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RUTS  作者: 三品大
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五十二話 一月二十日

   一月二十日


 昨晩から降り続いた雪は、すでに膝下あたりまでに降り積もっていた。東はブーツの隙間から入ってくる雪が冷やすつま先を盛んに動かし、暖めながら、新校舎へと向かっていた。昇降口までたどり着くと、脱げにくいブーツと格闘して、ようやく廊下へと足を踏み入れた。

 今日は今年初めてサークルのメンバー全員が集まる日だ。今日は九藤も来るらしい。立花を殺そうというこの日にサークル活動などしている場合ではないのかもしれないが、東は何故か行かなければならない気がした。行かなければ、二度とあの面々には会えないような、寂しさにも似た感情が心の奥底から突き上がってきたのだ。

 東は自分が思っている以上にあのサークルが好きなのかもしれないと思った。彼が中心となって話をして、浅利がうるさく突っ込みを入れて、楠木が二人の喧嘩をなだめて、九藤が笑って、神楽坂が締めの一言を言う。

 そのやり取りが楽しかったということは認めなければならないと思った。姉が死んでからぽっかりと開いた東の心に、あの者達が大きな穴埋めをしたということは事実だろう。

 だが、今度こそ、これで最後だ。自分は殺人を犯す。今までと同じように彼らと付き合うことはもうできないのだ。それにもし、殺人がばれて、東が警察に捕まったとしたら、その時のメンバーの顔は見たくない。大切な時間を過ごした仲間達が、裏切られたような目で自分を見るのは耐えられなかった。東は、今日限りでサークルをやめようと思った。

 新しい部室は一階にあった。前に一度、九藤がいなかった時に来たから場所はわかっている。かちかちに冷たく固まった両足を大きく動かして、その部室の前まで来た。

 最後だ、という気持ちが東を少しためらわせたが、それもわずかな時間だった。東は、部室のドアを開け放った。

「あ、東。久しぶり」

 九藤が最初に声をかけてきた。前会ったときは何か落ち込んでいるようだったが、今はそうでもないらしい。他には神楽坂以外のメンバーが集まっていた。浅利は東に疑わしそうな視線を向けていた。例の神の啓示について、懸念を抱いているのだろう。楠木は、目の下のくまもとれて、すっきりした顔をしていたが、まだ少し暗い面持ちだ。

「神楽坂さんは?」東は訊いた。

「奥の給湯室」浅利が抑揚のない口調で言った。

 この新しい部室には給湯室がある。なんとも豪勢なものだが、これも神楽坂の交渉能力のおかげなのだろうか。しばらくすると、彼がこちらの部屋に姿を現した。

「ああ。東君も来たか」

「こんちは」東は頭を下げた。

 東はジャンパーを脱いで、空いていた椅子の背もたれに掛けた。そして座る。神楽坂もパイプ椅子に腰掛けた。

「ねえ、東」九藤が言った。「今、ロザリア・ロンバルドの話をしていたんだ。イタリアに行ったんだろう?その時の話を聞かせてよ」

「いいぜ」東は腕を組んだ。「まず、イタリアでは神父に気をつけろってことだ」

「神父?」浅利が言う。

 東はイタリアで会ったホームレスか何かが化けた神父に金を巻き上げられた話をした。

「馬鹿じゃないの」

 浅利は呆れたような顔をしている。「いつも通りの馬鹿」

「あのなあ、あの状況で騙されない方がおかしいって。かなり神父っぽかったんだぞ」

「現地の人も騙されるわけ?」

「うーん、現地っていうか、一緒にいたドイツ人の女の子はわかってたみたいだったけど」

「女の子?」浅利は冷たい目で東を見た。「いやらしい」

「いやらしくないって。勝手についてきたんだって」

 九藤が手を口に当てて、可笑しそうに笑っている。相変わらず女っぽい仕草だ。

「まあまあ」楠木が、本当に久しぶりに二人の仲裁に入った。「それより、ロザリアっていう子はどうだったの?綺麗だった?」前にも訊かれたような気がするが答えた。

「綺麗だったよ。蝋人形の赤ちゃんは覚えてるだろう?あれよりも、美しいと思うよ」

「へえ」楠木ははじめて聞いたように、感嘆したように言った。前に言った時は聞いていなかったのだろうか。

「そうそう、忘れてたよ」

 神楽坂が言い、その場から立ち上がった。何事か、と皆の視線が集まる。

「いいワインを持ってきたんだ。今年初めて全員が集まったお祝いだ。皆、飲むよね?」

「いいですね」九藤が言う。

「ワインか。久しぶり」浅利だ。

 異論が出なかったので、神楽坂は奥の給湯室に歩いていった。

「そういえばさ」東は思い出して言った。「この前ある記事を読んだんだ。そしたら、硫化水素自殺が流行ってるからって、何かの商品が製造中止になったんだってさ」

「そうなんだ」

 楠木が言った。浅利と九藤は無言だった。九藤はかすかに表情を曇らせたので、東は何だろうと思ったが、続けた。

「その記事の引っかかるところはさ、『硫化水素自殺に悪用されるため』っていうのなんだ。自殺ってさ、悪なのか?好きで自殺するやつなんかいないと思うんだよ。どうにもならなくなって、追い詰められて、最後に死を選ぶわけだろう?なのにそれに対して悪だ、って言うのはなんだか可愛そうな気がするんだよな」

「自殺は悪なんかじゃない」

 九藤が、部室内が静まり返るほど大きな声で言った。

「わかってないんだ。その記事を書いたやつは、死ぬほど追い詰められたことがないんだ」

 全員が黙った。彼の言葉にはどこか重みがある気がした。彼はそれほど追い詰められたことがあるのだろうか。最近塞ぎこんでいたのがそうだったのだろうか。

 そう思った時だった。バリン!と大きな音が窓の方から聞こえた。一同はそちらをみる。音を聞きつけて、神楽坂もこちらの部屋にやってきた。

 窓ガラスが、見事なほどに割れていた。破片は部屋に散らばり、全員しばらく放心状態のまま時間が過ぎた。

「何だ?何でガラスが割れたんだ?」東が最初に言った。

「とりあえず、破片を片付けないと危ないね」

 神楽かはそう言って掃除ロッカーからちりとりとほうきを取り出した。浅利と楠木が立ち上がって、神楽坂からそれを受け取り、破片の除去を始めた。

 東は部屋の片隅に置いてあった使っていないダンボールとガムテープを手に取った。九藤と一緒に、破片を踏まないようにして大穴が空いた窓にダンボールをテープで無造作に貼り付けた。

「これで寒さは防げるな」

 東は言った。浅利が「どうだろうね」と反論する。

「どうして割れたんだろう」楠木が言う。

「何か一瞬人影が見えたような気がするけど」

 九藤が言うと「一体誰がこんなことを」と神楽坂が呆れたように言った。一階なので、窓は外に直結している。犯人はすぐに走り去ったようだ。何故ガラスを割るようなことをしたのだろう。誤って割ったにしては、逃げ足が速いように感じた。

「ま、後で学校に言えば直してくれるだろ」東は根拠なくそう言った。

「そうだね。じゃあそれは忘れて、乾杯をしようか」

 神楽坂はまた奥の部屋に歩いて行った。しばらくすると、いつものトレイにワイングラスを四つ乗せて出てきた。彼自身は下戸なので飲まないのだろう。

 全員にグラスを手渡すと、神楽坂は座り、コーヒーカップを手に取った。

「それじゃあ、今年もサークル楽しもう。乾杯」

 皆がグラスを上げた。もう、自分はこのサークルからはいなくなるのだ。そう思うと、ほんの少しだが、立花を殺すことがためらわれた。

東はワインを一口飲んでみた。葡萄の芳醇な香りが鼻腔に広がって、とても美味しかった。

「美味いっすね」

 東が言うと、皆もおいしいと口々に言った。見ると、浅利はもうすでにグラスの半分を飲んでいた。

「お前、少しは味わえよ。せっかく神楽坂さんが持ってきてくれたのに」

「うるさいな。美味しいから飲んじゃうんだよ。悪い?」

 また険悪なムードが流れる。楠木がにこにこして「まあまあ」と二人をたしなめてきた。

 それからしばらく、雑談が交わされながらワインが減っていった。神楽坂が給湯室へ行って、新しいコーヒーを汲みに行った時、楠木が申し訳無さそうに言った。

「私、ワインあんまり得意じゃないんだよね」

 よく見ると、楠木のワインはほとんど減っていなかった。すると、

「それじゃあ、僕に頂戴よ」

 と九藤が言った。楠木は「う、うん」と当惑した様子で答えた。その表情にはどこか九藤に対する戸惑いや疑いなどの成分が混じっている気がした。九藤は気分が良くなって調子に乗っているのか、気付かないそぶりで楠木からもらったワインをぐいぐいと飲んでいる。

 浅利はその姿をじっと見ていた。いつも通りの無表情だが、何かを考えているようにも見える。このサークルの中の微妙な違和感は、最近になって生まれたものだと思う。

 その後、メンバーは最近あったこと、面白いこと、芸術のことなどについて語り合った。東は、出し惜しみをせずに満足いくまで喋った。これが最後だという思いが、彼の中で重要な心の部分を刺激したのだ。

 数時間が経ち、空が暗くなり始めた頃、もう、これぐらいでいいだろうと東は決心した。

「俺、もうそろそろ帰るよ」

「そっか。じゃあ、またね。東」

 九藤が言ったが、東はうんとは言わなかった。もう終わりだ。最高の結末を迎えるために、サークルとは縁を切らなければならないのだ。

「じゃあな」

 東は皆を見ずにそう言い、部室から出た。ドアを後ろ手で閉めると、部室の中でまた話が始まるのがわかった。

 この部屋の中は、自分とは遠くに行ってしまうのだな、と東は思った。いや、遠くに行くのは自分か。東はふふ、と苦笑すると、昇降口に向かって歩き始めた。


 必要なものを車に積み、旧校舎へと向かった。駐車場には鎖が張ってあったから、それを外して進入していった。入った後は鎖を掛けた。一台も車がとまっていないことを確認すると、校舎をぐるりと回り、裏側へと回った。すると例の、迷路のオブジェが樹木に囲まれているのが見えてきた。東は、その近くまで行き、駐車した。

 荷物を運び出し、昇降口へと向かった。見ている者がいないことを周りを見て確認すると、鍵を開け、真っ暗な校内へ入っていった。電気はあまりつけたくなかったので、懐中電灯を持ってきていた。それで足元を照らしながら、歩いていく。

 目当ての教室は二階にあった。小規模の講義用の部屋で、まだ教卓や机は運び出されていなかった。おそらく、当分運び出す気はないのだろう。東は教室に二つあるうちの、後ろのドアを開いて、中を確認した。満足がいく部屋だった。

 まず東は荷物を下ろし、教卓まで歩いていき、その上に例の柚野の日記を置いた。そして前のドアの鍵がきちんと閉まっているか確認する。それに満足すると、東は荷物の中からはけを取り出した。青のペンキの缶を開ける。強いペンキの臭いがした。

 はけをペンキにつけ、前後両方のドアの内側の床に、一筋の線を引いた。その後は、教室内の床の至る所に同じように線を引いた

 東は次にピアノ線を持って、教室を出た。そして様々な場所の廊下の足元に、ピアノ線を横に張った。テープは線が外れやすいように、セロファンテープを使った。回収する時のためにそう多くは張れないが。

 今度はすべての棟を歩き回って鍵を開けた。それは、立花が逃げ出した時の保険だ。わざと教室の鍵も外し、袋小路に追い詰めやすいようにした。それらは、最終的にあの迷路に立花を追い込めるように工夫した。彼女が日記が置いてある部屋から出て、左へ逃げればそうなるようにした。

右に逃げた場合は、仕方がないが昇降口に追い込む。一階の渡り廊下の鍵は閉めておいたし、一階の東棟には一つしか階段がない。

三階の渡り廊下の鍵は全て開けておいた。立花が右に逃げて、さらに三階に行った場合、迷路に追い込めるようにする。

 だがおそらく、心理的に立花は左へ行き、隣の棟(中央棟)へ逃げるだろう。この旧校舎は十年前に増築されており、東、西、中央の三つの棟がある。命を狙う人間から逃げるには、姿を隠すため、渡り廊下を渡って向こうに行くと思われる。

 だがそれもあくまで保険だ。あの教室でしとめることができれば言うことはない。彼女が日記に気をとられている隙に、後ろから後頭部を殴る。それに失敗し、さらに教室から逃がした場合は廊下のピアノ線が役立ってくれる。ピアノ線が彼女の足で外れているのを見ることで、立花がどこに逃げたのかがわかるというわけだ。線は隣の棟(中央棟)に重点的に配置してある。念のため、教室にペンキの線を引いてあるから、靴の跡でも彼女の逃走経路がわかる。

 そして、あの迷路に誘い込む。迷路の地図は頭に入っている。それに、高い壁に囲まれたあの迷路の中は周りから見えないし、外は簡単な林になっているから、叫び声を上げても校舎の前の道路までは届かないだろう。あの教室で殺すことができたとしても、迷路を抜ける道を使って死体を運ぶことになる。

 東は最後に、凶器に使う鉄製のバールを教室内の机の陰に隠した。これで、後は立花が来るのを待つだけだ。

 東は突然、背筋に寒気が走った。きょろきょろと辺りを見回す。ペンキの線を踏まないようにして、教室を出て、また辺りを見渡した。

 誰かの気配のようなものを感じたのだ。いったい何なのだろう。だがそれも自分が神経過敏になっているからだろうと納得し、時計の針を見た。時刻は五時半。立花が来るまで、あと三十分だ。

 昇降口に向かいながら東は今までの人生について振り返っていた。彼はあまりにも悲しい経験をしすぎていた。両親の死、姉の死。姉は今の自分を見て何というだろうか。殺人を犯そうとしている東を見て、昔の優しい幸ちゃんはどこへ行ってしまったの、と言うかもしれない。だがそれは違うのだ。立花を殺すということは、優しさとは相反しない。何故ならば、東は立花を愛しているからだ。

 立花は自分が死ぬことを望まないだろう。だが、自らの欲によって柚野を殺したという罪は、死して償われなくてはならない。そうすれば、後に美だけが残ることになる。その美を求めて何が悪いのだ。

 昇降口に着くと、東は壁に背をつけ、立花を撲殺する瞬間をイメージした。バールを両手でしっかりと持ち、一気に振り下ろす。狙いが外れてはならない。そうだ。バールを振る練習をしておくべきだった。誤って、立花の顔に傷でもつけてしまったら全てが水の泡になっていしまう。

 突然、東の両手がぶるぶると震えだした。東は心を落ち着かせようと深呼吸をした。だが震えは止まらない。これでは駄目だ。もっと冷静に、淡々としていなければならない。そうでなければ、殺人など実行することはできないだろう。

 東は心を無にすることに努めた。余計な思念は排除して、殺意だけをそこに留まらせるのだ。しかし無にしようとすればするほど、そのスペースに様々な映像がよぎってくる。

 姉。あの綺麗な姉が、憎しみを燃え上がらせた立花に殺される映像。そして、姉はどこか知らない山奥に埋められ、誰にも知られずに白骨化していく。

 柚野は東にとって姉だった。陰惨ないじめを受け、それでも懸命に生きていたあの時の姉は、悲しくも、東は一番好きだった。それだけの強さが彼女にはあった。

 立花。君はやはり死ななければならない。それしかない。

 はっとして腕時計を見ると、もう時間まで五分と迫っていた。随分と長く考え事をしてしまった。もっとシュミレーションをしておくべきだったか。

 東は昇降口から外へ出た。屋根をかいくぐって、大粒の雪がちらちらと東の手の甲に付き、すぐに溶けて消えた。立花の氷のように冷たい心も、今日死によって溶けて柔らかい水滴と化す。東はそれをすくっていつまでも、いつまでも大事にするのだ。

 暗闇の中から、足音が聞こえた。東はすぐにその方向を見る。奥の道路を通った車のヘッドライトが、その人物を一瞬照らし出す。

 間違いない。立花佳織だ。

 一瞬、代理の人間を寄こしたのかもしれないとはらはらしたが、それはないようだ。立花は東へ近付き、一定の距離を保って止まった。手にハンドバッグを持っている。

「やあ。こんばんは」

 東は言うが、立花は答えなかった。その代わりに、敵意をむき出しにした表情を東にぶつけている。

「来てくれてよかったよ。もしかしたら、来ないかと思った」

 立花は嫌なものを見るような目つきで東をねめつけた後、言った。

「柚野の日記は?」

「学校の中に置いてある。中で少し話しをしたいんだ。ここは寒いしな」

「話すことなんて、何もない。このストーカー!」

 東ははは、と笑った。まるで立花が面白いことでも言ったかのように。

「日記には何が書いてあった?」

 立花は訊いた。こちらがどこまで知っているか探っているのだろう。それとも、引き抜いたページがどのページだったのか覚えていないのかもしれない。

「君が柚野にしたことを推測するには十分な内容が書いてあったよ」

 それを聞くと、柚野は顔面蒼白になった。この反応からして、彼女が柚野を殺したのはまず間違いない。東はこれからする作業に対し、気を引き締めた。

「あんた、最初からそれを知ってたのね?それで私をつけまわしたり近付いたりした」

 東は微笑すると「そういうことにしておこう」と言った。

 東が校舎の中に入ると、立花もついてきた。彼女も完全に建物内に入ったのを確認すると、東は日記が置いてあるあの教室の場所を立花に告げた。

「そこに日記はある。行きなよ。君に渡すために今日は呼んだんだ」

「どうして、私に渡そうと思ったの?」立花は疑わしそうに言った。

「言っただろう?少し話しをしたいんだ」

 立花は強張った表情を変えないまま、無言で階段がある方向に歩き出した。彼女が曲がり角で曲がり、姿が見えなくなったところで、東は素早く昇降口の鍵を閉めた。この扉は内側からでも鍵がないと開けられない。

 すぐに東も立花の後を追った。ここからあの教室までの道には、ピアノ線は張っていない。他のピアノ線が切られていなければ、この昇降口に逃げて来たとわかるから、問題なかった。

 立花は早足でずんずんと進んでいった。階段も足早に登っていく。それがあの世への階段だとも知らずに、どんどん進んでいった。東は少し可笑しく感じた。

 二階の例の教室にたどり着くと、立花はこちらをちらりと一瞥すると、ドアを開けた。後ろのドアだ。東もそこに入る。

「暗いんだけど。電気のスイッチつけてよ?」

 部屋の中心に立ち、立花は言った。

「壊れてるみたいなんだ」嘘をついた。「廊下の明かりで見えるだろう?」

「それと、ペンキみたいな臭いがするんだけど」

「そうだな。何だろうな」東はとぼけた。

 東はバールを立てかけてある机の隙間を確認すると「日記はその教卓の上にあるよ」と言った。すると、立花が教卓を見て、東に完全に背中を向けた。

 来た。ついにこの時が来た。東は音を立てないように注意しながら、バールまで近付いていき、それを手に取った。

 立花はゆっくりと、教卓に向かって歩いている。もしかしたら、東の脳内の物質が過剰に分泌されて、ゆっくりに見えたのかもしれない。だがそのようなことはどうでもよかった。東はバールを右手で持ち、背中の後ろに隠しながら彼女に近付いていった。

「話をしたいんだ。立花さん」

 何故か、東の口がそう言っていた。頭で考えたことではなかった。ここで立花が振り向いてしまえば、東の様子がおかしいことがわかってしまうかもしれない。だが何故か、そう言ってしまった。

 だが幸い、立花は立ち止まるが、東に目を向けなかった。そして言う。

「話すことなんかないって言ったでしょう?」

「柚野を、どうして、殺したんだ?」

 また、脳を経由していないような言葉が出た。そのようなことはもう明白ではないか。だが柚野は答えなかった。また、教卓に向かい、ゆっくりと歩き出す。

 もうやるしかない。ほんの一瞬で全てが終わる。そして、始まるのだ。東は息を殺して、立花に忍び寄る。大丈夫、君は死ぬが、その後は自分が大事にする。

 東は高鳴る心臓の音が立花に聞こえてしまうのではないかと心配するほど神経が鋭くなっていた。額と頬に大粒の汗が浮き出るが、手には汗はかいておらず、バールが滑るということはなさそうだった。

 次の一歩が最後だった。その後は、バールを振り上げて、思いっきり彼女の後頭部に叩きつけるだけだ。あと一歩。

 その一歩はあっけないほどに、一瞬で縮まった。立花はまったくこちらに気付いていない。そして、教卓の上の日記に今手を伸ばそうとしている。

 東は呼吸を止めた。そして、バールを天井に向かって振り上げた。

 今だ!死ね!立花!そして俺のものになるんだ!


 バンバン!


 突然何かの音がした。窓の方だ。

それは明らかに、誰かが窓を叩く音だった。立花と東は同時にそちらほ方へ目を向ける。

 窓ガラスには、廊下からの明かりによって、凶器を振りかざす東の姿がくっきりと映りこんでいた。

「きゃああああああああ!」

 立花は東に体を向け、絶叫した。彼女のその動きで、東の攻撃が鈍った、彼女が顔の正面を東に向けたことで、バールの軌道をそらすしかなかった。バールはテーブルに当たり、ガキン、と金属音を鳴らすと、すぐに停止した。

 立花は恐怖を顔中にあらわにし、前の扉に向かって走り寄った。

 東は冷静だった。その扉は閉まっている。またこちらに背を向けたことが命取りだ。扉が開かないとまごついているうちに、しとめてやる。

 東は余裕をもって立花の背後に走ろうとした。

 立花は、前の扉を開き、廊下へ出て行った。

 どうして開くんだ!

 東は焦った。計画が、見事に失敗してしまった。これではいけない。東は素早く床に目を向けた。底には立花のハンドバッグが落ちていた。

 自分に、落ち着け!と心の中で怒鳴った。どうせ、迷路にしかたどり着けないようになっているのだ。東はハンドバッグを拾い上げ、中身を探った。その中には、おそらく、臨時用の携帯電話が入っていた。

 ベランダも見てみた。そこには誰もいない。あの窓を叩く音はいったい誰が鳴らしたのだろう。

 東はペンキの線を踏まないようにして、教室から出た。廊下を見ると、ピアノ線が外れている箇所が見えた。

 君はそっちへ行ったのか。今すぐ追いついてやる。

 だがふと、別の道にも目を向けてみた。

 すると、何故かそこのピアノ線も切れていた。おかしい、と東は思った。東は走り、ピアノ線を張った場所を確認して回った。

 その辺りにあったほとんどが、切られていた。

 頭が混乱した。これでは立花がどこに行ったのかがわからない。これはどういうことなのだ。これは悪夢か。自分が頭を振り絞って考えた目論見が、ほとんど全て外れてしまっているではないか。

 まず、今バールを振り下ろそうとした時に、窓を叩く音が聞こえた。次に、掛けておいたはずの教室の前の扉の鍵が開いていた。そして、逃走経路を知るために張っておいたピアノ線がほとんどあらかじめ切られていた。

 東は狼狽した。このようなことがあっていいのだろうか。まるで誰かが東の魂胆を見抜いて、妨害しているかのようではないか。

 いや、そうなのだ。この旧校舎の中には、妨害者がいる。東が立花を殺すことを良しとしない人間が、東の行動を失敗に導こうとしているのだ。

 いったい誰なのだ。この計画は誰にも話していないはずだ。それなのになぜ?

 東は頭を素早く横に振った。落ち着け。冷静になれ。まだ失敗したわけじゃない。そう思っていると、徐々に頭の中がすっきりしてきた。そしてその頭でよく床を見ると、青い斑点のようなものが所々についているのがわかる。

 それは立花の靴跡のかかとの部分のようだった。いいぞ。かろうじてペンキの線を踏ませることに成功したようだ。その足跡は、隣の棟(中央棟)に続いている。東はそれを辿って走り出した。渡り廊下にも、青いペンキが付着していた。

 これで立花にたどり着けるだろうか。そう思っていた矢先に、東はまた壁に直面する。あの教室がある校舎の隣の棟(中央棟)に入った途端、靴跡のペンキが薄くなり、消えかかっていたのだ。それは渡り廊下に吹き込んだ雪のせいだと思った。それがかかとにつき、水滴となってペンキを薄くしたのだ。

 東は自身の動揺を抑えようと、大きく息を吸い込んだ。薄くなった足跡からわかるのは、この棟に入って右へ行ったということだけだ。東はそちらの方向に駆け出した。

 しかし、この先どうすればいいのだろう。いくつかの教室の鍵は開けてしまっている。その中に立花が潜んでいる可能性もあるため、いちいちそれを確認して回らなければならない。ピアノ線は依然として切られている。この妨害はいったい何の目的でされているのだろうか。単純に、殺人を防ぎたいのだろうか。それならば、姿を見せて直接助ければいいではないか。

 それに、あまりにも妨害が完璧すぎはしないだろうか。だから、妨害者は複数人いるのかもしれない。

 そう思っていたとき、この棟の、中庭を挟んださらに隣の棟(西棟)に、人影が見えた。棟と棟は中庭を挟んでいるため、窓からその棟の廊下の様子がわかるのだ。

 東は咄嗟に窓の下に身を隠した。姿を見られては、また逃げられてしまう。東は慎重に頭を出して、向かい側の廊下の様子を見た。

 それは立花ではなかった。

「楠木?」

 そう、それは楠木だった。彼女は一人で、向かいの廊下を歩いていた。これはまずい。おそらく、彼女の姿は立花も見ているはずだ。助けを求められたら、またやっかいなことになってしまう。東は考えた。

 しかしどうして楠木がここにいるのだろう。この誰もいない校舎でいったい何をしているのだ。今日は不測の事態が多すぎる。東は歯噛みをして、頭を回転させた。



 死にたくない!

 立花は、必死に走っていた。どうしてあの男が自分を殺そうとするのだ。許して欲しい。もう何も悪いことはしない。誰か助けて!

 ふと、誰か人がいる気配がした。立花は立ち止まり、身構えた。すると、隣の校舎(西棟)に、誰かがいるのがわかった。

 あの男だ。東とかいう男が追ってきているんだ。そう思ってよく見るが、それは東ではなかった。それは小柄な女の子だった。

 立花はまた走り出した。助かる!あの人に言って、警察に電話してもらおう。そうすれば、死ななくてすむ!隣の校舎(西棟)へかかる渡り廊下へ出るためのドアを開けようとした。

 そのドアには鍵がかかっていた。しかも内側から開けられない。ここを使えなければ、遠回りをしなければならない。

 立花はそう思ったのと同時に走り出した。廊下を全力で駆け、曲がり角を曲がり、壁にぶつかりながら進んでいった。電気をつけられないので足がもつれて何度か転んだ。その度に擦り傷を作り、顔が汚れた。しかし今はそれを気にしている場合ではない。

 夜の校舎のねっとりとした暗闇が、立花の足をしきりに取ろうとしているような気がした。いくつもある暗がりから、あの東が鉄の棒を振り回して飛び出してくるのではないかと恐ろしかった。

 立花はようやく隣の校舎(西棟)に到着した。そして、廊下の先を見た、すると、あの女の子が、曲がり角を曲がろうとしているのがわかった。

 大声を上げて呼び止めたかった。でもそれを聞きつけて、東が追いついてくるのではないかと恐かった。だから声が出なかった。

早く警察に連絡しなければならない。そうしなければ、あの男はあの女と自分の二人を同時に殺そうとしてくるかもしれない。

 立花は女の子が曲がった曲がり角を曲がった。すると、前方にその姿が見えた。女の子はゆっくりと歩き、辺りをきょろきょろと見渡している。立花はついに助かる、と息を切らせ、喘ぎながら走った。

 すると、女の子が、側の教室へ入っていった。

 追いつける。早く。早く行かなければ。

 永遠とも思える距離を、立花はようやく完走することができた。開け放たれたドアから、教室へと飛び込んだ。

 だが、その教室には人はいなかった。何故だと思い言ってみる。

「どこ?どこにいるの?」

 すると、背後から返事があった。

「ここよ」

 女の子は、ドアの陰に立っていた。手を後ろに組んで、立花を見ている。

「ああ、誰か知らないけど、助けて欲しいの!殺されそうなのよ!警察に電話して!」

 立花は一気にまくし立てた。必死だった。あの東の歪んだ笑みが、立花の恐怖心を限界まで膨らませていた。

 だが女の子は、くすりと笑った。何も言わず、微笑んでいる。

「ちょっと!聞いてるの?襲われてるのよ!変態に襲われてるの!」

 女の子はまだ笑っている。そして言った。

「こんなところにいたのね」

「え?」

 立花は絶句した。この女は何を言っているのだろう。

「浅利ちゃん。うふふ」

 女は不気味に笑った。そして、立花に一歩近付く。おかしい。この女はどこかおかしい。目がうつろで、にやにやと笑っている。

 また一歩近付いてきた。立花は後ろへ下がる。女は後ろで組んでいた手を前に出した。その右手には、銀色に光るナイフが握られていた。


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