五十三話 一月二十日 その二
一月二十日 その二
その三十分ほど前。
浅利は、九藤と楠木と共に、旧校舎へ向かっていた。
東が部室から出て行ったすぐ後に、九藤の様子がおかしくなった。躁の反動なのか、急激に鬱々とした気分に落ち込んでしまったようだ。動きが緩慢になり、にもかかわらずしきりにそわそわとして落ち着かなくなった。浅利は九藤のうつはもう回復傾向にあると思っていたので、そのことは想定外だった。
そしてしばらくすると、九藤は突然、旧部室へ行くと言い出した。何故かと訊くと、例のペンダントを探すのだと言った。そこでなくした気がすると。
彼の首には浅利がプレゼントしたペンダントがぶら下がっていた。楠木はそれをじっと見て、何かを思い出したようにした後で、黙り込んでしまった。そういえば、楠木はあのペンダントを買うところを見ている。
浅利は少し寂しく思った。所詮、自分が送ったペンダントでは、九藤の思い出には勝てないのだな、と悟った。だがそれも仕方ない。九藤が佐々木という女の子から受けた影響は多大なるものだったのだ。初めて、人の温かみというものを知ったのだから。
何だか心配だったので、浅利も一緒に行くと提案した。すると、楠木も行くと言い出した。それで、今徒歩で旧校舎へ向かっている。
警備員室でマスターキーを借りて(閉まっているドアが多いためマスターキーを借りた)、もうすぐで旧校舎の昇降口が見えるというところだった。すると、九藤が言った。
「裏に回っていこう。裏口からの方が、部室に近い」
九藤は一刻でも早く部室に行きたがっているように見えた。うつ病では、偏執的な症状も出るのだろうか。それとも、過去の出来事を過剰に拡大解釈して、その副産物であるペンダントをなくしたことが強い罪悪感を呼んでいるのだろうか。
どちらにしても、九藤の好きにさせてやらなければならない。今の彼に何か命令したり、プレッシャーを与えたりすることは禁物なのだ。何も言わず、ただ見守っていればいい。
浅利は自分が可笑しく思えた。すっかり九藤の介護人ではないか。
裏道を通って、裏口まで歩いていく。右側は林になっていて、時々葉に積もった雪が地面に落ち、そこを盛り上げていた。三人はまったく言葉を交わさなかった。九藤は気が急いてペンダントのことしか考えられなくなっているようだし、楠木は部室でペンダントの話をしたときから黙ったままだ。
裏口まで来ると、近くに迷路のオブジェがあった。楠木が鍵を開け、西棟へ足を踏み入れた。その時も無言だった。
中は意外と暖かかった。暖房が効いているわけはないのだが、建物の構造が温度が下がるのを防いでいるのだろう。三人は裏口の左側にある階段を登り、三階まで上った。土足の靴の音が、こつん、こつんと静寂に包まれた校内に響き渡る。
三階に到着すると、少し廊下を歩いて、部室まで行った。楠木がまた鍵を開けて、中に入った。電気をつけると、がらんとした旧部室が照らされた。その光景は、まだ校舎が変わってあまり時間が経過していないにもかかわらず、どこか懐かしく感じた。
九藤は足早に部室の中を歩き回り始めた。下を向き、目を皿のようにしてペンダントを探している。
実は、浅利はここの荷物を運び出したあと、かなり入念に掃除をしている。一年近く世話になったのだからと、隅から隅まで綺麗にした。だから、ペンダントなど落ちていないことは知っていた。だがそれは九藤には言わなかった。それを言ったら、また落ち込んでしまうかもしれない。
しかし落ち込んだら、また、あの朽ち果てようとしている花のような美しい九藤が見られるのだろうか。
いや、駄目だ駄目だ。自分は何を考えている。もうあの感情のことはいいのだ。九藤の儚い美しさとは、もう距離を置くことにしていた。そうでないと、九藤はまた自殺を試みるかもしれない。浅利はそれに、何故か拒絶反応を覚えるのだ。
とりあえず、浅利も探している振りをし始めた。すると、楠木もそれに応じるように捜索を始める。
九藤はもう四つんばいになって食い入るように床を見つめている。掃除用のロッカーはそこに置いたままだったから、その隙間などを注意して探していた。だがそこも掃除をしたのだ。ペンダントはない。
二十分ほど探し続けた。楠木は探すのを止めていて、浅利もそうしようとしていた。だが九藤はまだ飽きることなく探し続けている。
「九藤、もう、無いんじゃない?別のところ探した方がいいよ」
浅利はついにそういった。だが九藤は耳を貸そうとしない。一度探したところを何度も何度も見つめていた。
「ないよお。どこなんだ。あれがないと。忘れてしまう。あの子の顔を忘れてしまうんだ」
九藤はぶつぶつと繰り言のように呟いている。
「ない。ない。どこにもない。ないよ。ないよ」
彼はいつまで探し続ける気なのだろうか。あまり人のいない旧校舎に留まっていることは良くない気がする。
「九藤。そろそろ帰らないと」
「あるはずなんだ。ここでなくしたんだよ」
いや、ここにはないのだ。浅利が口に出して言おうかと考えた時、九藤は言った。
「あった!」
「え?」
九藤はこちらに尻を向けている。何かを発見したようだ。だがそんなはずはない。そのような部屋の真ん中でペンダントが見つかるわけがない。浅利は信じられない思いで「あったの?」と言った。
「あったんだよ!ほら!」
彼は拾ったものを人差し指と親指で摘んで、浅利と楠木に見せた。それは――
「よかった、よかったよお」
九藤はそれを大事そうに両手で包み込み、頬ずりをしだした。
「九藤、それは――」
「これがないと駄目なんだ。これがないと」
浅利は意を決して告げた。
「それは、ペンダントじゃないよ」
彼はあっけにとられたような顔をしてそれを見つめた。
「何を言ってるんだ。これはどこからどう見ても…」
それはペンダントではない。どこからどう見ても、ほうきの切れ端だった。九藤は、そのほうきの切れ端をペンダントだと言って、大事そうに抱えているのだ。
九藤はおかしい。まるで街で会った時の東のように…。
「九藤。それ、ちょっと貸してみてよ」
浅利はそう言って手を伸ばし、九藤に向かって歩いていった。
すると突然、九藤は大声を上げた。
「うわあああああああああ!」
そして後ろに大きく飛びのき、掃除ロッカーに体を強くぶつけて、尻餅をついた。ロッカーはその衝撃で倒れ、がしゃん!と大きな音を立てて、中の掃除用具をぶちまけた。
「く、九藤?」
浅利は九藤に歩み寄る。すると九藤は声にならないような声で、
「来るな…来るな…!」
と呻きだした。浅利は当惑して「ど、どうしたの?」と言う。
「うわああ、来るなああああああああ!」
浅利の声がまるで形を成し、悪魔の姿に変身したとでも言うように、九藤は恐怖を爆発させた。浅利は完全にどうしたらいいのかわからなくなった。
九藤は床に転がったモップを手に取り、立ち上がった。そして、それを浅利に向かって振り下ろした。
「きゃああ!」
浅利は悲鳴を上げて、身をかがめた。九藤の持つモップは空を切った。
「死ねええええええ!」
モップをめちゃくちゃに振り回し、九藤は浅利に迫った。浅利がそれを避けると、楠木との間をモップが通って、ドアの窓ガラスをバリン、と割った。ガラスの破片が床中に散らばる。楠木は恐れおののくようにして、廊下に引っ込んだ。
九藤はそれでも止まらなかった。浅利の姿を見つけると、またモップを振り回した。浅利はそれを必死に避けた。そして攻撃が外れ、九藤がよろめいたのを見て、彼に掴みかかった。腕を掴んで、モップを振れないようにする。その後九藤に顔を近づけて叫んだ。
「九藤!しっかりしてよ!私だよ!私だってば!忘れたの?」
九藤は胡乱で剣呑な目つきで浅利を見た。そして呟く。「忘れた?」
「そうだよ。忘れてないでしょう?私のことを」
浅利は何だか悲しくなってきた。あの優しかった九藤が、どういうわけか錯乱して凶暴になってしまっている。これは何かの間違いだ。夢だ。悪夢なのだ。そう思おうとした。
「そう。忘れてない。佐々木さんの笑顔は、忘れない」
「九藤!」
浅利は思いのたけを詰め込んで喉の限界まで大きく叫んだ。それが、彼の正気を取り戻してくれると信じた。浅利は彼から離れて両手を広げ、敵意が無いことを示した。彼は、浅利を凝視しながら、次第にその顔に恐怖を浮かべていく。
「あああああああああ!」
九藤はモップを放り出し、部屋を出て廊下を走っていった。浅利はすぐさまそれを追いかけた。九藤は何かに取り付かれたように、がむしゃらに走っていた。そして、屋上へと続く階段を駆け上っていく。浅利もそれを追う。階段を三段飛ばしで駆け上がり、開きっぱなしになっている屋上へ出るための入り口をくぐった。
外は雪が吹きすさんでいた。風が強く、一瞬で体が凍りつくように硬くなる。九藤はゆらゆらと体を揺らしながら、屋上の縁の方まで歩いていく。
「九藤、駄目だ!」
浅利の声は枯れていた。九藤は「来るな!」と言って、フェンスを登り始めた。
九藤は死ぬ気だ。屋上から飛び降りる気なのだ。浅利はそう思った。
「駄目だってば!」浅利は駆け寄る。しかし、九藤はフェンスの向こう側へと降り立ってしまった。フェンスを引っつかんで、それ越しに、九藤に詰め寄る。
「目を覚ましてよ!九藤!」
「ああ」九藤はその顔を喜びに変えた。「佐々木さん」
「佐々木じゃない!浅利だよ!」
「来てくれたんだね」
九藤は笑顔になり、そのすぐ後に、真剣な表情にすぐさま変えた。
「ごめんなさい。佐々木さん。僕が君に嫌われたのは、僕が悪いんだ。僕がどうしようもないクズだから、君は僕を嫌いになったんだよね」
目を落として九藤は言った。最後の方は声が小さくなっていった。
「違う!あなたはクズなんかじゃない!」
浅利は言った。そう。クズなんかじゃない。それがわかっている人間はいる。木下がそうだし、自分だってそうだ。
ああ、九藤。どうしてあなたはそんなに自分が嫌いなの?
「僕、死ぬよ。こんなクズ人間は、死んだ方がいいんだ。恐いけど、でも大丈夫。死んでも、綺麗なままでいられる方法を見つけたんだ」
「九藤…」
浅利の頬を、生暖かいものがつたった。それが涙だとは、彼女は気付いていなかった。生まれて初めて流した涙は、顎からぽたりとコンクリートの地面に落ち、積もった雪をそこだけ溶かした。
「お願いだから…」
両手に力を込めると、がしゃん、とフェンスが鳴った。九藤は近視のように目を細め、浅利を見つめた。
「九藤、私、あなたに死んで欲しくないんだ。前はその反対のことを思っていた。でも今は違う。心の底から、あなたに生きて欲しい」
九藤は何も言わない。
「ほら、初めて会ったときのこと、覚えていない?あなた、全然喋らなかった。皆で映画を見に行ったでしょう?東が次の日からボクシングを始めた。馬鹿だよね。蝋人形美術館にも行った。館長さんが人形の振りしてた」
少しずつ、九藤の表情に変化が出だした。
「あなたの家に何度も行った。佐々木さんが好きだったって事も聞いた。ねえ、九藤、思い出して。お願いだから」
九藤はじっと浅利を見つめた。そして、雪も溶かすような、暖かい笑みを見せた。
「浅利…か」
浅利ははっとした。「そうだよ!浅利だよ!」
「浅利」九藤は顔をほころばせる。「僕が死んだら、頼んだよ。ロザリアにしてくれ。綺麗なまま、誰にも忘れられないように」
「九藤!」
その声は虚しく響いた。フェンスの向こうにあった九藤の体は、後ろ向きに、白の世界へ姿を消した。浅利はそれがとてもスローに見えた。少しずつ、少しずつ、彼の生命が失われていくのを表しているように。
浅利は弾かれたように走り出した。校舎の中に入り、階段を駆け下りる。廊下を疾走して、階下へと続く階段を転がるように降りていき、一階までたどり着くと裏口のドアを開けた。
外では、九藤が雪の積もった地面に大の字になって仰向けに倒れていた。頭の辺りからは赤い液体が流れ出て、深い雪を紅に染めていた。
浅利は、そろそろとそれに近寄る。九藤はぴくりとも動かない。側には落ちる途中で折ったと思われる木の枝が散乱していた。
「九藤?」
呼びかけに、彼は答えなかった。彼の顔はただただ安らかに、永遠の安息を手に入れたように眠っていた。
浅利はしゃがみこみ、再び九藤に向かって呼びかけた。やはり応答はない。彼の胸に手を置いてみた。心臓は、鼓動していなかった。彼の唇に耳を近づけてみた。呼吸も、していなかった。
九藤望は死んだ。
愛と優しさに恵まれなかった彼は、それを完全に得られぬまま、死んだ。浅利はまた、涙を流した。今度は、それに気付いた。自分は泣いている。
決して動くことのなかった自分の感情を、呼び覚ましてくれた九藤に、浅利は感謝した。彼の死体はミイラ師のところへ持っていこう。そして、この綺麗な顔をずっと保存しよう。
九藤。私は忘れない。私だけは、あなたのことを忘れない。
あなたの優しさ。
あなたの美しさ。
絶対に忘れない――
何を考えているんだ!
浅利は自然と体が動いた。頭を動かさないようにして、九藤の体をゆっくりと校舎に向かって引きずっていった。何度か雪に足を取られるが、何とか体勢を維持したまま彼の体を優しく校舎内へ引き上げた。
廊下に九藤を寝かせ、ドアを閉めた。そして、もう一度彼の心臓音と呼吸が無いのを確認すると、浅利は九藤の頭を慎重にずらし、気道確保をした。
この手順でよかったのか、浅利は自動車の教習所で習った蘇生法を思い出した。まず心臓マッサージを十五回やってから、人工呼吸を三回し、呼吸と心臓の鼓動を確認するということを繰り返すような気がした。
浅利は思い出した通りにその蘇生法を実践し始めた。みぞおちの上辺りに両手を重ねて、一、二、三…。次に空気が漏れないように口と口を合わせて人工呼吸をする。
お願いだ。生き返って。
浅利は強く念じながらその手順を続けた。
そして一連の流れを五回繰り返した時。
「ごほっ!」
九藤が息を吹き返した。浅利は信じられない思いでそれを見た。九藤は何度も咳き込みながら、確かに呼吸をしている。彼の胸に手を当てると、確かに心臓が鼓動していた。
「九藤!」
浅利は九藤を抱きしめた。強くなりすぎないように注意しながらそっと身を預けた。
「よかった…本当に…よかった…!」
自分がこんなにも泣き虫だったということは初めて知った。浅利の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。自分がこんなに取り乱すことなど、考えられないことだった。
今ならわかる。浅利が感じていた自分自身の性質とその変化との葛藤の理由を。彼が死んで欲しい、それが一番美しいんだと思う一方で、死んでは駄目だ、もう彼と会えなくなるのは嫌だとも思っていた。
その理由は、浅利が純粋に、九藤を好きになりかけていたからだ。彼の純朴さと優しさと儚さと弱さが、たまらないほどに浅利を惹きつけ始めていたのだ。
それは普通の人間と同じ感情。浅利が求めてやまなかった、一番欲しかったものだった。
「ありがとう…九藤…愛してる」
浅利は九藤の耳元で囁いた。そして、ずっと彼の側にいたいと思った。
その時だった。
「浅利ちゃん。何いやらしいことしてるの?」
浅利は振り向いた。そこには楠木が立っていた。そして、その手にはナイフが握られていた。
「何を、言ってるの、楠木。九藤が、九藤が生き返ったんだ。助かるんだよ」
「ああああああ!」楠木はがなりたてた。「九藤九藤九藤九藤!そんなにその男が好きなの!」
「好きだよ」浅利ははっきりと言った。「好きなんだ」
楠木の表情が苦悶と悔しさの入り混じったようなものになった。そして、ナイフを前へ突き出した。楠木までもが、おかしい。言動も、目つきも、変だ。
浅利は九藤が蘇ったことで、少し冷静になっていた。楠木もおかしくなっていることで、ある仮説を立ててみる。この二人はどちらも幻覚を見ているのではないか?それはきっとLSDだ。
LSDは確か摂取してから一、二時間で効果が現れたはずだ。一、二時間前、この二人は何をしていた?
そうだ。部室にいた。そして、ワインを飲んだ。間違いない。九藤は楠木も飲んだワインを飲んだ。そのワインにLSDが入っていたのだ。葛西の話によると、LSDは無味無臭のはずだ。だから、知らないうちに摂取してしまったのだ。
そして、あの時妙なことがあった。ガラスが割れたのだ。その時、奥の部屋にいた神楽坂も窓のところへ来ていた。おそらく、その隙に何者かがLSDを混入した。
「浅利ちゃん!」楠木は喘ぐように叫んだ。「九藤から離れなさいよ!」
しかしなぜ楠木が摂取することになったのだろうか。そういえば、あの時、ワインは神楽坂が手渡ししていた。ということは、無差別にLSDを飲ませようとしたのか。しかし何故だ?それにどんな意味があるというのだ。
「私のゆき!」楠木は叫んだ。「どうして私があげた服を着ていないの?どうして!」
浅利は自分の格好を見た。コートを脱いでいるので、自分で買った服が露出している。
「浅利ちゃん」急に、楠木は静かな声で話し始めた。「私、あなたに言うことがあるの」
楠木の顔は恍惚に変わっていた。これは間違いなく、グッドトリップというものに入ったのだ。彼女は続ける。
「私、浅利ちゃんが好きなんだよ」
「私も楠木のことは…」
「違う!」
楠木は叫んだ。怒りの表情になったかと思うと、いきなり泣きそうな顔になった。
「私は愛してるの。あなたが欲しいのよ」
「それはもしかして…」浅利は口ごもった。
「そうよ。レズビアンなのよ、私は!」
浅利は驚愕した。そして、これまでの楠木の言動を振り返ってみた。考えてみると、彼女に対して抱いていた違和感は、それが理由だと考えると合点がいく。
あの浴室での出来事も、楠木が浅利を欲しがっていたからなのか。
「楠木、私は、そういうんじゃない。それに、九藤が好きなんだ」浅利ははっきりとそう言った。曖昧な言葉は今の彼女には逆効果だと思った。
「あなたのことはどうでもいいのよ」
楠木がまた表情を変えた。まったくの無表情。その冷然とした面持ちに、浅利は恐れを感じた。
「あなたは死ぬんだもん」
そう言って楠木はナイフを両手でしっかり持ちながら、浅利に向かって突進してきた。浅利は咄嗟に立ち上がり、それを避けた。それを見て楠木はまたナイフを振りかざす。
「楠木、やめて!危ないよ」
「あなたはロザリアになるのよ!」横にナイフが振られる。「美しいままでずっと一緒にいられるの!死になさい!」
楠木の攻撃は浅利の心臓や喉もとを狙ってきていた。それは明らかな殺意。しかしこれはまずい。楠木が自分のことを愛しているということは、九藤に危険が及ぶ可能性がある。
ナイフが、浅利の髪をかすった。少量の毛髪が飛び散る。
だが今は楠木の気は完全に浅利に向いている。楠木を引き付けておけば、九藤に危害は加えられない。
浅利は後ろを振り向き、走り出した。首を回して背後をちらりと見ると、楠木は追ってきていた。だが足は浅利の方が早い。どんどんと引き離していく。
「待ちなさいよ!」
楠木は絶叫しながら走ってくる。その姿は恐ろしげで、まるでモンスターか何かのようだった。浅利は階段を登った。昔部活で鍛えた足腰は健在のようだった。一気に三階まで行き、校舎端の誰も使わないような渡り廊下を走った。鍵はかかっていなかった。
隣の隣の校舎(東棟)まで行くと、なぜか開いている教室のドアがあった。少し隙間があったので、それがわかる。浅利はそこへ滑り込み、ドアをしっかりと閉めた。
ドアの陰にしばらく息を潜めていると、足音が聞こえてきた。
「浅利ちゃん?どこ?」
楠木だ。浅利はドアを少し開け、その様子を窺ってみる。
「浅利ちゃん、私ね、汚れちゃったんだ。汚されたの。だから、今日から私もあいつと同じ。醜い、醜い怪物なのよ。でもそれでもいい」
彼女が去っていくのを見届けながら、浅利は考えた。
警察に連絡するべきだろうか。いや、それはまずい。楠木は、きっと薬の影響でおかしくなっているだけだ。警察を呼んだら、捕まってしまう。彼女は数時間して薬が抜けたなら、いつもの微笑を九藤と自分に向けてくれるはずだ。自分が彼女の愛を受け入れられないこともきっとわかってくれる。
だって楠木は、いつだって皆のことを考えて平和が好きだったではないか。
浅利はまた悲しくなってきた。あの時の皆にはもう戻れないの?
バンバン!
外から、何か窓を叩いたような音がした気がした。楠木を盗み見てみると、気付いていないようだ。浅利はベランダへ向かっていった。ドアを開け、ベランダに出てみる。音は下の階から聞こえてきた気がする。浅利は下の部屋のベランダを覗いてみた。
そこには誰もいなかった。しかしその代わりに、一階の雑木林のすぐ側で、男がうずくまっているのがわかった。浅利が混乱していると、その男は足早に姿を消した。
男だとはわかったが、それが誰なのかまでは暗くてよく見えなかった。浅利はますます混乱した。この旧校舎内に、九藤と楠木と浅利以外の誰かがいるということだ。
浅利は再び部屋の出入り口の影に隠れると、ドアの隙間から楠木を見た。
すると、楠木は驚くほど近くにいた。慌てて浅利は隙間から目を離した。心臓がばくばくと鳴った。
楠木は気付いた様子はなく、隣の棟(中央棟)へと進んでいった。浅利はそれを見て、彼女の後をつけることにした。九藤のことが心配だ。戻っていって殺そうとするかもしれない。
体を死角に隠しながら、浅利は楠木の後を追った。楠木は、隣の棟(中央棟)で北へ真っ直ぐ行き、突き当たりの階段を下りた。そのあと渡り廊下を西に渡り、部室がある棟(西棟)の二階へと進む。
浅利は楠木を見ていて接近に気付かなかったが、浅利が階段の陰に身を潜めていた時、目の前を知らない女が猛烈なスピードで走りぬけていった。
浅利は驚き動揺するが、その後を追ってみた。
知らない女は、楠木を追いかけているようだった。理由は不明だが、顔が歪むほど必死な形相をしていた。何かあったのだろうか。
渡り廊下を渡って部室がある棟(西棟)の二階へ浅利も入った。そして、廊下をこっそり覗いてみると、楠木がどこかの教室に入ったようだった。知らない女も、その中に入る。
大丈夫だろうか。浅利は心配になった。楠木はあの女に危害を加えないだろうか。
そういえば、あの教室の向かいの棟には、向かい合う形で教室があったはずだ。
浅利は急いで渡り廊下を渡り、隣の棟(中央棟)へ行き、目当ての教室に入った。そこにもなぜか鍵がかけられていなかった。
浅利は窓に近付き、中庭を挟んで向かいの、知らない女と楠木が入った教室の様子を窺った。
立花は、救いの手を差し伸べられるものとばかり思っていた。しかし――
「浅利ちゃん。あなたは死ななくちゃ」
目の前の小柄な女は、ナイフを持ってこちらへにじり寄ってくる。表情は笑みだ。だが酷く崩れた笑顔。それは狂気と殺意を含んでいると思えた。
この女はあいつの仲間だ!
そうとも知らずに助けを求めようとしてしまうとは、自分はどこまで馬鹿なのだろう。立花は相手の放つその威圧感に押しつぶされそうになった。足がすくんで動かない。
「どこがいいかな。心臓かな。首かな。あ、顔は絶対に傷つけないよ。約束する」
立花は恐怖でたまらなくなった。しかし手が勝手に動き、側にあったテーブルの上に置かれた木の椅子を取り上げた。
「私とやるっていうの?」女はにやりと笑った。「お茶目だね。抵抗しなければ、一思いにやってあげるのに」
立花は懇願したい思いだった。助けて欲しい。許して欲しい。もうあれから悪いことはしていない。本当だ。だから…。
「さあ、死んで!浅利ちゃん!」
立花は咄嗟に目を瞑った。それが最も危険な動作だとわかってはいても、恐怖が勝ったのだ。
どさり。
妙な音がした。立花は薄く目を開けてみる。するとなんと、あの小柄な女が、床に倒れているではないか。その側には誰かがいる。
助けに来てくれた。誰かが、私を救いに来てくれたんだ。そうだ。この私がこんなところで死ぬわけがない。
「やあ、また会ったな。立花さん」
倒れた女の横に立っていたのは、東だった。
「きゃああああ!」
もう何度目かわからない悲鳴を立花は上げた。
「ナイフじゃ駄目なんだ。ナイフじゃ。さあ、今度こそ死ぬんだよ、立花さん!」
東は立花に向かって突進してきた。彼の振るう鉄の棒が彼女に迫る。立花は咄嗟に椅子を前に突き出し、その攻撃を防いだ。木の椅子が少し欠けるのがわかった。
「楠木がいたんでどうしようかと思ったけどさ」東が言う。「考えてみたら、楠木の近くにいれば、君が必ず来るじゃないか。君は遠回りしなきゃいけなかったが、俺は鍵があるからすぐにこの教室まで来れた」
鉄の棒が横に振られる。立花は身をかがめて、それをかわした。
「やめてよおおおお」立花は、本当に、懇願し始めた。「何でもするから!セックスだって何だってする!殺さないで!死にたくないのよお!」
東は無表情でそれを聞いていた。「黙れ」
「お願いだから!」
「あんた、人一人殺しておいて、そりゃあないだろう。君は本当に…」その後の言葉は東は口ごもった。何かまずいことでも言ってしまったかのような表情だった。
立花は、その隙を狙って、持っていた椅子を東に投げつけた。重い椅子だったが、どうしてそのような力が出せたのかはわからない。
東は重い椅子をぶつけられて、ふらついた。その瞬間、彼の横に隙間が開き、立花はそこめがけて駆け出した。
「おい、待てよ」東が凄んだ。
立花は教室を脱出した。「無駄なんだってば」背中に、東の声が追いついた。
浅利は、敬帯電話を取り出した。理由はなんとなく想像がつく。東が、知らない女を殺そうとしていることは、さすがに浅利の手には負えなかった。仲間を売るような気がしてくるが、そうも言っていられない。東が罪を犯すのを見ていることはできない。
携帯を開いて、通話ボタンを押した。
ガツン。
味わったことの無い衝撃が、後頭部を襲った。そのまま、浅利は床に崩れ落ちる。薄れ行く意識の中で、自分の頭を殴った相手の顔を見た。
それは――神楽坂。神楽坂の冷笑。
彼はパイプ椅子を持って冷たく浅利を見ていた。
何故だ。なぜ神楽坂が私を殴る?殺そうとしているのか?ずっと私を狙っていたのだろうか。その理由は何だ。恨み?恨みを買うことと言えば、昔振った男が自殺未遂をしたことぐらいしか思い浮かばない。そうなのだろうか。神楽坂はあの男と知り合いなのだろうか。それとも、私の体が目当てなのか?楠木のように、私をロザリア・ロンバルドのようにしたいと思っているのか?LSDの影響?
わからない。目の前がどんどん霞んでゆく。死ぬ。これが終わりなんだ。さよなら、皆。さよなら九藤。せっかく生き返したのにね。
「助けてよおお」
立花は涙やら鼻水やらで顔がぐしゃぐしゃになっていた。東はそれを見て、複雑な思いがし始めていた。
「殺さないでええ」
壁にぶつかりながら、ふらふらと立花は進んでいった。どんどん、あの迷路へと向かっている。計画は成功している。しかし何かが、東の頭をもたげた。
「死にたくないいい」
立花はは階段に指しかかると、ヒールを滑らせて、ごろごろ転がりながら一階へ落下していった。これで彼女の顔に傷がついてしまったかもしれない。しかし何故か、焦燥感は訪れなかった。
「きゃああああああああ!」
悲鳴が上がった。東も階段を降りてみる。すると、床に倒れている立花の横に、どういうわけか九藤が仰向けに寝ていた。あれはどう見ても九藤だ。妨害者のことといい、わけがわからないことが多すぎる。
「もういやあああ」
立花は立ち上がり、さらにふらふらとなりながらも迷路の方へ向かっていった。ちらりと九藤の側の裏口を見てみると、鍵が開いているのがわかった。ここに九藤がいてくれて助かった。そのおかげで立花はそれに気付かなかったのだから。あそこから外にでられたら、少しやっかいなことになっていたかもしれない。
無様な姿で逃げ惑う橘を見て、東は殺意をより強くしなければならなかった。しかし、そうはならない。何故だろう。
彼女が迷路に入るのを見ながら、東は本当にこの女でいいのだろうか、と思い始めていた。
楠木は生きていた。意識はぼんやりしているが、とりあえずは生きている。だがもう死ぬかもしれない。
思えば、私の人生は、美に縛られたものだった。ゆきに固執し、女に固執し、美に執着した。しかしこれでよかったのだろうか。
他に幸せになる道があったのではないだろうか。
もう、疲れた。美の呪縛から解き放たれたい。お母さん。
「大丈夫、傷は浅いわ」
誰かの声がした。女の人の声だった。浅利の声ではない。聞いたことのない声だった。誰だろう、この人は。もしかして、芝蔵が生きていて、私を見張っていたのだろうか。
あの怪物と私は同じ。同姓を求めて、力ずくでそれを手に入れようとする化け物。でも死んだら、生まれ変われるのかな。この人は、綺麗に生まれ変わった芝蔵なのかな。
女の人は最後に「助かるよ」と易しく言って、姿を消した。楠木は、再び意識が朦朧として、しばらくして途切れた。
この女が自分が命をかけて手に入れようとしている女なのだろうか。東は迷っていた。無様に命乞いをして、泣き叫んで、鼻水を出して、これが美だというのだろうか。
これは死をもってすら是正することはできないのではないのか?
人を殺しておいて、姉と同じ境遇の柚野を殺しておいて、自分は命乞いをする。これはとても――とても醜いことではないのか?
東は迷路に立花を追い詰めていた。行き止まりに、彼女はいる。
「終わりだよ。立花さん。さあ、後ろを向くんだ。苦しませずにやってやるから」
「嫌…」
立花はまだ観念しない。ツタが這い回る壁を懸命に乗り越えようとしている。往生際が悪い。この迷路の壁は高いのだ。女の体力では登ることができないだろう。
立花はだらしなく、スカートから下着を覗かせている。東はそれをみてほとんどの感情は生まれなかった。ただ、この立花という女に対して、自分は嫌悪感を抱きつつあると気付いた。
だが、もうやらなくてはならない。後には引けないのだ。楠木も全力ではないが殴り倒してしまったし、自分も罪を犯しているのだ。もうやるしかない。
東は立花に近づいていった。
すると唐突に、壁を乗り越えようともがいていた立花の体が、宙に浮き上がった。
「何だ?」
東が見ると、向こう側の壁から、男のものと思われる手が伸び、立花の手を掴んで上に引き上げているではないか。
妨害者だ。東はこの期に及んでも邪魔立てする誰かに怒りを覚えた。
するりと、立花は壁の向こう側へ渡った。東もその壁に急いで駆け寄る。すると、
「待って!待ってよ!」
という立花の声が聞こえた。それはともかく、助走をつけて東は壁を乗り越えた。
壁の先では、立花が倒れていた。右の足首を手で押さえていて、顔は痛みに歪んでいた。おそらく捻挫したのだろう。周りを見渡してみた。迷路の真ん中の、テラスのような場所だった。妨害者の姿は見えない。もう行ってしまったのだろうか。
「やだあ…」
立花の顔はもう女優とは呼べないほどにくしゃくしゃになっていた。東はバールを持つ手に力を込める。
「最後に」東は低い声で言った。「訊いておきたいことがあるんだ」
怯えた立花は、悲鳴すら上げなかった。素足が雪に突っ込まれているが、寒さを感じている様子はない。
「あんたは本当に、柚野を殺したのか?」
立花は黙っている。
「答えろ!」東はバールを地面に叩きつけた。
「ひっ」と立花は声を上げると、恐る恐るといった様子で言った。「殺…したわ」
「どうして、殺した」
立花は目を伏せた。「あの子が悪いのよ。柚野のくせに、私と同じオーディションに応募なんてするから…もし私が落ちたら、いい笑いものじゃない」
――姉さん。
あなたはこんな理由で殺されたんですか?
「雪の日に呼び出して、後ろから大きな石で殴ったのよ」
どうして死ななければならなかったんですか?
あなたは生きるべきだった。
それまで受けた酷い仕打ちから飛び立つために、
一番、生きるべき人だったのに。
「動くな」
知らない男の声が言った。そちらの方向を見ると、大柄で金髪の男がこちらに、拳銃のようなものを突きつけていた。人相は悪く、目は鋭い。
「あんたが妨害者か?」東は訊いた。
「ああ?何言ってんだ、お前」男は鋭く言う。「葛西だよ。俺は葛西」
「どこの葛西さんだよ」
今日はいろいろなことが起こる日だ。いろいろなことが起きて、わけがわからない。
「東」
聞きなれた声がした。その方向へ振り向くと、浅利が頭を抑えながらテラスへと足を踏み入れていた。
「お前もいたのか」東は言った。
「ああ、浅利。大丈夫か?」葛西が言った。
「すっごく、くらくらするけど、まあ、大丈夫」
浅利はいつも通り平坦な口調で言った。立花はあっけに取られている。
「誰なんだよこいつは。何でピストル持ってるんだよ」
「葛西っていう人。携帯で呼んだんだよ。近くに住んでるって言ってたから。こういう時に頼りになるかと思って。」
「っていう人って…」葛西は言った。「途中で連絡が途切れたから、携帯の着信音を頼りに浅利が倒れているのを見つけたんだよ。二階だとはわかってたから」
「東、あんたの考えてること、わかるよ。その子を殺して、ミイラにしようとしてるんでしょ」
立花は再び恐怖に顔を歪ませた。
「何でわかるんだよ」
「あんたどうせ神楽坂さんの言葉に影響を受けたんでしょ。皆と同じように。本当に、すぐそうやって暴走する。だから馬鹿だって言うのよ」そこで浅利は珍しく笑った。「でも私も人のこと言えないか。私はあんたと似ているのかもしれれない。美しさを追求するあまり、真実を見失う。だからあんたを見てるとイライラするのかも」
「へえ」
「どうでもいいけどよ、その棒を置けよ」葛西は威嚇するように言った。
「そうだよ。東。あんたの負けだよ」
東は立花をじっと見た。立花は震えながら歯をかちかち鳴らしている。乱れた髪や衣服を見ると、まるで浮浪者のようだった。今の東は彼女を見れば見るほど――
「やーめた」
東はバールを地面に落とした。雪が、L字型に跡をつける。
「随分あっさりだね」浅利は意外そうに言った。
東は何か清々しい気分になっていた。過去に囚われていた自分から、今卒業できた気がするのだ。東はもう立花を見なかった。見る必要がなかった。
「ゲーテは言った」東は言う。「相手の欠点も含めて愛せてこそ、本当の愛だ、ってな」
一同は黙って聞いている。東は続けた。
「この女の欠点は愛せない。あまりにも無様で、薄汚い」
東は息を吸い込んだ。森林が多いためか、新鮮な空気なような気がする。そして言った。
「立花佳織は、醜い」
立花は醜いと言われたことなどないのだろう。プライドをずたずたにされたように、彼女の表情は打ちひしがれていた。
東は初めて自分の意思で、重要な決断をした気がした。
「よく言った」浅利は言った。
浅利を見て東は思った。自分一人で考えて行動していたはずなのに、浅利がここにいて、楠木も九藤も校舎の中にいる。東は何だか愉快に思った。
「やっぱりわだちなんだ」東は空を見上げた。「人は他人無しでは生きていけない。人に影響されて、影響して、生きていかなくちゃいけないんだ。だから、基本的に皆わだちでいいんだよな」
「神楽坂さんみたいなこと言うじゃない。わだちを肯定したのはあんたのオリジナルかもしれないけど」浅利はからかうように言った。心なしか、いつもより表情が増えている気がする。
「それに、美は独占するものじゃない。共有すべきなんだ。永遠を求めたり、浅利みたいに失われるものが美しいとか思ったりするのは自由だが、わだちなんだから、皆で楽しむべきなんだ。俺は美さえあれば何もいらないと思っていたが、それは違ったみたいだな。俺はサークルが好きだ。その気持ちをもっと大切にするべきだった」
美よりも大切なもの。人とも関わり。いや、それこそが美なのかもしれない。
立花はまだぶるぶると震えている。恐怖が染み付いてしまったのだろうか。
「サークルにいることが、今の俺の幸せなんだ。とても小さなものだが、幸せに違いないんだ。皆と話して、馬鹿なことやって、浅利に叱られて、神楽坂さんにいろいろ教えてもらって。それは楽しい以外の何者でもない」
「楠木と九藤が、精神的に参っているみたいなんだ。また前みたいなサークルに戻れるかな?」浅利は言った。
「戻れるさ」東は言い切った。「俺が戻す」
「は?」浅利はいつも通りの無機質な声で言った。「あんたが?」
「俺はさ」
東はまた過去を思い出した。姉が虐げられていた、そのもっと前の時代を。
「パイロットになりたかったんだ」
「パイロット?」浅利が訊く。
「飛びたくても飛べなくて、動きたくても動けない人たちをたくさん運んでやりたかった。それを今思い出したよ」
「でもあんた楠木を殴ったでしょ」
「誤るよそれは」東は少し申し訳ない気分になった。「でもそういうことだ。わだちはわだちなりにそう思った」
葛西は取り残されたように突っ立っていた。そして同じように事態が飲み込めていない立花に向かって手を差し伸べ「何かわかんねえけど、あんた助かったみたいだぜ」と言った。立花は恐る恐るその手を握って、腰を浮かした。
すると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。パトカーと、救急車の音だ。
「やっべえ!」
葛西は立花の手を離した。立花はそのせいで雪に激しく尻餅をついた。
「何か解決したみたいだから、俺帰るわ。それじゃあな」
葛西は風のように去っていった。
「立花。わかってるな?警察になんか言ったらあんたの殺人も告発する」東は言った。
立花はうんうんと首を振った。浅利は「殺人?」と訝しげ顔をしていた。
東のポケットの中で、携帯電話が振動した。東はそれを取り出し電話に出た。
「はいもしもし」
「あ、アズマ?ハンナだけど」
「ああ、ハンナか。どうした」
「さっき日本に着いたんだけどさ、全然道がわかんないのよ。日本語読めないし」
「日常会話ぐらい勉強して来いよ。ここはヨーロッパじゃないんだぜ?」
浅利はその会話を聞いて「こいつ、英語喋れたんだ」と少し悔しそうにしていた。
「あ、そういえばさ、ハンナ」東は笑って言った。「美より大切なもの、あるような気がしてきたよ」




