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RUTS  作者: 三品大
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五十四話 一月二十日 その三 終

   一月二十日 その三


 彼は走っていた。周りの雑木林の枝が、彼の行く手を阻むが、雪がたっぷりのたそれらを掻き分けて、彼は走っていた。

 失敗した。こんなことになるとは。作戦を練り直さなければならない。

「神楽坂君」

 誰かの声がした。神楽坂は立ち止まった。声はどこから聞こえてきたのかわからない。神楽坂はその姿の見えない謎の人物に戸惑った。

「誰だ」神楽坂は刺すように誰何した。

「忘れたかい?」

 男の声だった。今度は、声の出所がわかった。正面の、木の陰だ。

「出て来い」神楽坂は言った。

「わかったよ。もう姿を隠す必要はなくなったからね」

 男はその姿を現した。

 それは、地引智だった。

「地引さん…あんただったんですね?邪魔をしていたのは…」

「君と会うのは一年ぶりか。一年前の明日、一月二十一日に我々は出会った」

「昔話はいいんです」神楽坂は声に怒気を含ませた。「どういうことか説明してください」

「私はずっと君を監視していたよ。そうしたら君がまた、東という男を監視しているということがわかった。東を監視していた君を私は監視していたんだ」

 そう――神楽坂は一年前から、ある目的を持って行動していた。立花を殺すという目的を。それは回りくどいやりかたで実行されようとした。つまり、東幸太郎と使い、立花を殺させようとしたのだ。

「君が主催していたサークルのメンバーも全員調べてみたんだ。そうしたら、妙なことがわかった。そのメンバー全員が、イカれたことになっていることをな」

 確かにそうらしい。詳しいことは知らないが、サークルのメンバーは精神的におかしくなっていると浅利が言っていた。

「私は何かが起こるのではないかと思っていた。私は待った。事が起こるのを待った。そしてそれを阻止しようと心に決めた。私の責任だと思ったのだ」

 それが今日、柚野瞳の命日というわけだ。

 神楽坂は、柚野瞳を愛していた。柚野もまた、彼を愛していた。彼女は神楽坂にとってかけがえの無い人だった。人を影響させすぎてしまう自分の能力を嫌って、人と接触しない日々を続けていた神楽坂は、柚野と出会った。始めは、他の人間と同じように、神楽坂に影響されてしまう凡庸な人間だと思った。

 だがある日、その印象は変わった。彼女は見抜いたのだ。彼の能力と、彼自身がそれを嫌っていることを。

 柚野は対人関係が苦手だった。付き合い始めてわかったことだが、彼女は家で家族に虐げられ、学校でもいじめられていた。その彼女は、神楽坂の能力に憧憬を抱き、その有用性を彼に嫌と言うほど教え込んだ。神楽坂にとってそれは新鮮な経験だった。

 そして神楽坂は悟ることになる。悲惨な生活を送っている柚野を見て、自分の力は芸術においても素晴らしい力を発揮するということを。彼は美は対人関係の中にあると理解したのだ。社会の中でこそ、美が生まれるのだと。

 それから神楽坂は積極的に人と関わることになる。実際そうすることによって、人間の美しい面が、それまで気付かなかったことがふとした拍子にわかるようになった。

 神楽坂は美の真実を確信した。さらに、他の人間とは違う、不幸と共に生きてきた柚野を愛した。そして、その対人関係にうとくとも美しい柚野をもっと輝かせたいと思った。

 だから、オーディションを受けるように勧めた。彼女が人の中でもっと輝くところが見たかった。

 だがそれは叶わなかった。柚野は死んだ。神楽坂は茫然自失となった。神楽坂にだけ行き先を告げて、いつまで経っても戻ってこない彼女を探すと、雪の中で頭から血を流して死んでいるのを見つけた。

 神楽坂はすぐに、後ろ暗い仕事をしている知人の紹介で、地引邸へ向かった。柚野がいなくなるなど信じたくなかった。あの美しい彼女が消えるなんて嘘だと思った。

 そして七日後に、柚野の死体は燃やされた。

 残ったのは神楽坂の部屋に残された柚野の鞄だけだった。その中を見てみると、日記が見つかった。その中を見ると、犯人は立花以外ありえないとわかった。

神楽坂は三つの理由により、東を自分の能力で操り、立花を殺させようとした。

 社会に適応すること。芸術は社会の鏡だ。

 自分の能力の証明。それは、彼女のためでもある。

 そして――復讐。

 柚野を殺した立花を殺そうとしたのだ。

 しかしそれは、地引への復讐でもあった。

彼は神楽坂が柚野を殺したと思っていた。殺された人間が、永遠の美を願う人間によって再び彼の元に現れれば、苦悩すると思った。政財界にも顧客がいる地引は、様々な汚い力に守られていて、他にどうしようもなかった。

柚野を燃やしたあいつに復讐したい。神楽坂は強くそう思っていた。

神楽坂はまず、自分と似た美的感覚をもった人間を集めようと思った。彼は自分の社会性を重んじていたので、自分で立花を殺そうとは思わなかった。さらに地引への復讐も兼ねて誰かに立花が美しいと吹き込み、最終的に殺させようとした。

候補に挙がったのは新入生の四人だった。その中で、最も適任だったのが東だった。彼の感受性は並外れている。人は無意識下にいるほど、催眠に陥りやすいと経験上わかっていたので、酒を飲ませ、意識が朦朧としている東に、立花がいかに美しいか言って聞かせた。すると、東はすぐに立花のストーキングを始めた。神楽坂は時折それを監視していた。

そして頃合いを見計らって、ロザリア・ロンバルドの話をした。これはサークルメンバー全員の中で話した。その方が人は神楽坂の影響を受けやすかったからだ。

東はやはりすぐに影響され、行動を起こした。蝋人形の赤ん坊を燃やした時は、神楽坂はとてもではないがその光景を見ることは出来なかった。柚野が焼かれたことを思い出してしまうと思った。だからあの時は席を外した。

神楽坂は、チャールズ・マンソンという犯罪者の本を読んだ。すると、彼はLSDという薬を使って若者を操り、殺人などを犯させたという。神楽坂は、LSDを使えば自分の能力をさらに強めることができるのではないかと思った。

サークルへの入会を志願する三人の女子生徒が部室に来た時は、そのリーダー格の女が学校で有名な極道の家の娘だとわかった。だから、入会する条件として、二つ提示した。まず東が立花をストーキングしているという情報を立花にそれとなく伝えるということ、それと極道の娘だけに、LSDを調達してくるように頼んだ。その二つはすぐに実行された。

そのLSDで東をコントロールしようとした。東が家に来るたび、LSDを入れたコーヒーを飲ませた。効果は一、二時間後に現れるから、ばれなかった。巧みにマインドコントロールを施し、立花を殺すしかないと思わせた。

かし自分でその効果を試してみたのが間違いだった。神楽坂はその幻想的な体験に魅せられてしまい、LSDの虜になってしまったのだ。時々柚野らしき人影が見えたのがそうなった原因なのかもしれない。薬が抜けたあとはひどくつかれ、精神も乱れた。立花への殺意も強まっていった。自分の心の弱さに嫌気が差した。

立花のバッグをバイクでひったくったのは神楽坂だ。あの柚野の日記を立花のバッグにしのばせ、投げ捨てた。東が立花を尾行していることは監視していたので知っていた。予想通り、東はそれを回収した。日記の自分に関することが書いてあるページはあらかじめ破っておいた。重要な部分も欠落してしまうが、自分の目的を悟らせないようにすることの方が先決だった。この作戦は立花が本物の強盗に襲われているのを見たことで思いついた。立花が悪人だと気付かせ、殺してミイラにする必要性を強めようとした。

そして柚野の命日の一月二十日に近付いてきたのを見計らって、地引の話をサークルメンバー三人の前でした。九藤はいなかったが仕方なかった。しかし、これを東だけに話さなかったことが神楽坂最大の失敗だった。集団心理を利用しようとしたことが仇となったのだ。

最後に東が家に来た時、校舎の移行期間は十五日で終わっているのに、十九日までだと嘘をついた。これは柚野の命日に合わせるためだ。命日は神楽坂にとって大切なことだった。同じ日に、同じ状況で地引に苦痛を味あわせたいという目論見もあった。

計画は順調に進んでいた。東は彼自身が先ほどあの迷路で言ったように、神楽坂が作成した車輪がつけたわだちだったと言えるかもしれない。

そして決行当日の今日、東がちゃんと殺すように、LSDを飲ませようとする。

「私は君がワインに何かを入れているのを見て、ガラスを割り、その隙にグラスを入れ替えた。中身を捨ててしまうと怪しまれてしまうことになる。君は殺人を犯す人間ではないと聞いていたから、そうした。だが結果的にさらなる事件を生んでしまったことは後悔している」地引は言った。

 神楽坂は自分の美学を地引はどこで聞いたのだろうと疑問に思った。

「その後、君は東を監視した。私はそれを監視していた。東の、罠を張ったり、凶器を隠していたりしているところを見て、私は東が誰かを殺そうとしていると感づいた。だから、東をつけて君が昇降口に行っているうちに、ピアノ線をできるだけ切り、可能な限り鍵がかかっている教室のドアを開けた。そして帰ってきた君が隣の教室に入ったのをみはからってベランダに隠れた」

「そして東君が立花を殺そうとした時、窓を叩いたんですね」

「ああ。その後はベランダから飛び降りたよ。足がじんじんと痛んだがね」地引は足を踏み鳴らした。「その後は君に姿を見られるのを避けるためにあまり動けなかった。最後にやったのは、立花という娘を壁から引き上げることだった。だがあの子は足をくじいてしまい、やむを得ずそこに置き去りにしてしまった」

「その後、事なきを得たのを見て、ここで待っていたわけですね?僕の車がこの先にあるから」

「そうだ」

 神楽坂はため息を吐いた。そして言う。

「最後に、四つだけ訊いてもいいですか?」

「言える範囲なら答えよう」

「一つ目、何故あなたが鍵を持っていたのか。二つ目、何故僕を監視しようとしたのか。三つ目、さっきのワインの話は、少なくと実行するには二人の人員が必要だ。それは誰なのか。四つ目、何故あなははあそこまでして姿を隠そうとしたのか」

「それは…」

 地引は口ごもった。沈黙が続く。「答えられないんですか?」神楽坂は言う。

 神楽坂は、こうなったら立花を直接殺すしかないと思った。そうでもしなければ、柚野を失った悲しみは癒えない。

「いいんです」

 突然、地引の背後から声がした。女性の声だ。しかしこの声には聞き覚えがある気がする。いやしかし、まさか…。

「いいんだね?」

「はい。この人にだけは、知らせておきたいと思うんです」女性の声が言った。

そして、その女性は姿を現した。

 神楽坂は、声も出なかった。

「鍵はこの子が管理していた。マスターキーをたまたま持っていたんだよ」

 楽坂は彼女が教授達に信頼されていたことを思い出した。それは日記にも書いてあった。

「君はかならず復讐しに来るとこの子が教えてくれた。だから君を監視した。君の性格や芸術論などをこの子からよく聞いた。ワインの時は、この子にも協力してもらった。私が姿を隠したのは、この子の存在を知られてはいけなかったからだ。なぜ私がここにいるか、ということになれば、君には知られてしまう。彼女は自分の存在を消したかったんだよ。家からも、学校からも、消えうせて、新しい人生を歩みたかったんだ。だから、この一年、私の助手をやっていた。今姿を現す気になったのは、彼女の意向だ」

「あ、ああ…」

 神楽坂は喘ぎ喘ぎ言った。

「これからミイラ師家業をやめて外国に行くことにするよ。この子を連れてね。偽造のパスポートはすでにある」

「どう…して…」

「教えよう」地引はくぐもった声で言った。「一つ。死後硬直は結構すぐはじまる。死後三時間ほどから頭からつま先にかけて進行する。君は彼女が死んだのは一年前の一月二十日の夜だと言った。私の家に来たのは翌午前一時ぐらい。君は時間が経っていないから死後硬直が始まっていないと思い、私は時間が経っているから死後硬直が解けたと思った」

 神楽坂は動けない。彼女から目が離せない。

「一つ。これは私がすぐ気付かなければいけなかったのだが、君は死斑が全身にあったといった。だがそれは考えにくい。死斑は体の下部に集まるからな。君が彼女の体の向きを頻繁に変えていればないことはないが、あれほど彼女を傷つけたくないと言った君がそのようなぞんざいな扱いはしないだろう。あれは、ただのあざだ。私は彼女の体を確認した時、それを見て愕然とした」

神楽坂は、日記の中の、傘で突かれるという記述を思い出す。彼女はそういえば、肌を決して見せようとしなかった。

「一つ。一年前の一月二十七日に燃やしたのは、別人の死体だ。死体を私に預けて連絡がとれなくなる客が大勢いる。それは話したはず。その光景を君に見せた理由は、やはりこの子が死んだと思わせたかったからだ。それがいいとその時は思った」

 名前を呼びたい。しかし、顎が硬くなり、舌が動かなくなりそうできない。

「つまり気候も相まって、君が彼女の生死を確認した時には、仮死状態だったということになる。彼女が私の家に来た時には、すでに自然に蘇生していた」

 彼女は頭を下げた。「ごめんなさい。地引さんには本当によくしてもらったわ。見ず知らずの私に、親切にしてくれて、今日みたいなことまで…。地引さんを責めないで。悪いのは私。一年間、本当に、ごめんなさい」

 神楽坂は、地面に膝をついて、泣き崩れた。

 わだちだった。人と人とが残す足跡を、彼女と自分が残した足跡を信じて、この一年間進み続けてきた。それが美と人間の生きる道だと疑わなかった。

 だが自分が頼りにしていたものは足跡ではなく、人の手が加えられたわだちだった。

 しかし今、神楽坂はもう他人を恐れることはせず、それ受け入れていた。

 そう、神楽坂は他人を恐れていた。社会の中でのみ人は輝けると息巻いていても、彼は恐かったのだ。だから、足跡とわだちの間に防衛線を張った。

 今度こそ、彼はわかった気がした。

人と人との繋がり。それは複雑で、不思議で、そして美しい。

 涙を、彼は決して拭かなかった。


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