九話 十二月十六日 その二
一二月十六日 その二
神楽坂翔一は、子供の頃から不思議な能力を持っていた。それに気がついたのは、小学校に通っている時、友達に言われたことがきっかけだった。
「しょういち君の声って、なんか凄い」
神楽坂は彼の言っている意味がわからなかった。無言でそれを伝えると、友達は続けた。
「しょういち君の言うことって、なんだか心に残るんだよ。しょういち君と話してると、なんだか楽しいんだ。なんでもないことでも、楽しいんだ」
その頃から、神楽坂の周りには男女問わずたくさんの友達がいた。それが不思議だと思ったことはなかった。それが普通だと思っていた。
だが年をとるにつれて、それが自分の力から引き起こされている現象だと気づいていった。人は、彼の言葉に強く影響される。それが友達の言うように声のおかげなのか、抑揚のつけかたとか、間の取り方とか、喋り方によるのか、表情や仕草のためなのかはわからなかったが、他人は彼に魅力を感じ、必要以上に周りに集まってきた。
とにかく、神楽坂は人気者だったのだ。
たしかに、学校の成績は悪くなかったし、スポーツも得意な方だ。それに頻繁に女子から告白されたから、容姿も優れているうちに入るのだろう。
だからといって、彼以上に優秀な人間がいなかったわけではない。もっと学業の成績がよくスポーツ万能な者はたくさんいた。
しかし、神楽坂は常に人の輪の中心にいた。それを求めたことはないが、彼の意思とは関係なく、周りの子供達は徐々にその感情を、親しみから崇拝までに変えていった。
中学校の頃はそれらの現象に嫌気を感じていた。求めなくても与えられるものには時に辟易してしまうものだ。神楽坂は人間に興味を持てなくなっていった。
それに反比例して、彼は芸術への関心を深めていくことになる。美しいものを追求することは何よりも高尚な行為だと思った。人を遠ざけ、たった一人で絵筆を走らせたり、彫刻刀に力を込めることは彼にとって何にも代え難いことだった。芸術は、神楽坂少年にとって、最も重要だった。
だから、このサークルを作るにあたって、自分から人を求めるというのは新鮮な気分だった。自分には人を集める才能が確かにあると思う。事実集まったサークルのメンバーは、あらゆる面で優秀な者ばかりだった。
この一つの大学という限定された集団の中で、これほどまでの人材を集められたのは奇跡という他ない。しかし神楽坂には自然に奇跡がおこせるのだ。
彼は午後の五時前、西洋の館風の建物の前に一人で立っていた。ここは蝋人形美術館だ。周りにあまり人気はない。開館して間もないというのに、あまり入場者は多くないようだ。
美術館の様相がどこか陰気な雰囲気をかもし出しているのにも原因があるのかもしれない。建物は新しいのだが、寂れた感じを受けるのは、蝋人形という、あまり明るいといえない見世物の特性からだろう。この館はまるで廃屋だ。いや、見た目がそうだというわけではなく、中身が空虚な印象があるのだ。魂がない蝋人形が占拠する館内には、人間の気配が感じられない。冬という寂しげな季節柄があるのかもしれないが。
だが中に入ればまた違うのかもしれない。むしろ人が多い気がして落ち着かなくなるのかもしれない。それはまだわからない。
「神楽坂さん」
後ろから声がした。そちらを見ると、東が一人で立っていた。てかてかと光りを反射する、肉厚のジャンパーを着ている。下はジーンズだった。
「他の奴らは来てないんですか。俺が最後かと思ったのに」
「まだ時間は五分ほどあるよ。それに、少しぐらい遅れたってクロノスは怒らない」
「そりゃ神様が俺達ごときに怒ってたら戦争は起こりませんって」
東はからからと笑った。彼はジャンパーのポケットから手を出して、白い息を吹きかけごしごしとこすった。
神楽坂は、彼の何気ない動作から、何かの違和感を感じた。何かを隠そうとして、自然に振舞おうという仕草。それはもう一人、楠木からも時折感じることだった。彼らの中に人には言えない隠すようなことがあるのだ。
それは間違いない。神楽坂は知っている。この東という男は自分に似ているのだ。それもかなりの割合でだ。彼には常に親近感を覚える。
神楽坂はその喜びを噛み締めた。
「なんだか陰気臭い建物ですね」
東が美術館を見上げて言った。彼にもそう見えるらしい。
しばらくすると、浅利と楠木が現れた。浅利はいつものダッフルコートで、楠木は見慣れないニット帽を被っていた。
「おせーぞ」東が言った。
「まだ時間まで二分ある」
浅利が無表情で答えた。楠木はただにこにことしている。
空を見上げたみた。雲が先ほどよりも厚くなっていて、黒々としている。一雪来そうだ。
「九藤はまだか、九藤は」
東がそう言ったところで、道路をはさんで向こう側から、九藤が歩いてきた。
九藤が早足で待ち合わせ場所に到着すると、もうメンバーは全員揃っていた。歩きながらあらためて蝋人形美術館を眺めてみると、その洋館のレンガ風の壁や、鉄の細工などは真新しいが、なんだか暗い雰囲気を漂わせているな、と九藤は思った。
「遅いって」東が咎めてきた。
「まだ時間まで二十五秒あるよ」九藤は言った。
「ロボットかお前らは」
お前ら、という複数形に若干の疑問を抱いているうちに、神楽坂が「じゃあ、早速入ろうか」とメンバーを促した。
美術館の入り口はさすがに現代風の、ガラス張りのドアだった。神楽坂がその両開きの簡素な入り口を開け放つと、広いロビーが視界に広がった。
その正面に、一体の蝋人形が設置されていた。古めかしいロッキングチェアーに深々と腰掛けているのは、老人の男性だった。頭髪や口ひげは白く、しわだらけの顔にくわえられているパイプの光沢が眩しく目に映った。
着ている服は、深い茶色のジャケットや、藍色のパンツで、いかにも西洋の老人を思わせた。
「あれが、人形だってのか」
感嘆したように東が言った。たしかにその人形は、遠目で見ているということを差し引いても、まるで本物のように見えた。非常に精巧な作りだ。
中は暖かかったので、コートを脱いで片腕に掛ける。見回すと、入り口の脇の、赤いロープで区切られた道の先に受付があった。そこまで行くと、座っている女性は淡々と全員分の入場料を受け取った。無表情で、無愛想だ。動いていないと、蝋人形と間違えてしまいそうだ。人形に囲まれて生活していると、それらに似てくるのだろうか、と九藤は興味深く思った。
受付を抜けると、正面の老人の人形の両脇に展示室の出入り口があるのに気づいた。右から入るのが順路らしいことが、壁に掛けられた案内でわかった。受付のすぐそばに階段があるが、神楽坂の様子を見るととりあえず一階を見るらしい。
展示室に入ると、異様な光景が広がっていた。部屋を埋め尽くす人、いや人形の数々が目に飛び込んできた。椅子に座っていたり、ベッドに横たわっていたり、立ったまま談笑している様子の人形などがあった。そのいずれも昔の西洋を思わせる服装や髪型をしていた。時代は統一されてはいないが、だいたいの雰囲気はよく演出されている。
周りを見渡してみるが、自分達以外に客はいないようだ。
「しかし外から見ても陰気臭かったけど、中はもっとそうだな」
東が印象を口にした。確かに、本物の人間そっくりな人形がこれほどたくさんあると、不気味と言ってもいい。
「これ、凄いね」
楠木が指を差した先では、四歳くらいの少女が、こちらをじっと見つめていた。
その人形は綺麗なブロンドの髪を後頭部で真っ赤なリボンを使ってとめていた。目の色は青で、表情は微妙だ。笑ってもいなければ泣いても怒ってもいない。ピンクがかったフリルのついた白いワンピースを着ていて、体の前で熊のぬいぐるみを抱きかかえていた。
楠木が凄い、と評した意味がわかった気がした。その少女は明らかにこちらに何か話しかけようとしている。しかし何を話したらいいかわからず、まごついているのだ。思わず「どうしたの?お嬢ちゃん」としゃがみこんで問いかけたくなるようなリアルさがあった。
「凄いな。月並みな表現で悪いが、本当に、生きているみたいだ」
東は言った。率直な感想だが、九藤もそう思う。おそらく、何時間この少女を眺めていても飽きないだろう。丁寧に埋め込まれた頭髪が風になびいたり、この神妙な表情が笑顔に変わったりすることを想像して九藤は楽しんだ。
「なんだろう、妹にしたい感じ」浅利は言った。
「蝋人形、いいな。やっぱり神楽坂さんは、目の付け所が違うな」東は調子良く言った。
「可愛いね。名前、なんていうんだろう」楠木だ。
床に斜めに設置されているプレートには、『ぬいぐるみを持つ少女』としか書かれていない。
「蝋人形は写真や絵から制作する場合と、実際に生きている人間の石膏型を作る場合があるらしいね。この子はどうなんだろう」
神楽坂はまじまじと少女を見つめる。
「生きている人間を蝋で固めて人形を作るって映画もたしかあったね」楠木が言った。
「恐いな、それ」
九藤は言った。映画には詳しくないので初耳だった。
「ふふ」
笑い声は神楽坂が発したものだった。彼は手を口に当てて、押し殺すように笑っている。どこか意味ありげだ。
「どうしたんですか?」
東が不思議そうに訊く。神楽坂は首を振って「なんでもない」とだけ言った。
他の人形も見てみた。ボリュームの大きい髪形で、大きな扇を持っているやたらゴージャスな西洋の婦人や、みすぼらしいボロボロの服を着て、伸ばしっぱなしの髭と髪をした乞食のような男性、ほうきを持って掃除をする使用人の黒人女性など、ほとんどが外国人のようだった。
その中で、目を引く人形があった。ひときわ精巧なつくりで、本物とみまごうかという作品の出来は見事だったが、九藤に興味を抱かせたのは、そのためではなかった。
その人形は日本人、もしくはアジアのどこかの男性だった。しかも、現代風のスーツを着て、姿勢を正し、椅子に座っている。歳は四十代くらいか。
このコーナーは十五世紀から十九世紀あたりのヨーロッパをコンセプトとしていると思っていたので、そういった現代風のサラリーマンのような人形があることは不思議だった。
開館から間もないし、人形の数が足りなくて間に合わせで置いてあるのだろうか。
そんなことを思いながら眺めていると、一瞬九藤は自分の目を疑った。
ごしごしと両目をこすってみる。そしてもう一度見た。やはり錯覚だろうか。そういえば昨日は夜更かしをしていて、寝不足だ。
「どうした?九藤」東が訊ねてきた。
「いや、今、あの人形が瞬きをしたような…」
東がスーツの男の人形を見やった。そして言う。
「お前、ついにおかしくなったか」
「いや、大丈夫だけど」
九藤はまさか、とは思うが、先ほどの楠木の言葉を思い出す。
『生きている人間を蝋で固めて人形を作るって映画もたしかあったね』
自分は何を考えているのだろうとため息をついた。そんなことがあるはずがない。九藤はスーツの人形に歩み寄ってみた。
人形は身動き一つせず、やはり人形だった。思い過ごしだと思い、別の人形を見ようとその人形から背を向けた。
すると、背後から物音がした。
振り向くとスーツ姿の人形が立ち上がっていた。
人形はこちらに向きを変え、愛想よく微笑んで言った。
「ようこそ、蝋人形美術館へ。楽しんでいただけていますか?」
全員がそちらへ注目した。
「人形が」東が言った。
「動いた」楠木が言う。
「喋った」浅利だ。
「最近の人形は凄い」神楽坂がおかしそうに言った。
スーツの人形はあはは、と笑いながら頭を掻いた。画期的な人形だ。
「私、学芸員の坂口と申します。驚かせてしまってすいません」
「おお、人形も学芸員になれるのか」東が驚いた様子で言った。
「え、いえ、なれないと思います」
東の思いがけない言葉に、坂口は冷や汗をかいている。
「と、言うと」東は坂口を見つめた。「あなたは人形ではないんですか?」
「え?あ、はい、人間です。一応」
「なんだ。びっくりした」
東は興味を失ったように他の人形を見ることを再開した。浅利ももう違う方向を見ている。九藤はなんだかその人形、いや坂口という男が可愛そうになって話しかけた。
「あの、どうしてあんなところに座っていたんです?」
「いやね、お客さんを驚かせて喜んでもらおうと思いまして」
坂口は困った様な顔をしてまた頭を掻いた。
「いつからあそこに座っていたんですか?」
「開館からです」
九藤は坂口のその情熱に(方向は間違っている気がするが)少し感心した。
「毎日、こんなことを?」
「ええ、そうです。結構ご好評いただいておりますよ。本当にびっくりしたと。でもあなた人形じゃないんですか、と言われたのは初めてです」
長い時間ああして座っていたことを考えると、申し訳なくなる。
「あいつのことは気にしないでください」気にするだけ無駄だ。「でもこんなことができるなんて、坂口さんって館長さんなんですか?」
「はい、そうです。わからないことがあったら、何でも訊いてくださいね」
坂口はにこにこと目じりにしわをつくりながら言った。
すると神楽坂が「ここの人形、表情があまりないものがほとんどのようですが、それはどうしてなんですか?」と質問した。
「はい、この美術館の蝋人形はですね、ほとんどすべてモデルから直接型をとって作られているんです。ですから、笑った顔などにすることは難しいんですよ。モデルが長時間笑った顔のままでいなければならないですから。不可能ではないんですけどね、実際の人間の表情を完璧にトレースするためにも、そのままの表情にしているんですよ」
「なるほど。ということは、ここの人形はすべて元になった人間がいるということですか」
「あのう」楠木が遠慮がちに声を出した。「あの女の子、名前はなんていうんですか?」
彼女が指を差した方には、ぬいぐるみを抱いた少女がいる。
坂口は申し訳無さそうな顔をした。「モデルさんの名前まではちょっと…イタリアの方だとは聞いていますが…」
「そうですか…」
楠木は興味を失ったようで、坂口から離れて行き、またあの少女を見つめだした。
坂口はあはは、と笑った。「お役に立てず申し訳ありません」
「あいつのことは気にしないでください」
どうして自分がこの男を慰めなければならないのだろうと思いながら、「人形の目って、何でできているんですか?」とたいして気にならないことを質問した。
「はい、目はガラス球でできているんですよ。ちなみに髪の毛は、うちの人形は本物を使っています」
「生え際とか、凄くリアルですよね」
「ええ、一本一本植え込んでいますから。かなり手間隙かかっていますよ」誇らしげに坂口は言った。「この階は主にヨーロッパの文化を中心にして構成しています。二階は現代をモチーフにした人形を展示しています。ご案内しましょうか?」
「いえ、二階はいいですよ」
神楽坂は微笑んでそう言い、坂口から離れていった。
九藤は「あの人のことは気にしないでください」と言った。
坂口と二人きりにさせられた後、九藤はなんとかして会話をもたせようと努力した。坂口も自らが持っている知識を総動員させて九藤に尽くそうとしてくれたようだが、九藤は相槌を打つことに正直うんざりしていた。しかし自分まで黙っては気まずい雰囲気になってしまう。彼はそういうギクシャクした対人関係を何より嫌った。
結構な時間が経過してから、神楽坂が「そろそろ二階に行こうか」と言ったことが、天の恵みに思えた。託宣託宣、と九藤は口の中で呟いた。
深い赤色の絨毯が敷き詰められている、幅の広い階段を上がっている時、東が浅利に話しかけていた。
「な、浅利。美しいだろう、蝋人形はよ」
東は意気揚々と腕を組み、口の端を上げた。
「そうだね。思っていたより楽しめてる」
相変わらず感情のこもっていない、セリフの棒読みのような口調で浅利が言うと、東ははは、と笑い「勝った」と高らかに言った。
「ちょっと待って」浅利がすぐさま言った。「勝ったってどういうこと」
「え?だから俺が言ったことが正しいってことだろうが」
「何を言ったのあんたは。いつも何か言ってるでしょ。くだらないことを」
「だから、この前飲んだ時言ったろ。永遠の美こそ最高なんだよ」
「東ね」浅利は子供をあやすように言った。「失ったものが美しいんだよ」
「聞いたよそれは」
「言ってないし」
「え、お前、もしかしてまた記憶が…」
九藤はなんだか笑いがこみ上げてきて吹き出しそうになった。このちぐはぐな会話は何だ。この様子はこの二人の関係をよく表していると思った。東は一人で盛り上がっていたと知り若干沈んでいる。一人で盛り上がって、一人で沈んでいる。
「おかしいね」
声をした方を見ると、楠木が肩をすぼめ、片手を口に当ててくすくすと笑っていた。その仕草が可愛らしく見える。ニット帽は今は被っていなくて、綺麗な茶色に染められた長い髪が、階段を登るために足を踏み出す度にゆらゆらと優雅に揺れた。
「浅利ちゃん、覚えてないんだね。いつものことだけど」
「うん。東がちょっと可愛そうだね。いつものことだけど」
九藤がそう言ったところで、二階に到着した。一階と同じように順路通りに展示室の入り口に入る。
そこには現代風の演出が施されていた。総じて日本人の人形が多い。スーツ姿のサラリーマンや、女子高生、土木作業員やドレスを着込んだ女性、ナース服姿の人形まであった。そのいずれもやはりよくできていて、一瞥しただけでは、他の客が立っているのに気づかないかもしれない。九藤は坂口がまたどこかに潜んではいないかと戦々恐々として辺りを見回した。
サークルのメンバーはしばらく、散り散りになって蝋人形の観察を楽しんだ。姿形は自分達と同じなのに、決して生きてはいない人形達に、不思議な親近感と疎外感を感じながら展示室を歩き回った。
お前達はいいな、と九藤は思った。ここの人形はからっぽだ。まるで日常を過ごしているように見えても、わずらわしい人間関係や、仕事や勉強のストレスは彼らの中にはない。ただそこに存在しているだけで価値が認められるのだ。だが本物の人間はそうはいかない。常に何かを成すために、社会の中で右往左往しなければならない運命が自分達には課せられていると思う。人形を見てそれにあらためて気付かされるというのは、どこか逆説的に感じた。
しばらくすると、神楽坂が、メンバーを展示室の中央に集めた。何か話をするつもりらしい。神楽坂の話はとてもためになることばかりだ。その説得力は並外れている。四人は彼の言葉を聞き漏らすまいとしてか、それぞれ構えた。
「この美術館はどうだい?楽しんでいるかな」
神楽坂はまずそう言った。
「楽しいですよ。どれもこれも美しい。まさに美術館だ。神楽坂さんが注目してるんだから、当然だけどな」
東が興奮したように発言した。その意見には九藤も同意だった。
「どれも本物みたい。本当に、生きているように見えるもの」楠木が言った。
ふふ、と神楽坂は笑い声を漏らした。
「そうなんだ。どれも本物みたいだ。でもね、生きているようだというのは少し違うね」
神楽坂は微笑みを絶やさずにメンバー全員を見つめた。
「どういうこと?」浅利は訊いた。
「蝋人形はね、元々ヨーロッパで医学的な目的で生まれたんだ。今は解剖学が進んでいるけど、昔はそうじゃなかった。人体をより知るために、人間そっくりの蝋人形というものが作られたんだ。でも本来とは違った目的で蝋人形を愛好する者たちが現れた」
話しながら神楽坂は、腕で緩やかな曲線を描かせるように、手振りを加えた。彼が話す時はいつもこのように細かい動作で人を引き込む。
「見て楽しむって目的でですか?それなら正解だ。この美術館がそうだから」
東が口を挟んだ。彼はこの美術館がかなり気に入ったようだった。いつも話している美しいものとは、という論理に見事に沿っているからだろう。蝋人形とは、いかにも彼が好きそうなものだ。
「見て楽しむという目的には違いないけど、その視点が少し歪んでいてね。蝋人形は、彼らにとっては死体の代用品だったのさ」
「死体…」楠木は呟いた。
死体、という言葉のニュアンスは、決して軽いものではない。その言葉を口にするだけで、何か不穏な感情を喚起させられてしまう。
「医学的な目線でも、蝋人形は死体を模したものだったのさ。本物の死体は腐るし、手にも入りづらい。だから人形が必要だった。ほら、理科室には人体模型とか、人骨のレプリカがあるだろう?それと同じさ」
神楽坂の表情はにこやかだが、どこか暗い影を落としているような気がした。彼の鷹揚な身振りも話の不気味さを煽っている。九藤は、神楽坂は本当に話が上手いと思った。
「それで、世の中には死体愛好家という人間達がいる。無論、かつてのヨーロッパにもね。死体のどこに魅力を感じるのかは僕にはわからないけれど、彼らはいつも死体を見て楽しんでいたんだ。でも、さっきも言ったけど死体は腐る。安定して手に入るものでもない。だから、死体愛好家は蝋人形を死体の代用品として好んだんだ」
一同は息を呑んだようだった。先ほどまで一つの美術品として見ていたものが、かつて死体愛好家のなぐさみものになっていたとわかったことで、何やら日常が崩されたような居心地の悪い気分がした。
「だからね、生きているみたいだ、というのは違う。蝋人形は、まるで人間が死んでいるみたいだ、と言った方が正しいんだよ。本来はね」
展示室を見渡してみた。人形たちはそ知らぬ顔で人間の生活を演出している。だが彼らは死体を模して作られているらしい。そうなると、この人形達は死体の宴を催しているようにも取れる。神楽坂の話を聞き、先ほどまでとは違い、何か恐ろしげなもの達の中に身を置いているような気がして身震いをした。
「さらに、この美術館には、妙な噂がある」
「妙な噂?」浅利は無表情で首を傾げた。
「そう。これが本題なんだけどね」神楽坂はもったいぶって間を置いた。「この美術館の蝋人形の中に、死体を模したどころか、本物の人間の死体が紛れ込んでいるという噂だよ」
聞いている全員が言葉を失った。本物の死体が?なぜ?どうやって?
「ロザリア・ロンバルドのミイラの話、知っているかい?」
ミイラと聞いて、さらに話の不気味さが増したような気がした。ロザリア・ロンバルドとは人の名前だろう。だが、聞いたことはなかった。神楽坂は続けた。
「イタリアのシチリア島の、カプチン会の修道院の隣に地下納骨堂があるんだよ。そこには約八千体のミイラが埋葬されているんだけど、そのほとんどが白骨化している。でもね、例外があるんだ」
「例外ですか?白骨化してない死体があるってことか」東が言った。
「白骨化していないどころじゃない。その死体は腐敗すらまったくしていないんだ」
「腐敗してないって…」
東は腕を組んで考えるようにした。神楽坂の言葉は不思議と、頭の中に染み込んでくる。それは必ず聞かなければならないような、自分が生きる上で重要なことのような気がする。だから、彼の話から気はそらせなかった。正面から、受け止めてしまう。東も、他の二人も同じなのだろう。じっと、神楽坂の話に聞き入っている。
「屍蝋化っていってね、死体が低温で湿潤な環境に放置されると、脂肪が石鹸みたいになって腐らずに綺麗に保存されるっていう現象があるんだ。すごくめずらしくて、狙ってそういうふうに死体を保存することは難しいとされている」
「私、前に小説で読んだことがある」楠木は言った。
九藤にも覚えがあった。たしか昔読んだ推理小説で、屍蝋化した死体が登場していた。
「その屍蝋化したのが、ロザリア・ロンバルドっていう人なのね」浅利が言う。
「そう。彼女は二歳でこの世を去った。それから八十年以上経った今でも、まるで今眠ったばかりのような、綺麗な姿で保存されているんだ」
「まるで蝋人形のように?」
九藤は言った。四人がこちらに注目した後で、この部屋に無数に存在する、人間の死体そっくりな人形をそれぞれ見やった。
死体達の宴――
その言葉が脳裏によみがえった。どこかを見ている男、子供をあやしている女、遊んでいる子供、全ての人形が、だんだん死体のような気がしてきた。それらが照明に照らされてできた影が、蠢きながら生きた人間を襲う隙を窺っているように見えてくる。
人形達は動かないし、生きてはいない。しかしそれは、人形だからなのではなくて、本当は死体だからなのでは、と思えてしまう。
ふと、一体の、サラリーマン風の蝋人形と目が合った。さっきまであの人形はこちらを向いていただろうか?向いていたに違いないのだが、それを疑えてしまう今の自分は少し混乱していると思う。死体だから動かないと思ったばかりだが、そうではなくて、死体だから動くような気もしてくる。
ここの人形はからっぽではないかもしれないのだ。もともと、中身のあった人間だったものなのかもしれない。死体は何かを考え何かを伝えようとするのだろうか。
自分達は人形を観に来たのではなく、人形に観られに来たのではないか?いやそれとも死体に?
「だからね、この中に死体があってもおかしくはないんだよ。僕はあの人形が怪しいと思うんだけど。ほら、あの子供だよ」
神楽坂が示した先には、乳母車に寝かされている赤ん坊の人形があった。五人はその前まで歩いていく。
赤ん坊は、安らかに眠っていた。その幸せをたくさん含んだ寝顔は、見るものに安らぎを与えるほどに、神々しさというものを放っている気がした。
今の自分は何か変だ。神楽坂の話を聞いてから、何かおかしな気分がする。頭がぐらぐらして、周りの景色が自分を中心に渦を巻いているような錯覚を覚えた。
神楽坂の話し方は人を無理やり感情移入させてしまうような力がある。そのようなことができる神楽坂に、九藤は怖さも感じる。
「この子供はロザリア・ロンバルドのミイラにどことなく似ている。どういう経緯を辿ったかわからないけど、本物の死体かもしれないね」
メンバーは皆黙って乳母車の子供を見ている。もしかしたら、自分と同じ心地がしているのかもしれない。この妙な感覚はいったい何なのだろう。神楽坂の言葉に感情を動かされているのに違いないのだが、それにしても、変な感じだ。
「まあ、あくまで噂だよ。面白い話だっただろう?」
重苦しい感じがしていた頭が、神楽坂のその言葉で、呪縛が解かれたように晴れ渡った気がした。そうだ。これは単なる都市伝説なのだ。九藤は、自分は何を本気にしているのだろうと、自嘲した。そんなことがあるわけがない。
しかし、もし本当だったなら――
九藤はもう一度、赤ん坊の顔を見た。もし本当だとしたら、死んだ後も人間はこの赤ん坊のように、綺麗に存在し続けられるということになる。
それはある意味で死をくじくことになるのかもしれない。
九藤は、自分もこんなふうに終わりたいな、と思った。




