
「わかった。だから早くきしめんを買おう」
どれだけきしめんが好きなのよ、この人は。買い物を終えた私に、環は君の家へ連れて行け、と言った。
「僕の家には調理器具がない」
「どうやって暮らしてるんですか?」
「外食」
彼の自宅周辺は、かなりの黒字だろう。お釣りをもらわないし。考えてみたら、男性を自宅に招くのは初めてだ。なんだか緊張してきた。自然に上がりかける肩を押さえこみ、台所へ向かう。きしめんを調理して戻ると、環が棚に並んだCDを眺めていた。
私はテーブルにお盆を乗せ、私はテーブルにお盆を乗せ、お待たせしました、と告げる。環は黙々ときしめんを食べる。環は黙々ときしめんを食べる。
「お店とは違うでしょう?」
「確かに違う。でも、味は問題じゃない」
「え?」
「多分僕は……君ときしめんを食べたかったんだ」
私はかあっ、と赤くなった。
「な、なにを、言ってるんですか」
「顔が赤い。熱か?」
「違います」
私は慌てて食器をシンクへ運んだ。環が後ろに立った気配がする。彼は私の身体に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。私はびくりと身体を揺らす。
「あの、は、離れて」
「心拍数が高い。アジタートだ」
「そんなこと……」
どくん、どくん。心拍数は上がっていく。環のせいだ。
環が後ろに立った気配がする。彼は私の身体に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。私はびくりと身体を揺らす。
「あの、は、離れて」
「心拍数が高い。アジタートだ」
「そんなこと……」
どくん、どくん。心拍数は上がっていく。環のせいだ。
「こ、こういうのこまります。私、慣れてないから」
「僕も慣れていない。普段なら、他人と触れ合いたいとは思わない」
「僕も慣れていない。普段なら、他人と触れ合いたいとは思わない」
彼は気まぐれで口にしただけだろうに、その言葉を本気にしてしまいそうで、私はぎゅっと目を瞑る。彼の指先が顎に触れて、私はうわ向かされた。
環が唇を重ねてくる。唇を離し、唇を離し、
「きしめんを作ってくれたお礼だ」
「そ、んなの、いらないです」
「もっと?」
「だから、違います、ん」
また唇が重なる。彼の唇は、きしめんの味がした。