五話 十二月十四日
十二月十四日
楠木優は浅利さつきを愛していた。一目見た時からその想いは変わっていない。
浅利は完璧な美を備えていると思った。楠木は幼い頃から美に対する執着心が並外れていたと自負している。ゲーテは、自負し過ぎない者は、自分が思っている以上の人間であると言ったと、神楽坂がいつだか話していた。それでも楠木は自負していた。浅利さつきは確かに美しい。
神楽坂がサークルのメンバーを募った時、この人は、優れた人間を周りに集める才能があるのだろうと思った。それだけ、サークルの人間はみな美しかった。だから、神楽坂は唯一、楠木が認める異性だ。容姿も美しい。
しかし楠木は、美に関しては常に男より女が優位に立つという持論を、子供の頃から失ったことはない。そして浅利こそが、いつもベッドに入り天井を見つめながら思い描いた、理想の人間像にぴたりと一致するのだ。
自分が女に偏った愛情を持っていることを自覚したのは小学校に入ってからだ。クラスメイトの女の子たちが、あるサッカー部の男の子がいかに格好いいかを熱心に話しているのを聞いていても、まったく同意できなかったのだ。それよりも、学年でもとびっきりに可愛らしい女の子と、どうやって友達になろうかと考える方が楠木にとっては重要だった。
自分の欲望が同じ女として理解できないものだということは、子供ながらにわかっていた。だから、この気持ちを誰かに打ち明けたことはない。もしそうすれば相手は顔をしかめ、まるで地球外の未知の生物を見るような表情をするだろう。楠木はいつも、少し金持ちの家で生まれ育ってはいるけれど、あくまで普通、というように、日常生活に支障のないよう同級生に対して、あるいは大人たちに対して振舞っていた。
そのため女友達がとぎれたことはないが、プールの授業がある時はいつも女生徒の裸体を観察することをやめなかったぐらい、彼女の欲望は強固なものだった。
彼女は可愛らしい女の子の人形を愛でるのが好きだった。金持ちの両親は幼い楠木にたくさんの人形を買い与えた。しかし、楠木が気に入っていたのはたった一体だけだった。それ以外はどうでもよかった。その人形だけが、子供心ながら完璧に見えたのだ。艶のある長い髪、滑らかな肌質、そしてどこか達観しているような表情など全てにおいて、欠点が見当たらなかった。楠木はその人形に『ゆき』と名づけた。肌が雪のようにしろかったからである。
毎日、楠木はゆきを手入れした。髪をくしで溶かし、肌を専用のアルコールで綺麗にし、香水をつけて服は毎日取り替えた。その服も完璧なものでなくてはならなかった。鋭い観察眼を持っていた楠木は、裁断や裁縫の甘さをすぐに見抜いたので、両親は常に最高級品を買い揃えなければならなかった。もちろん汚れなどいっさいあってはならない。しみ一つ見逃さずに、あった場合その服は捨てた。
ゆきが生きていたらいいのに、と考えるまでそれほど時間はかからなかった。もしそうだったならば、声はこうだったらいいとか、性格はこうだとか、様々なことを想像しては楽しんだ。
楠木は周りの人間にゆきの影を追い求めた。ゆきに似ている子供を見つけては、友達になっていった。
しかし、ゆきはいなかった。理想の人間など存在しないのではないかと一時諦めもした。
そして大切にしていたゆきは、小学校五年生の時、誤って床に落とした衝撃で腕が破損して取れてしまった。楠木は迷わずゆきを捨てた。ゴミ箱のなかで汚くなっているゆきを見て両親はかなり驚いたが、楠木にとっては完璧でないものは必要なかった。
だが喪失感はあった。理想に最も近かったものが自分の手からなくなってしまったという事実は、楠木の少し普通でない感情をさらに普通でなくした。
楠木はゆきを失った時を境に、人間の女に対してそれまでより強い欲望を感じるようになった。可愛い女の子を見つけると、必ずどうにかして裸を見た。その興奮はゆきを失ったことによる作用とも言えるかもしれない。人形の穴埋めを人間でしていたのだ。
だがその女の子が男と付き合ったり、トイレに行くところを見かけたりすると、強い怒りにも似たものが湧き上がってきた。楠木の美学に反することは生きていく上で山ほど訪れた。だから楠木は、美の理想の形を想像の中でより強めていった。
「おまたせ」
楠木は声がした方を振り返った。その瞬間ほとんど性的な興奮が彼女を襲う。
「早めに来たつもりだけど」浅利は頭を掻いた。「結構待った?」
「ううん。全然」
楠木は幸福感に胸をいっぱいにした。浅利はダークグレーのパンツを履いて、ダッフルコートを着ていた。くすんだ赤っぽいマフラーをしていて、髪はその内側に入っている。
商店街のはずれにある、大きな銅像の前で待ち合わせをしていた。この日曜日をどれほど待ちわびたことか!楠木はあらためて浅利の顔を見てみる。
白い肌にすっと通った鼻筋。大きくて少しツリ上がっている目。黒くきらきらしている髪の毛。
ああ、浅利は『ゆき』なのだ。
あの時失った理想が、今目の前にいる。
「どうしたの?楠木」浅利は抑揚のない口調で言った。
「ううん。別に。じゃあいこっか」
ショッピングに出かけるだけで、これほど胸が踊るような気持ちになることはない。今まで何回も浅利と二人で出かけているが、いつもそうだ。
「そのニット帽、可愛いね」
浅利が何気ない様子で楠木を褒めた。その一言で有頂天になりそうになる。
「そ、そうかな。ありがとう」
アーケードの商店街を進みながら、白い息を吐いている浅利の横顔を盗み見る。
やはり完璧だ。
楠木は、必ず浅利を手に入れると心に誓った。




