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きしめんとアリア

 ★



 おかしな出会いから一か月。私は大学内の購買で、パンを買っていた。購買から出て、青々した芝生に配されたベンチへと向かう。持参した自家製コーヒーを片手に、音楽雑誌をめくった。とある記事に手を止める。


「〇〇コンクール優勝、才川環、N響コンマスに……」


 あの若さでコンマス。すごい。私が記事に見入っていたら、ふっ、と影が落ちた。顔をあげると、美しい顔がこちらを見下ろしている。雑誌を見ても同じ顔。


「環さん!?」

 私が声をあげたら、環が耳をふさいだ。

「その声は高すぎる」

「あ、すいません……なぜここに?」

「呼ばれたから」


 彼はそう言って、私のとなりに腰掛けた。呼ばれたって誰にだろう。とりあえず、賛辞を送る。


「すごいですね、コンマスだなんて」

「すごい? なにが」

「実力がないとできないし」

「実力のないバイオリニストはプロにはなれない」

「そ、それはそうかもしれませんが」


 会話しづらい。というか、多分会話する気がないのだ。天才って、みんなこんな感じなのだろうか。


「君は? 実力があるのか?」

「え?」

「聞いてみたい」

「いま、ですか?」

「バイオリンがあるんだから弾けるだろう」


 私はバイオリンをケースから出し、構えた。環はじっとこちらをみている。私は気まずさを覚えながら、演奏を始めた。バッハ作曲、G線上のアリアだ。弓を下ろし、環の反応を伺う。彼は腕を組み、寝息を……。寝息?


「ねてる!?」


 私が肩を揺さぶると、環がうっすら目を開けた。彼はんー、と伸びをし、眠そうに目をこすった。


「入眠にはうってつけの演奏だ」

「そ、それほどつまらなかったですか……」

「耳触りでないだけいい」


 毒にも薬にもならない、というやつか。当たり前だ。世界でも実力を認められるようなバイオリニストからしたら、私の演奏など取るに足りないだろう。


「技術的な面を二つ忠言する」


 環はベンチから立ち上がり、私の背後に立った。彼の長い指が肘に触れる。心臓がとくん、と音を立てた。


「肘が上がりすぎだ。癖か?」

「はい、緊張すると……」

「緊張? なぜ」

「そりゃあ、雑誌に載るような人に演奏を聞かれたら、緊張します」

「理解できない」

「羨ましいです」


 才川環、才豊かにして人の心を知らず……。勝手に句を作ってしみじみしていたら、環の指が私の唇に触れた。


「何か付いてる」

「多分クリームです。さっき、クリームパンを食べたから……」


 そう言っている最中に、環の髪が額に触れた。ぺろ。唇の端に、湿った感触。私は目の前にある綺麗な顔を凝視する。それからパクパクと口を動かした。


「な、舐め……」

「甘い」


 環が唇をなめあげる。環が唇をなめあげる。私は環から後ずさった。


「こないだもキスしましたよね、いくらなんでも、し、失礼だと思います!」

「あれは礼だ」

「なぜキスがお礼になるんですか」

「知らないが、周りの女がよくキスしろと言ってくる。言われた通り、キスすると喜ばれる」


 あまりにも自信過剰な物言いだが、環の顔に誇張の色はない。事実にしても、私には理解不能な価値観だ。彼の形のいい唇が目に入ると、かあっと顔が熱くなった。


「私は、喜びません」

「そうか。何なら喜ぶ?」


 私は、自分のバイオリンを差し出した。


「演奏を、聞きたいです」

「わかった」


 環は私のバイオリンを受け取り、肩に乗せた。G線上のアリア。同じ曲だから、残酷なまでに差が出てしまう。自分の実力を見せつけられるのは、辛いものがあった。それでも、私はその演奏に聞き惚れてしまった。嫉妬するのを忘れるほど、環の演奏は素晴らしかったのだ。


 いつの間にか、ギャラリーが集まってきていた。まるで、ハーメルンの音楽隊のようだ。環は一人だけど。周りから、ひそひそ囁く囁く声が聞こえてくる。


「あれ、才川環じゃない?」

「やだ、写真よりイケメン〜」

「なにしてんだ?」

「ほら、N響のコンマスになったから、帰国したんじゃない?」


 演奏が終わると、わっ、と歓声があがる。


「才川さん!」


 事務長が、慌てた様子でこちらに駆けてきた。学生を掻き分けるようにして近づいてくる。


「こちらにいらしたんですか。学長がお呼びです」


 環は私にバイオリンを返し、事務長と一緒に歩き出した。


「サインもらえばよかった〜」

「学長、何の用だろ」


 私は、バイオリンを見下ろした。この子が、あんなに美しい音を出せるなんて知らなかった。なんだか申し訳なくなり、表面を撫でてごめんね、と呟いた。


 ★


 後日、環が特別講師として採用された旨が掲示板に張り出された。


「これから毎日、環さまの姿が拝めるのね〜」

「いや、毎日来るわけねーだろ。週一コマくらいじゃん?」


 特別講師……。こう言ってはなんだが、環が他人に教えることなんてできるのだろうか。私が心配することではないだろうけれど。講義室へ向かおうと踵を返したら、誰かにぶつかった。


「あ、ごめんなさい……」


 見上げたら、環が立っていた。彼はむすりとした顔をしている。どうかしたのかと尋ねたら、彼は無愛想に答えた。


「きしめんがない」

「はい?」

「学食だ。なぜきしめんがない?」

「あれは、名古屋の食べ物ですから」

「名古屋にあるものがなぜ東京にないんだ」


 特産物って、そういうものだけれど。


「きしめん、気に入ったんですね」


 地元民としては少し嬉しい。


「どこかに売っていないのか?」

「スーパーとかなら、多分あると思いますが」

「ではスーパーに行こう」

「いや、今から講義が、ちょっ」


 環は私を引きずるようにして、連れて行った。学外に出て学外に出てタクシーに乗り込んだ環は、運転手に告げた。


「スーパーに行ってくれ」

「スーパー? ニコニコスーパーでいいですか?」

「ああ」

 運転手は鏡ごしに環を見る。

「あれ。 お兄さん、見たことあるね」

 それから声を明るくした。

「あ、雑誌だ。うちの子ピアノやっててね、バイオリンの……」

「黙ってくれ」


 環が冷たく言った。

「あなたの声は耳触りだ」

 運転手さんの、驚いたような表情がミラーに映った。それから、困ったように笑う。

「いやあ、すまないね。ちょっと病気したもんで……声が枯れてるんだ」


 私はハッとして、環を睨みつけた。


「謝ってください」

「なぜ」

「いいから謝って!」


 環は面食らったように私を見た。意外にも、運転手さんに向かって素直に頭をさげる。


「……申し訳ない」

「すいません、悪気はないんです」

 私は、環と一緒に頭を下げた。運転手さんは明るく笑う。


「あはは、奥さん大変だねえ」

「お、奥さんじゃないです」

 タクシーがスーパーの前に止まる。

「ついたよ。お幸せにね」

「だから奥さんではな……」


 私の脇から、環がぬっ、と紙幣を差し出した。


「釣りはいらない」

「おおっ、お兄さん太っ腹だね!」

 私と環はタクシーから降りる。環は私をちらりと見て、

「喜ばれた」

 まるで、暴言が帳消しになったかのような物言いだ。


「だからって、ああいうこと言ったらダメです」

「わかった。だから早くきしめんを買おう」


 どれだけきしめんが好きなのよ、この人は。買い物を終えた私に、環は君の家へ連れて行け、と言った。


「僕の家には調理器具がない」

「どうやって暮らしてるんですか?」

「外食」


 彼の自宅周辺は、かなりの黒字だろう。お釣りをもらわないし。考えてみたら、男性を自宅に招くのは初めてだ。なんだか緊張してきた。自然に上がりかける肩を押さえこみ、台所へ向かう。きしめんを調理して戻ると、環が棚に並んだCDを眺めていた。


 私はテーブルにお盆を乗せ、私はテーブルにお盆を乗せ、お待たせしました、と告げる。環は黙々ときしめんを食べる。環は黙々ときしめんを食べる。


「お店とは違うでしょう?」

「確かに違う。でも、味は問題じゃない」

「え?」

「多分僕は……君ときしめんを食べたかったんだ」


 私はかあっ、と赤くなった。


「な、なにを、言ってるんですか」

「顔が赤い。熱か?」

「違います」


 私は慌てて食器をシンクへ運んだ。環が後ろに立った気配がする。彼は私の身体に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。私はびくりと身体を揺らす。


「あの、は、離れて」

「心拍数が高い。アジタートだ」

「そんなこと……」


 どくん、どくん。心拍数は上がっていく。環のせいだ。


環が後ろに立った気配がする。彼は私の身体に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。私はびくりと身体を揺らす。


「あの、は、離れて」

「心拍数が高い。アジタートだ」

「そんなこと……」


 どくん、どくん。心拍数は上がっていく。環のせいだ。


「こ、こういうのこまります。私、慣れてないから」

「僕も慣れていない。普段なら、他人と触れ合いたいとは思わない」

「僕も慣れていない。普段なら、他人と触れ合いたいとは思わない」


 彼は気まぐれで口にしただけだろうに、その言葉を本気にしてしまいそうで、私はぎゅっと目を瞑る。彼の指先が顎に触れて、私はうわ向かされた。

 環が唇を重ねてくる。唇を離し、唇を離し、


「きしめんを作ってくれたお礼だ」

「そ、んなの、いらないです」

「もっと?」

「だから、違います、ん」


 また唇が重なる。彼の唇は、きしめんの味がした。

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