八話 十二月十六日
十二月十六日
浅利は左にウィンカーを上げてから、左右をよく確認して道路を左折した。となりの教官はさきほどからよくわからない意図の話を延々としている。
「僕はね、昔サラリーマンだったんだよ。その時思った。仕事が多いって嘆いてる奴は馬鹿なんだ。残業したくなければね、がんばって時間内に仕事を終わらせればいいんだよ」
「そうですね」
「要領のいい奴は仕事の能率もいい。そういう奴に限って二股、三股って女作るんだよ。要領がいいから。あ、君にこんなこと言うのはまずいかな?」
「いえ」
浅利は適当に返事をした。
「みんな変わんなくちゃだめなんだよ。効率的に、合理的に動くようにね。できるはずなんだ。それがわかってないんだ」
「自分に属するものから脱することはできない。たといそれを投げ棄てようと」
「ん?なんだって?」
「いえ、なんでもありません」
ゲーテの言葉だった。
頭の薄くなったこのおしゃべりな中年の男と一時間も一緒にいることはかなり疲労を伴った。しかし運転免許をとるためには仕方ないと思う。
「あ、そこ右ね」右折して自動車学校に入る。「はい、お疲れ様」
やっと終わった。エンジンをかけたままギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキを上げた。ほっとして名簿を受け取る。
車から出た。今日は晴れていて、アスファルトを覆う雪も半分溶けている。教習所を大きく囲んでいる木々から時折、雪がどさりと重々しい音をたてて落ちた。真っ白い雪景色のなかで赤いコーンが色合いを添えていた。
コーンはまさにわだちなのに。
浅利はそんなことを考えながら、雪道に浅い足跡をつけて歩いていった。
教習所の建物の中に入る。暖房が効いていて、わだちも捨てたものではないかも、と人工的な作為に少し好感を覚えた。受付まで行き、そこにいる女性に話しかける。
「十一時からの救命の授業、空いてます?」
「はい、空いてますよ。入れます?」
「お願いします」
紙を受け取ると、二階の教室へと足を運ぶ。廊下には何人かの生徒がたむろしていた。自動車の教習所には実に様々な人間が出入りする。頭が悪そうな奴もいればひきこもりのような風体をしている者もいる。すれちがいざま、髪を下品な金色に染め上げた柄の悪い男が、浅利をじろじろと見てきた。そういうことには慣れているので、完全に無視した。
「浅利、浅利じゃないか?」
その柄の悪い男が話しかけてきた。足を止めて振り返ってみる。だが面と向かってみても、その男には見覚えがなかった。
「俺だよ俺。葛西だよ。いやあ、綺麗になったなあ」
「ああ」
ああ、と言ったものの、どちらの葛西さんでしたっけ、と訊きたくなる。そういえば、中学校の頃そういう名前の男子がいたような気もする。
「今何してるんだよ。大学生か?」
「うん」
「そうか。しかし本当に綺麗になった」
柄の悪い葛西は、そう言ってまたじろじろと浅利を見た。彼に恥じる様子はないが、まるっきりいやらしい視線だった。浅利は目をそらした。
「実はさ、俺、今ちょっとやばい仕事してるんだよね」
この柄の悪さからすると、それも容易に理解できた。
「そうなんだ」
「そうなんだよ。浅利もさ、やばいことに興味があったら俺に言いなよ」
「やばいことって?」わかっているが一応訊いてみる。
「そりゃあ、やばいことだよ」
そんなことで世話にはなりたいくないな、と思いつつ「わかった」とだけ言って浅利はそこを後にした。
教室のドアを開けると、絨毯が敷き詰められた部屋だった。机や椅子はなく、代わりに不細工な人形が床に横たわっていた。これを使って、人工呼吸やら、心臓マッサージやらを学ぶのだろう。部屋の隅には、何やら授業に使うらしい器具が並べてある。
時間になると、教官が姿を現した。気だるげな様子で挨拶をする。
「授業で大方の説明はされたと思うけど、今日は実践してみるから」
すでに知識としての蘇生法は理解していた。だが、実際にやるのは初めてだった。
周りを見ると、七人ほどの男女がいた。教官は「じゃあ、男女に分かれて」と言って人数分の器具を用意した。
その後二十分ほどかけて、紐を使った止血の仕方だとか、倒れた人の体位の変え方などを一通りやった。次は人工呼吸と心臓マッサージだ。
浅利は人形を見てみた。口をぽかんと開けていて、実にマヌケな顔をしている。
そういえば、今日の午後はサークルで蝋人形美術館へ行くのだったが、この人形も蝋人形に見えなくもない。
――失うべきものを失わせなければいい。
誰が言ったのか、そんな言葉が頭に浮かんできた。
「永遠か…」
浅利は呟いた。この人形は、死なない。死ぬどころか、生き返らせられ続ける運命なのだ。しかし、古くなって用が済めば捨てられるかもしれない。やはり失うことは何者も避けられないのか。
「さ、やってみて」教官が言う。
浅利はとりあえず、そのマヌケ面を生き返してみようとした。




